2025年度版 2025年4月~2026年3月
’25年09月05日(金)  寮に帰ったら男子寮生にコロナ患者が増え、合計4人になっていた。女子バスケは校外にある別の寮に住んでいて患者はゼロ人だが用心に越したことはない。全員に警告を発した。もっとも注意しなければならないのは男子寮生とともに済んでいる私なので5年前の生活に遡ってマスク生活に戻った。 
’25年09月04日(木)  9月になってまた全国あちこちでコロナが流行し始めた。それが島原中央高校にも波及してきており、私が寝泊まりしている寮でも罹患者が2人出たのだ。気になるのは女子寮の様子だ。男子寮の2名に合わせるように女子寮に居る2名が学校を休んだのだ。崔コーチからはこの2人は体調不良で練習を休みますという連絡は入っていたのだが周辺にコロナ患者が増えてくると心配になる。と思っていたところへ2人とも今日練習に出てきた。どうやらコロナではなかったようだ。ホッ。 
’25年09月03日(水)  午後1時半に開始した練習をまた今日も2時半に打ち切った。A子が私がNGと指定しているプレイを簡単にやってしまったからだ。そのプレイをやったからといって直ちにミスプレイに繋がるわけではない。その危険性があるというだけだ。私が許せないのはNGプレイではなく、全く意に介しないで軽率にやってしまう心の奥底が気に入らないのだ。だが彼女等はそこまでわかろうとはしない。 
’25年09月02日(火)  3SUNCUP UP NEWPAGE3 
’25年09月01日(月)  島原中央高校はオフ日。よって島原には戻らず終日長崎の自宅でゴローンとしていた。 
’25年08月31日(日)  会場を移してカブトガニに応援場所を変えたがここも全滅。野澤氏と2日間に渡って会食しながらフィバアジアの回顧録について話し合ったが、選手強化に限らず、スタッフ強化・運営強化、その他すべての面で力を結集しないと勝ち抜けない。おい、みんなで頑張ろうぜ! 
’25年08月30日(土)  九州国体初日、成年男子と成年女子の種別が闘うシーハット会場は全滅した。よって明日大村に留まる必要はない。だから明日は長崎市のカブトガニアリーナで開催の少年女子を応援に行こうと思う。すると、私のクルマで長崎市内の旧友に会いに行っている雅子に大村市まで足を伸ばして貰い、私を回収してカブトガニに向かって貰わなければならない。ゴメン。 
’25年08月29日(金)  明日と明後日が九州国体本県関係の試合だが、今日は大村市の野澤氏から「久々の大村なので前泊で来い。2日間とも晩メシを食う店を予約した」と言われたので中央高校の練習後にシャワーを浴びて車を走らせた。平日なので道路は混んでおり、約束の時間(午後7時半)ギリギリに大村に着いた。話は当然七転八倒してなんとかやり遂げたFIBAASIAの話から始まる。13年前の事だが、私が初めて知る裏話が3件もあった。相棒の私にも話せない裏話が野澤氏にはあったのだ。 
’25年08月28日(木)  ピッと笛を鳴らす。本人と目が合う。数秒後「お前今何した?」と聞く。本人はキョトンとして取って付けたように「あ、ダブルドリブルをしてしまいました」と言う。そんなことはしていない。私が禁止しているノーキャッチ片手パスをしたのだ。その挙げ句が本人に自覚がない。そろそろ辞めどきかなあ。 
’25年08月27日(水)  国体成年女子の練習。夕方7時開始。会場は鶴鳴。カマラが参加するのだが、崔コーチは私用で休暇を取っているから私が送迎しなければならない。送迎だけではなく、クローズアウトの要領も指導依頼があって島原に着いたのが22:30を過ぎていた。風呂に入るのも面倒くさいから明日の朝入ることにしてもう寝る。 
’25年08月26日(火)  昼前、ジェイから電話がかかってきた。「今日は午前中に行事が終わったので練習を午後1時から始めていいですか?」と。スマホに登録してある予定では午後4時開始となっている。こんなことはしばしばある。学校行事表はすでに貰っていてそれに基づいてバスケ予定を作るのだが、学校行事は時々変更になる。その通知が私まで届いてこないことがある。今日もその1つだ。私は「30人もの人間がいながら誰1人予定表を見ていなかったってことか!1人でも間違いに気付いた者が居たら当日ではなく事前に、先生これ間違ってますよ、と連絡があってよかろう!」と怒鳴りつけて練習を打ち切った。こんなの、私が助っ人として手を貸すようなチームではない。
’25年08月25日(月) 今日はオフ日なので島原には戻らず自宅で微動だにせず休養を取った。 
’25年08月24日(日)  長崎市内で国体成年女子との練習試合を済ませたら島原に戻るつもりで身の回りの品物を何も持たずに自宅に着いたがそこで明日はオフ日だと気がついた。そしたら島原に戻る必要はない。ところがパソコンは島原に置いたままだ。すると日々の出来事の更新ができない。だから今日から3日分のブログを更新する。まず24日の試合結果報告から、カマラを国体チームに貸し出しての練習試合だから当然試合にならない。20点以上の差で負けた。 
’25年08月23日(土)  午後から生田会長のお世話で選手達はバーベキューパーティ。私は鶴鳴時代かrあこんなイベントには参加しない。明日は島中と国体成年女子が練習試合をするのでその審判(ベンチ?かも)をする。だから今から長崎の自宅に帰る。 
’25年08月22日(金)  昨日の「5ヶ月」がまだアタマにこびりついているのか、今日は苦言が多かった。ACL損傷や前歯骨折やらの大きなケガで戦列を離れている数人が少しずつ戻ってきている。その最後の1人(浅野=群馬県出身)が今夜帰ってくる。これで全員揃うワケだがこれらの選手が戦列に復帰するのは10月のウインターカップ予選以降になるだろう。その間、他のケガ人や事件が発生しないよう細心の注意を払って練習を進めなければならない。 
’25年08月21日(木)   ここにもう5ヶ月滞在しているというのにバスケが表現できない。個々の技術はそこそこなのだが、それをこの場面で使うか?というのがなかなか浸透しないのだ。これは、私のベスケ生活史上初めての出来事である。理由は分かっているのだがそこをつつき過ぎれば混乱させるので思案中なのである。それにしても5ヶ月は長い。
’25年08月20日(水)  長期国内出張から戻って2日目、ようやく体調が回復した。茨城ではいろんな人が見学に来たがその中に高島(旧姓)も混じっていた。彼女は茨城で小学校の教員をやっていたが数年前に文科省が主催する青年海外協力隊に応募して合格し、ケニアに出張していた。その時ケニアの女性の貧しさを目の当たりにし、ケニアの女性のために何かできないかと考え、日本に帰ったら教員を辞めて商売をしようと考えた。その商売とは、アフリカの丈夫な綿布を使って洋服を作り、それを世界市場に拡げることである。そのためにケニアの女性たちに洋裁の技法を伝授し、製品が売れたらそれを彼女たちに還元し、生活の糧にしてもらうのだ。自分がこの商売でひと儲けしようなどとはこれっぽっちも考えていない。で、今は教員をやめて3ヶ月交替で日本とケニアを行ったり来たりする生活をしている。今回は私にアフリカ綿のシャツをプレゼントするためにわざわざやってきてくれたのである。
