神浦港
 大島は古くから海上交通の要所として開けていました。天然の良港である的山湾には、室町時代の「隋明船(隋明使節団)」をはじめ、中国大陸へ渡る船団など多くの船の寄港地でした。

 倭寇などの中継地として利用されたと思われる、”海賊が浦”という地名も残っています
ようこそ。的山大島へ!

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大島村とは 〜大島の歴史〜


 
 まずはじめに「的山」とは「あづち」と読みます。

 大島は、奈良時代に作られた「肥前風土記」に記されている「大家島」のことと言われています。「肥前風土記」は、今から
1280年前頃の記録です。 島内で発見されている石器の年代から大島には2万年程前から人が生活していたと思われます。

的山湾

 


 またこのあたりは、中国大陸や南方の通じる海洋に面し、古くから有名な豪族が活動しています。

「御厨荘御家人」と呼ばれた大島氏は、鎌倉時代に地頭職として認められた貞応3年(1224年)から寛永6年(1629年)まで、少なくとも405年の間、大島を支配しています。

 寛永6年(1629年)に最後の領主信政公が亡くなった後、大島氏は福岡に向かい、来島と姓を改めて黒田藩の家臣となり、幕末まで存続しています。代々伝えられた大島氏の記録「来島文書」は中世の第一級の史料として九州大学に収蔵されています。

 近世の大島に大きな変化をもたらしたのは、捕鯨業でした。














 明治11年大島村・的山村となり、明治22年に村制施行により大島村となっています。平成元年に村制100周年を迎え、平成18年平戸市と合併しました。

 現在もさらなる活性化に向け取り組んでいます。

参考文献:ジュニア版大島村の史跡めぐり