’25年08月19日(火)  お盆明けの練習再開初日。1時間半で終わった。選手が長いオフのあとだったこともあるが私の身体が保たなかったことが最大の理由である。昼メシと晩メシ以外はひたすら寝て明日からの練習に備える。 
’25年08月18日(月)  大村空港には18:30に着いた。しかしそれから島原までは1時間半かかる。諫早でウナギを食べ、クルマを運転して島原へ向かい、ブログを更新するのも忘れて寝た。 
’25年08月17日(日)  cranesは3位だった。1位は埼玉2位は宮城のチームだったが私がどんなに手を入れてもcranesはこの両者に勝てるチームにはならない。修正しなければならない箇所がたくさんあるし、それを修正するのにかなりの期間を要するからだ。バスケットボールはそんなに簡単な競技ではない。また、コーチが人間としての年数を重ねなければそう簡単にマスターできる競技ではない。 
’25年08月16日(土)  今日はクリニックなしで、cranesが参加するカップ戦の視察に行った。2試合とも勝ったので明日もある。だから明日も視察だ。 
’25年08月15日(金)  まだ守谷市滞在2日目だがもう5日ぐらい居る気がする。 
’25年08月14日(木)  羽田から守谷(茨城)までクルマで送って貰ったからすんなり移動できた。お盆の間は東京から人が居なくなったから町ががら空きになるから車の方がJRより移動が早いのだ。練習は5時から7時まで。どこにつまずきがあったのかというとコーチの教えすぎが浸透しすぎていてこどもたちが「あ、そんなことやってもいいんだ」にならないことだった。そこを徹底的に直した。それを見事に実行したのが小3の小さな体格の子だった。もちろん私はその子を取り上げる。明日はこれを2~3人増やそう。 
’25年08月13日(水)  まだふくらはぎは張っていて足首はむくんでいる。だから今日も早く寝ようと思う。明日は朝8時に家を出て羽田に向かう。明日からの対象はミニバスだが昨日までの3日間のクリニックでしかもこれまでに数回実施したことのある対象だったのでそれほど苦労はしなかったが明日からのクリニックは初対面のミニバスだ。そこがちょっと不安だなあ。 
’25年08月12日(火)  下関クリニック最終日。立ちっぱなし動きっぱなし声出しっぱなしの3日間だったので、足首はパンパンにむくんでいる。でも明日1日休んだら茨城での5日連続のクリニックが待っているので疲れたとか言ってられない。日本国中どこからでも依頼されたら断らずに引き受ける。だれのせいでもない。自らが招いた宿命だ。そのために今日はこのブログを書いたら寝る。
’25年08月11日(月) 昨日のホテルではさんざんな目に遭ったが今日も復旧していない。ホテル側は他ホテルを斡旋するのでそっちに宿泊してくれという。了承したがそれがなんと小倉駅前のホテルだ。なに~。明日のクリニック最終日は小倉から下関まで通えというのか?他の宿泊客の中にも明日は下関市内でどうしても処理しなければならない仕事があるので下関市内にしてくれと頼んでいる人がいる。そりゃそうだろ。ホテル側も客の明日の用件次第では下関市内のホテルも紹介しますぐらいの配慮をしろよ。そんな仕事ぶりでは客をなくすぞ。 
’25年08月10日(日)  自宅を朝4:43に出て下関に向かった。今日から3日間クリニックである。ホテルは落雷の為に停電で電気は使えない。よってブログも更新できない。以上 
’25年08月09日(土)  毎年8月9日は祈りの日(原爆記念日)で長崎の生徒達はみんな登校して祈りを捧げる。だから今日の練習は午後からだ。ところが私は朝7時にたたき起こされた。犯人は集中豪雨だ。寮の南側のドア窓ガラスの隙間を通して雨風が吹き込む。寝ているベッドの上に突然雨粒が落ちてくるので驚いて目が醒めた。練習は1時間半で切り上げた。私のガソリンが切れたのだ。 
’25年08月08日(金)  今日は午前中時津中学校(ABLAIZE)が練習試合に来た。こっちのメンバーは、カマラを外し、ジェイを外し(脇にひどい湿疹が発症して汗をかかせられない)、松尾をはずし(足首捻挫)たメンバーでやった。窪田は使って試したかったが右手親指のひどい突き指で出せなかった。というわけで、吉田・奥野・高松・松岡の3年生に橋本・生田・本庄谷を加えた7人で闘った。1年生からコートに出してやれるような選手はまだ現れない。 
’25年08月07日(木)  今日の練習は2時間経過したところで打ち切った。私の体力が保たなかったからだ。なぜ体力が保たなかったのかは声をいっぱい出したからである。なぜ声をいっぱい出したかというとカマラに声をかけるとカマラが反応するからである。それならこれもと欲が出る。声を出すのは身体を動かすより疲れる。寮に帰ったあとはバターンとベッドに寝て4時間くらいそのままだった。 
’25年08月06日(水)  昨日腰痛で休んでいたカマラは今日来た。このことについて崔コーチに尋ねた。私がここに出入りするようになってからカマラはしばしば腰痛といって休むが何なんだと。ヘルニアだと回答があった。それは母国で診断済の症状なのかこちらへ来てから診断されたのかと問うた。こっちに来てから診断を受けたという回答だった。私はたしかにヘルニアかもしれないが軽いという文言が入り、それを休みたいときにうまく活用しているな、と答えた。私はX線画像もMRI画像も見ていないので信用はしていない。 
’25年08月05日(火)  AM練習。終わればすぐ自室に戻りひたすら安静にしておく。明日のエネルギーをチャージしなければならないからだ。練習時間以外でも明日の練習のことしか考えない。それがあと8ヶ月続く。 
’25年08月04日(月)  朝4:40に目を覚まし、6:00に長崎市内のホテルを発ち、島原から選手を乗せてくる(JBAのペナルティは選手を直接指導したりはできないが選手は全員寮生なので選手の送迎は校務だからOK)崔コーチと諫早競技場で落合い、福岡市内の福大若葉高校に向かった。前々から誘いがあったのだが今日重い腰を上げてそれを実行したのだ。ところが島原からやってきたマイクロバスにカマラが乗っている。このところ練習をボイコットしてずっと来ていなかったのに。「なんだカマラは」と崔コーチに聞いたら「カマラが山崎先生に話しがあるというので、じゃあバスに乗れといって連れてきました」という。どんな話があるのかは聞いていないともいう。若葉の体育館ではプレイ着姿だ。それで2度ビックリ。選手の誰かに「何だカマラは。プレイするつもりか?」と聞いたら、そうらしいという。カマラが私にどんな話をしたいのか聞く間もないまま若葉とのスクリメージが始まった。1本目のはハーフタイムに「お前、後半も出るのか?」と聞いたらYesという。私はカマラの話は「もう山崎先生の練習にはついて行けないのでやめます」と言いたいのだと思っていたのだが違った。夕方4時頃までスクリメージは続きボロボロに負けて島原への帰途についたが、カマラがどんな話を私にしたかったのか聞かないまま諫早競技場で別れた。明日からカマラはどうするのかも聞かないままだ。なんだこれは???? 
’25年08月03日(日)  いよいよ合宿最終日。ほんとに選手はがんばる。この暑い中苦しそうな表情はまったくみせず高校生や県内の強豪中学に果敢に挑んでいく。私も若さを取り戻したい。写真①戦いの様子。写真②顕彰碑1991年インターハイ優勝時。写真③なんじゃもんじゃの木(対馬にしか自生しない天然記念物。1991年の5月に始めて真っ白な花を咲かせた)。 
’25年08月02日(土)  合宿4日目。今日は武者修行で長崎市内の学校に出かけた。純心高校と純心中学に相手をしてもらい午前午後と2部練。双方やればやるほど活気が増し、試合内容も午後は一段と激しくなった。久々に目にした若者の可能性に心を洗われた1日だった。夜は平成2~3年のチームの同窓会をやったが、残念ながらスマホとパソコンの相性が悪く動画を送れなくてHPにはクリニックの様子を掲載できなかった。
’25年08月01日(金)  午前のみBLAZEの面倒を見て午後はイルカウォッチングに出かけた。結果はハズレ。私は15年間こどもたちを連れて毎年行っていたが今年のように1頭も見つからなかったのは初めてだった。でも、バスケは今日まですべてうまくいっていたのだからこんな日もあるさと思わなければなるまい。 
’25年07月31日(木)  合宿指導2日目。レッグスルードリブル・ビハインドチェンジドリブル・リングから遠い位置でのハンドオフプレイ・ペイントエリア内でのリアターンがやたらに多いのは全国共通の傾向のようだ。しかもその功罪を考慮せずあたかも流行に乗り遅れないためだけの目的でやろうとするプレイにはさすがに私も最後はがまんがならずチェックを入れた。明日の変化に期待しよう。 
’25年07月30日(水)  神奈川県茅ヶ崎市を拠点とするU15のクラブチーム(BLAZE)が昼過ぎ大村空港着の飛行機で合宿に来た。宿舎は雲仙の麓にある舞岳山荘だがそこを素通りして中央高校へ直行。午後2時から5時までクリニックをやった。クリニックは私自身が身体を動かして説明することが多いので疲れるが、この子たちはこちらの意図をくみ取る能力が優れており指導していても楽しかった。
備考:コーチは浜松インターハイで鶴鳴が優勝した時のポイントガード高山(旧姓松尾)朋子氏である。 
’25年07月29日(火)  カマラは予想通り無断欠席。他はいつものメンバーが揃っていた。カマラは予想通りだが他の選手の危機感がまだ足りない。これは練習量を増やしたり、レクレーションをやったりして解決できる問題ではない。選手1人ひとりの心の奥底から変えていかなければどうにもならない問題なのだ。昨夜ダバが母国に帰ったが替わりがまた来るらしい。だからどうにかなるという問題ではない。日本人自身が自分に問いかけ、危機感をもって取り組んで欲しい。 
’25年07月28日(月) 本来今日はオフ日なのだが昨日長崎に行った時そのことはアタマからすっぽり抜けており、着替えやクスリやパソコンなど何一つ持って行っていなかったので今日は早々に自宅を引き揚げ、寮に戻って残務処理をした。カマラの一件で明日からの練習がまともにできるかどうかは判らない。 
’25年07月27日(日)  今日は純心高校で国スポ成年女子の練習があった。それにカマラも参加した。カマラが参加するので残りの中央も参加する。国スポと中央が試合をし、次に純心とカマラ以外の中央が試合をし、さらに中央の主力を抜いた選手たちと純心の主力を抜いた選手と試合するなど、プログラムは忙しかった。そんな中で午後カマラがまた私から史上最大の雷を落とされた。この雷についてはカマラだけでなく、学校・保護者・カマラ以外の現役選手・その他諸々の関係者が真剣に考えなければならない。よそものの私がこんなに怒りまくって、当事者がのほほんとしていてはチームの再建などあり得ないからだ。 
’25年07月26日(土)  今日佐藤氏に加えて県内の指導者+選手が参加した。指導者だけではなく選手も参加したということは来春入学するつもりの選手だろうがその時私はもう居ない。最近の私は怒りでぶち切れる日が多い。私は1年間の助っ人で依頼されたのだが、チームがそんな危機的状況に置かれていると認識しているのが1人もいないからだ。任期の3分の1が過ぎたが任期が終了するまで私の気持ちが保つかどうか怪しい。
’25年07月25日(金)  今日から3日間、都立白鴎高校の佐藤先生が見学に来る。今朝は8:50に海望荘にクルマで迎えに行った。都立だからスポーツより勉学優先なので人数も少ないはずだし練習時間も制限されるはずだ。そんな環境でわざわざ長崎まで研修に来るとはよほどの事情があるのだろう。彼は父親の転勤により小学校から高校までずっとアメリカで過ごしている。そんなことも影響しているのかもしれない。私は自分の体力温存で練習後は島原市内観光にはつきあえなかった。ゴメン。
’25年07月24日(木)  学校は夏休みに入っているがバスケ活動は稼ぎ時だ。今日までは自チーム主体の練習だが明日からは見学来客やらチーム合宿やら県外遠征やらクリニックやらが目白押し。8月18日まではずっとそんなことが続く。私も水分をこまめに摂ってミイラ化しないように気をつけなければ。 
’25年07月23日(水)  夕方7時から9時まで国体成年女子の練習にカマラを連れて行って参加した。今日はスタッフたちが私の疲れ具合を見て審判をやってくれたので死ぬ思いはしなくて済んだ。帰りの車中でカマラに質問した「カマラ少しおりこうになった?」と。カマラは「おりこう」が判らなかったようなので「おりこう means smart」と言ってアタマを指さしたら判ったようではにかんでいた。 
’25年07月22日(火)  今日は昨日全く出場しなかった部員だけで練習した。昨日試合に出た選手はオフ。12名だったのでそれをふたつに分けて簡易ゲームをした。下級生ばかりなので当然だが目が幼稚だ。この選手たちを新人戦までに使えるようにしなければならない。人育てのノウハウは持っているがはたしてそれが通用するかさえ不安だ。 
’25年07月21日(月) 寮に帰ってきたら玄関の下足箱の下でムカデ(7㎝)が死に絶えていた。玄関の引き戸周辺に撒いてある白い粉(殺虫剤)をかいくぐって上がり框まで侵入したもののそこで息絶えたようである。恐るべムカデの執念。キャーッ!
備考:reskogohai25UPです。先ほど試合が済んだばかりなので勝ち上がり表は明日UPでしょう。brakogohai25 
’25年07月20日(日)  島原中央に来てからなんだか用心深くなって試合案内や試合結果をHPにUPしていませんでしたが、全国の多くの人々が知りたがっている情報で、多くの人々が参考にしている情報をコソコソやるのが馬鹿らしくなったので従来通り公開します。該当者で自分の個人情報を公開されるのを都合が悪いと思われる方はお知らせください。スポーツ大会の結果はすべての競技団体で公開されています。reskogohai25
’25年07月19日(土)  縦横無尽に動けるようになったカマラだが、カマラの根深いところに巣くっているカッとなる性格はあと数ヶ月の訓練では直せないようだ。ただ、直したい!と思ってプレイしているのは伝わってくるのでこちらが「もう我慢ならない」にならないように付き合っていかなければならないようだ。 
’25年07月18日(金)  幸いジェイは今日も元気でプレイできた。あとは、松岡がこの大会期間中(皇后杯)にコートに立てるようになるかどうかだ。明日からの久々の公式戦に備えて今日の練習は1時間45分で終わった。カマラは縦横無尽に動けるようになった。 
’25年07月17日(木)  今日と明日は練習を2時間で切り上げる。ジェイが以前骨折した左手の甲を再受傷したからだ。再受傷したけど医師からはテーピングをしっかりして、2日後の皇后杯には出て良いと言われたから出るらしい。明確な骨折線はX線上では見られいそうだ。しかし予防措置はしておかなければならない。もちろん、私からもやってよいプレイとやってはならないプレイは指示した。今日の練習もジェイ用に特別アンテナを1本用意した。 
’25年07月16日(水)  またムカデが出たらしい。これで3回目だが、今回のは大きくて10㎝を少し切るぐらいあったという。私は洗濯物を裏の者干し場へは干さず部屋干しにした。時々洗濯物に混ざって野球部の選手たちの部屋に持ち込まれるからだ。人間から私の行動を邪魔されるのは予測していたがムカデまでとは・・・。洗濯物干しを部屋干しにするだけじゃなく、戸締まりも隙間なくびっしり閉めなければならない。 
’25年07月15日(火)  朝10時から2ヶ月に1回の歯医者、そのあと1ヶ月に1回の不整脈の検診。そして午後1時半開始の練習に間に合わなければならない。だからバイクで移動した。クルマだと混雑したり駐車場が見つからなかったりするので時間が読めないからだ。バイクは風を切って走るから爽快だろうと思う人が居るだろうが、30℃以上の猛暑の中を太陽に照らされて片道1時間半往復するのはきつい。サンマの網焼きではないが自分の身体から煙りが出そうだった。 
’25年07月14日(月)  今日から4日間3者面談で授業は午前中で打ち切り。だから部活は1時半から始められる。今日は1:30に始めて3:50に終わったが、3時半を過ぎた頃から私の足が動かなくなった。明日はまた島原⇔長崎を走らなければならない用事があるのでしばらく寮の自室で休んでから今日の内に自宅に帰ろうと思う。フウ・・・ 
’25年07月13日(日)  日高氏クリニック2日目。今日はずっとスクリメージなので私もずっと審判だった。11時半頃血糖値低下で死にかけたので補液と補食をした。それでも疲労は回復せず、純心の体育教官室で1時間ほど昼寝をさせて貰ってから島原に向かった。1年契約の3分の1が過ぎたが、残り3分の2を無事生き延びられるのかなあ。 
’25年07月12日(土)  今日と明日、長崎成年女子の指導で東京から日高先生が来られたので島原に引っ込んで居るわけにはいかない。挨拶に出向いた。挨拶だけではない。カマラが国体成年女子に選ばれているのでその補助も含めての行動である。復活したカマラは絶大な影響力をもって貢献するはずだ。さあ、国体を契機に島原中央も再出発だ! 
’25年07月11日(金)  私が島原に常駐するようになってからカマラがまともにプレイをするのは見たことない。それがどんなきっかけで寮にもコートにも顔を出すようになったのか知らないが、再度顔を出したあとのカマラにはしぶしぶとかイヤイヤという感じはなく、私の指示を聞くし普通にプレイをする。それなら私も構想が立てやすい。しかも今日のカマラの出来は「これなら私の闘いも無駄にはならないだろう」という目だったし動きだった。まだ信用し切ってはいないが。
’25年07月10日(木)  今日は午後から島原に戻った。今週から来襲にかけてはいろんな行事が立て込んでいて長崎⇔島原の繰り返しが続く。昨日と今日はクルマで往復したがそれでも片道1時間半を何回も繰り返していればそれだけで体力を消耗する。それを倒れずに支えているのはカマラの復活だけだ。雲仙は過去の歴史から激甚災害を起こしている地なので復活カマラもいつ激甚災害を起こすかわからない。それが不安であってもやるしかない。 
’25年07月09日(水)  今日はBPKの日、また創成館高校まで走った。もう身体は疲労の極地である。しかし、カマラが復活したのでここは私も踏ん張りどころ。泣き言やグチは言ってられない。今日は自宅のベッドで寝るが明日はまた寮のベッド、あさってはまた自宅のベッドと長崎⇔島原の行ったり来たりがめまぐるしい。だけど踏ん張りどころだ。 
’25年07月08日(火)  昼前にまたバイクで島原まで走ったが、今日は野球の試合で全校応援なのでバスケ練習ができるかどうかはわからない。ジェイとスマホで連絡を取り合ったが、野球の試合は午後4時に終わった。それからマイクロバスで学校まで戻るには1時間半かかるからほぼ練習は不可能だ。そう伝えて私は自室のベッドで横になって休養を取った。 
’25年07月07日(月)  バスケ協会数人と近況報告の食事会をしたので島原の練習は私の出番である後半メニューを先に済ませ、自分たちだけでもできるシューティングを後半に持ってきて私は自分の出番を済ませたら長崎にバイクを走らせた。晩メシを食うためだけに片道1時間半かあと思いながら走った。 
’25年07月06日(日)  本来中央バスケ部は月曜日がオフなのだが都合で今日(日曜)をオフにして明日(月曜)をr練習日とした。私は長崎には帰らず終日寮で過ごしたが疲労は極限で寮の廊下を歩くにもふくらはぎが痛いのでほとんどベッドでじっとしていた。 
’25年07月05日(土)  そんなにうまくいくもんか。練習後自室に戻って何度も苦笑いした。そんなことが起こるチームなら1ヶ月くらいまえにその兆候は出ている。今日は元の木阿弥。悲惨に戻った。83年も人生を重ねた自分が近頃の若者をコロッと信用してしまったのがはずかしい。 
’25年07月04日(金)  今日は練習後しばらく体育館の玄関で大の字になって寝ていた。疲労の極限だったのだ。なぜそこまで頑張ったかというと、目も当てられなかったディフェンスが今日の練習で少し活気を帯びてきたからだ。だからこの機を逃すものかという思いで私も踏ん張った。気温は昨日と同じ34℃。暑い!などとは言ってられない。今日の動きが偽物でないならここからこのチームは変わるかも知れないのだから。 
’25年07月03日(木)  湿度は50%しかないが室内温度は34℃。教える私がヘトヘトだ。特に今はディフェンス強化の練習に集中しているから教える私の身体が崩壊寸前になる。おそらく選手たちもあちこち筋肉痛が起こっているはずだ。でも皇后杯までは手を抜かない。 
’25年07月02日(水)  審判の研修会(BPK)があるので創成館高校まで出向いた。長崎で催しがあるときは夜島原に戻らず自宅で寝て翌朝島原に向かうが、バタバタしていてHP更新用のパソコンは学校に忘れ、睡眠導入剤も学校に忘れたのでちょっと困った。 
’25年07月01日(火)  昨日不貞寝をしている間に決心をした。ヨシ!明日からずっとディフェンスの強化だけに特化したメニューを続けよう。おそらく悲惨な状況になると想像しながら練習を始めたが想像通り悲惨な結果になった。悲惨だったのは想像通りだがそれよりショックだったのが自分たちのできばえは悲惨だと選手たちが感じていないことだった。 
’25年06月30日(月)  練習はオフ日なので1日中寮の部屋で不貞寝をしていた。明日、機嫌を直してコートに立てる自信はない。 
’25年06月29日(日)  今日は開始から1時間20分で練習を打ち切った。何回注意してもディフェンスを熱心にやらない選手が2人いるからだ。その2人は今日だけじゃない常にそうなのだ。私が指導する内容をやらない選手が居るのならば助っ人が私でなければならない理由はない。 
’25年06月28日(土)  午前の練習を終わり、すぐ日大高校で実施される国スポ少年女子のセレクションで審判をし、夕方6時からはニューヨークから里帰りした立川美礼たちの同窓会に顔を出した。同窓会の最中には8月のお盆の時期に茨城からのクリニック依頼が舞い込むなど忙しい1日だった。 
’25年06月27日(金)  この前は室温31℃湿度75%。その時は窓をすべて開放し、大型扇風機は4個すべて回して練習した。今日は湿度こそ先日より低く60%だが室温は34℃。しかも気象庁は本日梅雨明け宣言。アチャーッ。9月の声を聞くのはまだ3ヶ月先だぞ。科学者の誰かさん。地球を丸ごと冷やす方法を考えてくれえ。
’25年06月26日(木)  夕方6:26に練習を終わって創成館高校までクルマを飛ばした。今日はBPK審判研修会がある日なのだ。片道1時間20分かかった。やっぱり島原は遠いわ。明後日はまた午後から日大高校まで出向かなければならない。少年女子のセレクションがあるのだ。世話係のスタッフや選手たちに「おつかれさま」を言うためだけに顔をだす。これも長老の務めだと思っている。 
’25年06月25日(水)  夕方7時からの成年女子トライアウトにカマラを伴って顔を出した。9時に終了したが島原に帰り着いたのは22時40分だった。やっぱり島原⇔長崎は遠い。 
’25年06月24日(火)  ノソーッとした動き、たぶんそれが私は嫌いなのだ。それがセネガル人なんですよと人は言う。それを言うなら日本に出てくるな。自国に留まっておけ。日本に来たら日本人になれ、と私は言いたい。 
’25年06月23日(月)  島原の選手の顔を見るのは久しぶりだが楽しくはない。たぶん、私自身の心の中にセネガル人嫌いが染みこんでいるからだと思う。私は日本国籍を持っている日本人だが日本を好きになれない。それは太平洋戦争でもっとも悲惨な少年時代を日本人として過ごしたからだと思う。それとセネガル人嫌いは別問題だが嫌いなものは嫌いだから仕方がない。
’25年06月22日(日)  今日まで九州大会を観て明日島原に戻るつもりだったが、今日の試合は観ないで昼頃長崎を発ち島原に戻った。天気が崩れてきたからだ。1時間半も雨に打たれて島原まで走りたくない。今回はバイクのチェックの件もあって長崎までバイクで戻ったからこんなことになったのだ。前後輪のタイヤ交換、前後輪のディスクパッド取り替えその他プラスヘルメット購入で9万8千円かかった。だけど走りは快適になった。 
’25年06月21日(土)  九州大会初日。第1試合開始の9時から第5試合終了の4時半まで、ずーっとカブトガニアリーナに居た。見たい試合があったワケではない。いろんな人に挨拶に行かなければならないし、逆に挨拶も受けなければならない。最後は県外コーチ2人と餃子を食べに行った。練習や試合を観るのではなく人と会うことに気を遣うのは疲れる。明るいうちに長崎の自宅に帰り着いたがそのあとは何もしたくなかった。 
’25年06月20日(金)  今日で期末テスト終わり島原中央の練習は再開できるのだが明日九州大会観戦のためにチームは長崎に来るので、バイクで長崎の戻っている私はまたバイクで往復することになるので、今日の練習は顧問に任せて長崎に留まることにした。 
’25年06月19日(木)  19:00~21:00創成館高校で行われた審判研修会に顔を出した。もう審判資格の更新はしないが、福岡氏の進行はコーチーングやクリニックの進め方にも参考になる。だから、福岡氏の進行手順や受講者の目付き動きからも目を離さない。しかし、後半は腹が減った。 
’25年06月18日(水)  新車購入時から3年、どこも手入れしていなかったスクーターの手入れをこのテスト期間中に済ませた。総経費9万8千800円かかった。しかし軽快に走れるようになった。 
’25年06月17日(火)  コーチライセンスの更新は、支払をクレジットカード決済で申請したが何回やってもダメ。結局コンビニでの支払いにしたが。クレジットカードを紛失して再発行して貰ったのに古いカード番号を入力し、何度も失敗したので入力不能になってしまったようだ。コンビニから急いで帰って大谷選手の663日ぶりのピッチングを見たが大谷選手がマウンドに上がると球場内はシーンとなり(熱狂ではなく)不思議な緊張感が漂った。まさに彼はただ者ではない。 
’25年06月16日(月)  コーチライセンスの登録は済ませていたと思っていたが、リフレッシュ研修を受けただけで支払手続きは忘れていたので更新したことにはなっていなかった。時期が東長崎中を辞めて島原中央に移籍した時期と重なってバタバタして失念していたのだ。まったくドジだよ。 
’25年06月15日(日)  懸案のスクーター無償修理作業のために長崎に帰ってきた。期末試験終了(20日)までは長崎に居るので、起きるのも何時に食事を摂るかも何時に寝るかも自由である。しかも今日は超ハッピーな出来事が続いた。11時に放映開始のBS1で6月は10試合連続HRなしの大谷選手が2打席連続の24・25号を打ったのだ。午後には宝塚記念で7番人気のメイショウタバルに騎乗した武豊騎手が1番人気のベラジオオペラを抑えて優勝した。こんな日はめったにない。
’25年06月14日(土)  今日はカマラが風邪で休んだので通訳なし。ダバのシュートフォーム改造に着手したが私の英語説明にうなずきはするものの本当に理解しているかどうかは疑問だ。でも、しっかり聞いて理解しようとする態度は偽物ではないようだ。今日の練習後2日間オフでそのあと期末テストがあり時短練習となるので、2ヶ月前にヤマハから通知が来た無償修理実施をやってもらうために長崎に帰ることにした。何日間の作業になるかはわからない。 
’25年06月13日(金)  カマラが戻ってきて何が便利かというと、ダバの通訳ができることだ。ダバは英語はまったくダメ。こっちはフランス語はまったくダメ。 だから、私の意志が通じるのは私が英語で喋ったことをカマラが現地語であるワラフ語で通訳してくれる時だけだ。留学生との意志疎通がこんなにスムーズにいくのは23年ぶりだ。
’25年06月12日(木)  宮本輝氏初の長編大河歴史小説(全4巻)の第1巻を読み終えた。幕末から明治にかけての日本の動きを題材としているが他の歴史小説家とは違った観点と表現でなかなか面白い。詳しく書くとこれから読む人へのネタばらしになるのでここまでしか書かないが、宮本氏の初版(流転の海)は全9巻を35年ぐらいかかって書き上げたのに比べて今回は8年と、約4分の1の時間で書き上げている。プロでも慣れればそんなスピードでかけるのだと感心してしまった。 
’25年06月11日(水)  ダバは正式に測定したら186㎝しかなかった。やっぱり。それより驚いたのはカマラが突然練習に参加したことだ。聞けば3日前から寮には戻っているという。そんな情報が私にはまったく入ってこないのだ。よかったよかったとは思っていない。ダバに加えてカマラ、それに日本人の教育、この3つが重なったとしか思っていない。さてどうする。 
’25年06月10日(火)  2人目の外国人留学生(セネガル 190㎝)が練習に参加した。私は全く信用していなかったが、少しはバスケを習った形跡がある。それで、どう利用するかやどう育てるかは見当が付いたが、それより日本人の教育に手を焼いた。彼女が参加している時は彼女専用のアンテナを用意しなければならないのだがそれができない。教育はそこから始めなければならなかった。備考:1人目のセネガル人はどこでどうしているのか、もう2ヶ月私の視界に入っては来ない。
’25年06月09日(月)  バイク走行中にスマホを落として、それが後続車に踏まれて登録していたアドレス帳の大半を失ったが、ドコモの協力で多くが復活したので連絡を取り合っていたら、52年前の全中優勝時のメンバー数人とランチしようということになった。3時間ぐらい梅の花に居座り続けたが、武器を持ち込むのは禁止と言ってあったので実害はなかった。ホッ 
’25年06月08日(日)  ジェイと奥野はまだできないし、高松にもオフを与えたので人数は少なくなったが練習時間は短縮されない。理由は、若手中心になるのでどうしてもストップしてチェックが入るのが多くなるからだ。でもシーズン全般のことを考えるとこういう時期も必要なのだと思う。 
’25年06月07日(土)  ジェイはもちろん、奥野も明日は歯茎が腫れて痛いから練習は無理だろう。だから主力トリオのひとりである高松を明日はオフにした。そうするとジェイ・奥野・高松の主力トリオの休養バランスがとれて足並みが整うのではないかと考えた。 
’25年06月06日(金)  主将のジェイは左手甲の第5中手骨にヒビが入っているのが判明したし、奥野は前歯が折れていることがわかったので留学生が合流したといえども私はまだウィンターカップ予選に向けて体制が整ったとは思っていない。
’25年06月05日(木)  2ヶ月遅れで2人目の外国人留学生が到着した。それを受けて私は選手たちに「よかったよかったではなく、自分たち(日本人)がどれだけ頑張るかでウィンターカップ予選の結果は決まるよ」と言った。
’25年06月04日(水)  今日は高総体代休で学校や休み。バスケ練習も休み。終日暇なので今日は喧嘩の準備をすることにした。喧嘩といっても不良少年ではないから殴ったり蹴ったりはしない。教唆煽動罪・不法占拠罪・不退去罪・脅迫罪・虚偽告訴罪・肖像権侵害罪などに該当するものを並べて吟味する作業だ。朝7時から夕方5時までパソコンとにらめっこだった。が、まだ充分ではない。 
’25年06月03日(火)  今日までオーバーワークの選手はオフ。該当するのは3年生3人と2年生3人だが、身辺多忙で多くの選手が休んでいる。したがって練習は下級生10人でやっているが来年も多くは望めそうにない。強いところに行きたいと思ってやってきても、自分が働かなければ自分の給料は上がらないという社会生活の鉄則を教えるがまだピンと来ないようだ。 
’25年06月02日(月)  2日がかりでエクセルを修復し、ようやく試合結果報告に手を付けた。パソコンは鶴鳴時代の中頃に覚えたが、教員のパソコン研修で学んだのではなく我流で覚えたのでこのようにバグるとどこから手を付けていいかわからなくなる。これを業者に丸投げして自分は手をこまねいているだけならもっと前にさじを投げているかもしれないが、自分でなんとかしようと思ってうやっているうちは「俺にもまだエネルギーが残っている」と思うことにしようと思う。 
’25年06月01日(日)  昨日バグったパソコンを修正しようと思って体育館まで持って行ったが直らず、家に持ち帰って続きをやったが却ってもつれてしまってまだ直らない.。だから試合データは更新できなかった。代わりに奇異なことを報告しよう。試合中どうやら俺をターゲットにしてカメラを向けている人物がいる。多分俺の言動に不備があったらそれを取り上げてJBAに挙げ、俺を崔コーチの二の舞の生け贄にしようと思っているヤツの仕業だと思うが、俺に喧嘩を売っているのならば受けて立とうと思う。 
’25年05月31日(土)  午後6時から今日の試合のデータ処理を始めたが、エクセルがへそを曲げていうことを聞かず臨時の応急処置でどうにか今日の分だけは変則処理で切り抜けた。午後11時までかかった。明日はちゃんとできるかどうかわからない。 
’25年05月30日(金)  さて、高総体の練習最終日、スタメン5人は予定通りシューティングのみで帰宅。身体の動きやシュートの格率を観察していたらいつもと変わらず良くもなく悪くもない。ここまできたのだから明日からの結果は私の双肩にかかっている。なんと、私の生涯最後の年度が困り果てた高校の再建ベンチとは・・・。どこにいるどんな神様か知らないがずいぶん無茶ぶりをするものだ。お前しかやれないのだからという意味での無茶ぶりだと思うので渾身の力を振り絞って締めくくろうと思う。 
’25年05月29日(木)  今日はスタメンの5人が練習に参加する日。練習が始まる前に「明日のスタメンはシューティングの1時間のみ参加してそのあとは帰宅」と告げた。何10年も前の私なら「今日の出来が良かったら明日はシューティングのみ」と条件提示をしたと思う。それで「じゃあがんばろう」と奮起するような安物選手たちなら本番でもだめだろう。予測通り今日のスタメンは最悪の出来だった。でも明日はシューティングのみだ。 
’25年05月28日(水)  スタメン外しの練習だが私は不満だ。3日前目に光りが宿っているのがいないと嘆いたが今日も同じだ。自分にもコーチの目が届くかもしれないと思わないでコートに立って何の楽しみがあろう。これは島原中央の選手がということではなく日本全国の部活動がこんな状態だというのを現している一例だと思う。それほど緩くなっているのだ。将来のオリンピック危うし。 
’25年05月27日(火)  新粥・高松・奥野・松尾・松岡のスタメン5人は昨日の一昨日の2日間休養させ今日練習に参加させたが明日もオフにして明後日はまた参加させようと思う。本番の出場時間を考慮すればそれくらいで丁度バランスが取れるだろう。選手たちは試合直前にこんな休んで大丈夫かなあと多少心配するかもしれないが私は数10回経験済みだ。大丈夫!追伸:今日は崔コーチの奥さんが生まれたばかりのこどもを連れて見学に来た。こどもはいつ見てもかわいい。 
’25年05月26日(振)  高総体の案内ファイルがなかなか送信できなかったが今日ようやく送れた。遅れた理由はチーム内のゴタゴタでなかなかメンバーが決まらなかったからである。チームが落ち着くまでまだまだ道は遠い。 
’25年05月25日(日)  今日はスタメン5人を休養日としたのでそれ以外のメンバーでの練習だった。実際にプレイできるのは14人、これを4人組と3人組のふたつにワケ、4人組はフルコートスクリメージ、3人組はハーフコート3対3を繰り返した。この間私の目はひとり1人の目付きや表情に注がれる。ここをチャンスと見て自己アピールをしようとする者が居るかどうか観察したのだ。いない。残念! 
’25年05月24日(土)  前々から申し込まれていた練習試合を受け入れた。後半点差が開きそうになったのでできるだけ若手を出そうと思って交替をさせたが主力組が支え切れなくて逆転された。私が掌握しきれていない選手の内面が暴露されたのだろう。本番ではサービスなし、どんな相手でも勝負優先で行かなければならない。 
’25年05月23日(金)  室温27.5℃。過去30℃超えは何度も経験したことがあるがここ最近では今日が1番高いのじゃないかと思う。だけど、動きが悪くなってはいないので練習は通常通り続けた。2時間40分だった。 
’25年05月22日(木)  今日も一昨日に引き続き暑かった。後半ペースダウンするかなあと思っていたが調子を維持できた。それで今日の練習は最後のスクリメージを省いて「今日の練習はこれで打ち切り!」と宣言した。ここで頑張らせ過ぎてケガでもされたら元も子もない。たまにはこんな日があってもいいのだ。 
’25年05月21日(水)  可もなく不可もなし。 
’25年05月20日(火)  18・19と2晩自宅で過ごし島原に戻ったが、自宅に居ても島原に戻っても何も代わりはしない。時間が空いたら本ばかり読んでいる。。仕方なくであって好んで読んでいるのではない。歳だから何をやるにもものぐさになっているのは事実だ。橋幸夫さんが認知症を公表したという記事を見たが彼は82歳、俺よりひとつ下だ。気をつけたからってどうにかなるものではないが認知症だけにはなりたくないなあ。 
’25年05月19日(月)  中央はオフ日。山崎は長崎の自宅でオフ。ダラダラと過ごす。 
’25年05月18日(日)  朝1発目の試合は私の審判から始まった。チームは2試合目が初戦だ。審判のことについて述べておこう。吹けと言われればいくらでも吹けるが、ライセンスの更新申請は今日限りで辞めた。カップ戦での帯同審判はもうなかろうし、何より更新後の登録料を払うのがもったいない。練習試合で吹くのにライセンスは不要なのでそれで済ませる。ル-ル変更への対応は自学自習をおこたらなけえば間に合う。シャトルランは122回の記録(54歳時)をもってるので体力的にも大丈夫だ、 
’25年05月17日(土)  中央高校の練習が終わった後寮の自室でちょっと昼寝をしてから長崎に向かった。明日長崎・佐世保の高校生及び国スポ成年女子チームとのスクリメージをするので一足先に自宅に戻ったのだ。外国人留学生はまだ復帰していないし、先の春季選手権で膝と足首の重傷ケガ人を2人出しており、残りのメンバーで再構築を図って初めての対外試合なのでどうなるか判らないがようやく全員の名前と特徴はほぼ覚えたのでなんとかなるだろう。 
’25年05月16日(金)  今日から高総体まで短縮授業。水・金は通常でもバスケ部の大半が所属しているスポーツコースは午後2時から練習できるが短縮となればさらに20分早く練習は始められる。私の場合は練習の出来が悪くても決して2時間半を超えることはないから選手たちはずいぶんゆとりを持って練習に臨めるはずだ。それは鶴鳴時代からずっと変わらない。訓練や修行というものは、終わりがはっきり判っているから頑張れるもので、いつ終わるか判らない練習を手抜きせずに頑張れる人間などいない。 
’25年05月15日(木)  一昨日元ウルグアイ大統領だったホセムヒカ氏が亡くなったことを知った。89歳。死因は食道ガンだった。食道ガンは末期ですでに肺に転移していた。残念! 
’25年05月14日(水)  今日から平常時程に戻り、水曜と金曜は午後2時から練習ができる。スポーツコースは5・6校時から部活をやって良いというシステムだからなのだが、30名居る部員の中で特進クラスにいる子は3名だけなので何の支障もない。今日からシューティングの時間を40分伸ばしたがそれでもスクリメージに当てていた時間は短縮せずにやれた。ストップをかける回数が減ったからだ。そこらへんは中学生の指導に比べると圧倒的に楽だ。ミニや中学のコーチの皆様ご苦労さまです。 
’25年05月13日(火)  一昨日(体育祭翌日)の練習はすばらしい出来だった。昨日はオフ。そして今日、一昨日の練習は季節外れの線香花火だったのか、それとも実力UPの兆しだったのかこの2日間気になっていたが「なるようにしかならん!」と開き直って普通に練習を始めた。結果は良くもなく悪くもなし。たまたまであれ実力UPの兆しであれ1回できたということは間違いない事実なのだから。 
’25年05月12日(月)  今日は体育祭の代休で学校は休み。バスケもオフ。先月まではバスケオフの日は時々長崎に帰っていたが今は余程重要な事案がないかぎり1時間半も運転して長崎に帰る気にはならない。今日も寮の自室で本を読みながらゴロゴロして過ごした。 
’25年05月11日(日)  昨日体育祭だったので今日の練習は1時間遅れの10時開始にした。昨日部員の不埒な行為の情報が耳に入ったので不愉快な気分で出かけたが練習は私が中央高校に関わり始めてから最高のできばえだった。そこでホワイトボードに「看板」と書いて、今日の練習がホンモノならバスケ部は中央高校の看板部活になれると評した。 
’25年05月10日(土)  今日は体育祭。昨日教頭先生がわざわざ体育館まで来て「先生、明日は是非体育祭に顔を出してください」と招待されたが行く気はなかった。あと10ヶ月のことを考えると、バスケ指導以外の時間は極力体力温存のためじっとしておきたいのだ。しかし、ベッドの上でゴロゴロしているとアタマの中に選手たちが登場してううごめき出す。そうして半日が過ぎたが身体は休まったもののアタマは疲れて結局安息日とはならなかった。これだとコートに立っているのと同じではないか! 
’25年05月09日(金)  今日は長崎の歯医者を予約してある日だ。治療ではなく歯の保全が主目的で2ヶ月に1回の検診である。だから朝食後すぐクルマで長崎に向かった。終日雨だったがクルマを貸与して持っているのでこんな時助かる。循環器内科にも月1回の割合で通っている。今日は診察日ではないが別の日にまた島原から通うのは大変なので事情を説明して今月の診察は今日にしてもらった。忙しい1日だった。 
’25年05月08日(木)  昨日に引き続き厳しい注文を飛ばした。中でも赴任当初から言い続けているディフェンスのまずさは目も当てられない。赴任してもう2ヶ月経とうとしているのに改善されないから高総体までに間に合わないかもしれないが「もうがまんできん」というこっちの態度を見せなければ変わりはしない。言っておくが、ディフェンスを強化するのに私は足から鍛えることをしない。ディフェンスは知的生産物だから人生経験の少ない1年生には荷が重いのだがそれを承知で檄を飛ばす。 
’25年05月07日(水)  生身の人間がやることだから練習のできばえが悪い日があるのは仕方がない。しかし、できばえがよくないのは本人たちが肌で感じているはずなので、それが表情や態度に出ないのであれば練習を強行しても意味がないと思い中止した。さて明日は・・・
’25年05月06日(振)  あれっ!今日も更新忘れている。 
’25年05月05日(祭)  今日は練習オフ。それで生田パパが寮生のみんなを遊びに連れて行ってくれた。だから私もオフだ。思いついたのが熊本で行われている高校生の錬成会視察。8:25島原港発のフェリーに乗って熊本まで出かけた。会場は大津高校。熊本港から約1時間かかる。10時過ぎにつき午後2時まで居たが疲れが溜まっていたのか午後1時からの試合中ずっとステージで眠ってしまっていた。帰りは道路もフェリーも空いていて、午後5時10分には島原港に着いた。選手のちょっとした目付きや所作に日頃の練習ぶりが現れるが、熊本では際だって目に付くチームはいなかった。残念 
’25年05月04日(日)  明日はオフ日だが長崎には帰らない。コートに立たない時間は少しでも休養を取っておきたいからだ。クルマを貸与されているといっても長崎まで片道1時間半の運転で帰省はしたくない。運転するのなら寝ておきたい。 
’25年05月03日(祭)  起床~っ!朝5時に管内放送が響き渡った。ここは野球部とサッカー部がいる男子寮だがどうやら野球部が朝早く遠征するらしい。朝食の時間に野球部の2人と会った。「あれっ!」というとケガをしているので残留組になったという返事が返ってきた。1年生のキャッチャー。肘の故障だそうだ。入部最初の遠征で残留か、辛いだろうと思いそれ以上は聞かなかった。 
’25年05月02日(金)  どれくらい前からなのか覚えていないが、練習はシューティングのあとスクリメージを数本やって終わるという形式をとってきた。高総体まではこれで行く。やり始めた当初はマンツー10分ゾーン10分ミックス10分を2組でやれば丁度3時間ぐらいの所要時間になった。ところが今日は、マンツーもゾーンも10分2セットを2組で2時間半で終わることができた。私がストップをかけて解説する時間を少なくしたからだ。というより解説の必要がなくなってきたのだ。この調子で進めればいいが…。 
’25年05月01日(木)  高校総体の申込締切は5/7。今日は崔コーチとメンバー決めの相談をした。1ヶ月やそこらの練習で選手の本質を見抜くのは難しい。練習指導で私の目に映る選手はほんとうの自分を晒しだしているのかどうか判別しにくいから過去3年間指導してきた崔コーチの意見が必要なのだ。私が特に注目するのは知的能力と性格だ。これが勝敗を左右する場合が多いからだ。
’25年04月30日(水)  今日の練習は途中で血糖値が下がってきて辛い目にあった。しかし、R子が私の血糖値低下に気付いて部の保管としているプロテイン剤を持ってきてくれたのでそれを飲んで時を稼ぎ最後まで持ち堪えた。来年3月13日まではまだまだいろんな事が起こるだろうがそれらすべてを払いのけながら凌がなければならない。 
’25年04月29日(火)  昨夜は肥前古賀駅に着いてから自宅にも寄らずにスクーターで島原へ急いだ。今朝9時からの練習には昨夜自宅に立ち寄っていたら間に合わないからだ。寒かったあ。今朝練習に顔を出すと1人(帰省)と書いてある。あと数人欠席者はいたがいずれもケガ病気の常連だ。しかし帰省とは…。おまけに今日の練習では1人転倒して手首を骨折したケガ人が出た。三隣亡か…。
’25年04月28日(月)  今日も終了30分ぐらい前になって選手たちがわかりはじめた。2日連続で同じ事が起こったがこれは決して偶然やまぐれではない。日頃この下地になることを練習しているからこその結果である。昨日も今日も「似てるけど違うなあ」と思う時間帯があったが、似てるということ自体が日頃の積み重ねの結果だったのである。 
’25年04月27日(日)  今日のクリニックは終了30分ぐらい前になってようやく選手たちがわかりはじめた。不発に終わらずよかった。明日は先方も都合が悪くなったようなので明後日までの予定を切り上げて明日の深夜に長崎の自宅をスルーして島原まで戻る。明後日の9時に練習開始なので深夜になろうが明け方になろうが明後日の夜が明けるまでには戻らなければならないのだ。 
’25年04月26日(土)  練習終了後スクーターで自宅に帰った。クルマを提供して貰っているのになぜスクーターなのかというと、明日朝自宅近くの肥前古賀駅からJRで鹿児島に向かうからである。古賀駅には無料の2輪車駐車場はあるがクルマの無料駐車場はないのだ。 
’25年04月25日(金)  私のHPの読者から「コーチ心得も選手心得も載っていますが保護者心得は載っていません。書かないのですか?」と催促されていた。それにやっと手を付け始めた。まだ3個しか書いていないがこれが30個過ぎるまでには数ヶ月はかかるだろう。だが、こうした注文があるということは読んでくれている人が居ると言うことだ。ありがたい。 
’25年04月24日(木)  今日はまる半日ケガ人の世話で諫早と島原を行ったり来たり走り回った。3月14日から手伝うことになっていたが実質指導らしきものができるようになったのは4月に入ってからだ。だけど、バスケットの指導というより今日のようなケガ人の世話や生活一般の指導に追われて落ち着いたバスケ指導はまだできていない。高校総体まで約1ヶ月しかないのに…。 
’25年04月23日(水)  物事を成し遂げるには情熱が大切だということは知っているが、情熱を傾けるに値するこどもたちが少なくなってきているのが大人たちから情熱を奪っているような気がする。だが、残りの人生が少なくなってきても、情熱をなくさないまま一生を終えたいなあと思う。 
’25年04月22日(火)  今日は練習オフだが終日ケガ人の世話とか連絡に時を費やした。コートで何を教えるかだけでなくこれもコーチの役目だと思っているので苦にはならない。が、チームの勝敗に無関心な子がいるのは許せない。いずれこのような子には鉄槌を下す。
’25年04月21日(月)  風邪症状は山崎純男史上最悪だったが、ブログが途絶えたのは試合結果を保護者に連絡するために、一般の皆様には休刊になっただけで健康上はまだ参っていません。ご心配おかけしました。 
’25年04月19日(土)  今日から春季選手権が始まった。向こう1年間は島原中央のお手伝いなのでボックススコアなどは内輪の連絡網にのみUPすることにした。従って一般の皆様はこれまでのように私のHPを見ればチームの様子がわかるというわけにはいかない。1年間の辛抱をお願いします。 
’25年04月18日(金)  16:30。練習終了と同時に玄関前にバターンと突っ伏した。疲れたからなのだが原因は過労ではなく風邪だ。とにかく立っているのが辛い。 
’25年04月17日(木)  私の練習は4時間とか5時間やりつづけることはないといった。それでも私の指導に耳を傾けない者がいる。これはひとつの習慣だ。親やコーチのいうことをちゃんと聞かないと生活がなりたたないということはない。だから聞き流している。それが積もり積もってつまらない人間を作り上げていってるのだ。人の上に立つ者はそこに注目しなければならない。大丈夫かお前…。 
’25年04月16日(水)  風邪症状がこんなに長引いたことはない。もう2週間以上だ。医師がくれたクスリもめずらしく真面目に飲んではいるが改善は見られない。いずれ治りはするだろうが、当分休養を充分に取る以外に方法はなさそうだ。 
’25年04月15日(火)  一昨日は百年史編纂の打ち合わせで長崎に出向き、昨日は個人的に高橋氏からスマホの操作を習うためにまた長崎に出向いた。クルマを貸与して貰ったから楽だとはいえ、こう往復が増えると疲れる。今私がもっとも欲しいのは寝る時間だ。睡眠不足だからではない。コートでの活力を保持するために少しでも身体を休めておきたいのだ。 
’25年04月14日(月)  今日は高橋氏からスマホだけでHPを更新する手順を習ったがアタマがついていかず完遂とはいかなかった。練習指導より疲れた。循環器の定期検診にも行ったが重症の風邪表情を見て院長が錠剤と気管を楽にする吸入器を提供してくれた。それを服用してパソコンもいじる気力が湧かなくてずっと寝ていた。 
’25年04月13日(日)  百周年記念誌編纂の打ち合わせが終わったらすぐ島原へ向かった。だが道を間違えたので午後2時開始の練習には少し遅れてしまった。明日は練習オフの日だが高橋氏と打ち合わせがあるのでまた長崎に戻る。行ったり来たりがこのように多いとクルマのありがたさ身にしみてわかる。馬渡さんほんとにありがとう。 
’25年04月12日(土)  午前の練習が終わったらすぐ長崎に帰った。明日の午前中に県バスケ協会主催の百周年記念誌作成の打ち合わせがあるからだ。私は風邪を引いても風邪薬は飲まないので運転していても眠くはならないが疲れた。これがスクーターでの往復だったら相当疲れただろう。アポロの社長様々だ。明日は練習しどうごまた長崎に戻らなければならない。明後日長崎でまた人に会わなければならないからだ。風邪さえ飛んでいってくれればもっと動けるのだが… 
’25年04月11日(金)  若い頃(私の場合60歳以前)と今の違いは、熱があったり風邪を引いたりして、体調に異変があるときのフォーマンスが著しく低下するということだ。今日も3時間びっしり指導はしたがほとんど椅子に座っていた。立ち歩けばフラフラするからだ。そんな中でも気になることがあれば集めて指導をし、見本を示す。多分プライドにしがみついているのだろう。安いプライドなのに…。 
’25年04月10日(木)  練習開始13:30きっかりに練習を中止して帰らせた。ストレッチは隣の人とおしゃべりしながらやるのではなく、自分が伸ばそうとしている筋肉に意識を集中してやるものだ。と、再三指摘してきているのにそれを考慮に入れず、さらに声高におしゃべりをしている選手がいたからだ。「帰れ」と指示した。すると案の定「おねがいします」と言いやがる。「俺はは昭和の部活動はやらない」と言った。そして「お前達が帰らないのなら俺が帰る」といって体育館を出た。コーチが「これは大切だぞ」といって指導しているのにそれを無視している選手がいるチームの助っ人に来て何の意味があろう。
’25年04月09日(水)  今日も絶不調。壁際にパイプ椅子を4つ出し、毛布を持ち出してそれを枕にしてずっと横になったまま練習を見つめていた。風邪症状なのだが尋常じゃない。練習後カマラに明日も会えればいいね、と言って握手した。部屋に戻ってからはずっと寝ていた。 
’25年04月08日(火)  今日の練習は疲れた。終わった途端玄関で大の字になって寝た。疲れた理由は、倉敷クリニックに行く前にゾーンオフェンスとゾーンディフェンスをしこたまやってクリニックにでかけたのだが帰ってきたらやったことの欠片も残っていなかったからだ。こんなことは今日が初めてではない、過去何回もこんな状況には遭遇しているが、1年生だけでなく上級生にも「思い出してきたぞ」という兆候が見られなかったのが驚きだ。しかも最後まで。 
’25年04月07日(月)  毎週月曜日はオフなので私は長崎にとどまり、明日の昼頃長崎を発とうと思う。夜スクーターで島原まで走るのは寒いからだ。今日1日中テレビの前にじっと寝そべって過ごした。立ち歩けば3月末から昨日までのクリニック後遺症で足首がむくんだままなのでそれを癒やすためだ。ついでに利尿剤も飲んでいるのでむくみが引くのは早かった。 
’25年04月06日(日)  今日は、3月中の依頼によるクリニックで下関まで日帰りで行った。今日のプログラムは6チームによるミニゲーム(10+2+10)の繰り返しでクリニックの内容は各チームに私の所感を伝えるものだ。朝6:30に長崎を発ち19:30に帰り着いた。3月に見た時とは見違えるほど成長を見せたチームもあった。もう1つ、審判の手伝いに来てくれた20歳の青年はA級だったが次回見るときはS級になっているだろう。見違えるほどの成長ぶりを見せた選手だけでなく、こんな若者を見るのは楽しい。 
’25年04月05日(土)  このところずっとメインの練習はゾーンオフェンスとゾーンディフェンスの攻防である。理由の1つは1年生の経験値を高めたいからだ。感じたことは東長崎中時代と比べて高校生は理解するのが早いということだ。バスケの経験年数ではなく、人間として生きた3年間の差が大きいのだ。 
’25年04月04日(金)  あれっ!ブログ更新していない。あ、そうか昨日は翌日の入学式準備で体育館には椅子が敷き詰められているから練習はオフで、私はずっと試合案内や試合報告の資料作成でパソコンとにらめっこしていたんだ。しかし、この資料は島原でのお手伝い期間1年かぎりのものなので私のHPにはUPせず身内だけで閲覧するだけにした。 
’25年04月03日(木)  島原中央は午前中で練習を終わり、明日はオフなので午後は長崎に帰った。家に帰りたかったのではなく家のすぐ近くのコミュニティ体育館内のジャグジー付き大浴場に浸かりたかったのだ。ところがちょっと人騒がせなことをしてしまった。湯から上がって脱衣場で半分着替えて番台に座っていたらウトウト眠ってしまったのだ。完全に寝ていたのではなくウトウトだったので周囲の人々の声は断片的に聞こえている。年寄りが風呂上がりに番台に座ってじっとしているので「この人生きてるのか?死んでるんじゃないか?」と心配していたらしい。気配を感じて立ち上がり残りの着替えを済ませたが周囲の人々の様子で心配かけさせたんだなと判ったので「ご心配おかけしました」と謝った。 
’25年04月02日(水)  ベッドの端に座ってスリッパを履こうとして下を向いたら赤いものがしたたり落ちた。鼻血だ。起きたばかりでなんにもしていないのに…。昨日の手足のむくみと関連があるのかしら。今日は長崎に帰るので午前中のみ。前半が昨日の復習を含むクリニックで後半はスクリメージ。双方ともできばえがよかった。余は満足じゃ。
’25年04月01日(火) 17:00、今日のクリニックが終わった。午前中はマンツーマンオフェンスディフェンスとゾーンオフェンスディフェンスの要点解説と実技に時間を使い、午後は1時半から4時半までスクリメージを通して理解度をチェック。午後は解説に加えて審判もやった。労働時間6時間。足は痛くなりませんかと聞かれたがそれはない。ただ、終日こうして立ちっぱなし動きっぱなし喋りっぱなしの行動だとさすがにふくらはぎから下がむくんでくる。明日は午前中終了して長崎に向かう。所用時間6時間半。おそらくクリニック半分スクリメージ半分になると思う。島原に着くのは20時過ぎだろう。まだまだあ!