笑われる

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  解説(意味)
高見の見物 第三者としてことの成り行きを傍観している様子を「高みの見物」という。「高み」は「高い場所」の意味で、「成り行きに関係のない場所に身を置き、傍観者として」との立場を示している。
暮れなずむ 夕暮れどきに空が暮れていく様子を形容する言葉。「空が暮れそうで暮れない様」を表している。「すっかり暮れてしまった様子」ではない。
期待倒れ 大きな期待を寄せていた相手が、期待にそぐわない不満足な結果に終わったとき、「期待はずれ」といい、評判が高かった人が駄目だったときに「評判倒れ」という。また、いかにも期待できそうに見えた人間がたいしたことなかった場合、「看板倒れ」と使う。
いじましい姿 「いじらしい」は「可憐で痛々しい、力の弱いものの有り様に心に打たれる」意味で、「いじましい」は「こせこせして見苦しい、けちくさい」という負のイメージを与える言葉。
恩を着せる 「恩に着せる」はちょっとしたことを必要以上に相手のためにしたかのようにいう、「恩に着る」は恩を受けたことをありがたく思う、「恩を売る」は後々、自分の立場を有利にする目的で人を助けるの意味になる。
いぎたなく食べる 「意地汚い」は、食い意地が張っている、どん欲であるという意味で、「いぎたない」は、いつまでも眠っている、眠りをむさぼっている、寝相が悪いという意味。
首が回らない 借金などでやりくりがつかないときに使う言葉。「仕事が忙しくて目が回る」などという。
おっとり刀 漢字では「押っ取り刀」と書く。刀を腰にさすまもなく手に持ったままという意味で、そこから取るものもとりあえずという意味になった。「おっとり刀でかけつける」というように慣用表現に使う。「おっとり」は「こせこせしない、おうよう」ではない。
犬にエサをあげる 本来は「エサをやる」。「あげる」は敬語だが、もう敬語ではないと考える人もいる。
一抹の希望 「一縷の希望」。「一抹」は「ほんのわずか、ごくわずか」という意味を言い表す言葉。絵筆で、「ひとなぜ、ひとなすり」することに由来した言葉で、「寂しさ、不安」など微妙な心の動きを表すとき使う。
一見客
(イッケンキャク)
京都の一流料亭では「一見客お断り」といって、初めての客、紹介者のない客は断られるのが一般的。「イッケンキャク」ではなく「イチゲンキャク」と読む。
笑顔がこぼれる 笑うことを「笑みがこぼれる」「笑顔をつくる」と言い表す。
烙印を押す 「最高級の烙印を押す」。烙印とは、金属製の焼きごてで印をつけるもので、昔、罪人に刑罰として消し去ることができないような印を、額などに押していたもの。悪いという証拠をはっきり示されることであり、消し去ることのできない汚名を受けることを意味する。
一途 「ひとつの方針、方法、方向。ただそればかり」という意味で使うときは「イット」と読み、「ひとつのことだけに打ち込むこと、ひたむき」として使うときは「イチズ」と読む。これらは「イチズに思い込む」「情勢は悪化のイットである」というように使い分ける。
時期にかなう 「時期」「時機」の使い分け。「時期」のほうは「ことを行うとき、期間、季節」という意味を持ち、「時機」は「あることをするのに適したとき、潮時、チャンス」の意味になる。「ジキにかなう」は「時機」を使う。
話に水をかける 「話に水をさす」と「水かけ論」の区別をつける。「水をさす」は「うまくいっていることの邪魔をする」ことで、「水かけ論」は「お互いが自分の主張にこだわってかみ合わない議論」という意味。
財布をはたいて 有り金を全部使うことことを「財布の底をはたく」と表現する。
のべつ幕ない 「のべつ幕なし」は演劇から生まれた言葉で、もとは「幕を引かずに芝居を続ける」ということ。「のべつ」は「のべつさぼっている」と使うように、「いつも」の意味で、「いつも幕がない」から「絶えまない」という意味で使われるようになった。「のべつ幕なし」は副詞で、原則として活用しない。
喝采を叫ぶ 「快哉(カイサイ)」と「喝采(カッサイ)」がよく混同される。「快哉」は「胸がすっとして気持ちがいいこと、痛快なこと」の意味で、「快哉を叫ぶ」という使い方をする。「喝采」は「手をたたいたり、大声をあげて誉めそやすこと」で、拍手をして歓声をあげることを「喝采を浴びせる」という。
優しい心遣り 「心遣り」と「心遣い」、「思いやり」を混同して、使い方を間違う。「心遣り」は「気晴らし、なぐさみ」のことで、「心遣い」は「物事がうまくいくように気を配る」、「思いやり」は「相手の身になって考える」こと。「優しい思いやり」というように使う。
病魔を押して 昔は病気になるのは魔物が取り付いているからだけ考えられていた。そうした昔の考え方の名残として、病気の原因を悪魔に見たてた「病魔」という言葉があり、「病魔に打ち勝つ」という使い方をする。病気そのもののことではない。本来は「病を押して」「病気を押して」と使う。
心を鬼にして 「心を鬼にする」とは、「気の毒に思いながら、その人のためを思って、やむなく厳しくする」の意味で、他人に対して行為をするときに使われる。自分で自分に何かを課す場合は使わない。
火蓋が落とされる スポーツの試合が始まることを「戦いの火蓋が切って落とされる」と言い表す。この表現は、火縄銃の火口の蓋を開いて点火する様子を「火蓋を切る」と形容し、火縄銃に火がつき、いまにも銃撃が始まろうとしていることから、戦いの始まりを意味するようになった。
眠気まなこ 寝て起きてすぐのような、ぼんやりとして目つきのことを「寝ぼけまなこ」という。「眠気まなこ」という日本語は存在しない。「眠気」とは「眠いという感じ、気分」のこと。
声を荒げる 「声を荒らげる」が正しい。「荒げる」という言葉は存在しない。「荒々しくする」は「荒らげる」としか言わない。

(ハシ・ハジ)
発音は「ハシ」も「ハジ」もどちらもあり、「ハジ」は「はしをみよ」となっているので、「ハシ」が標準的な読み方。どちらも間違いではないものの、より正確を期すなら「ハシ」と発音したほうがよい。
二十世紀
(ニジュッセイキ)
発音は「ニジッセイキ」が正解。「十銭」も「ジュッセン」ではなく「ジッセン」が正しい。
取り付く暇もない 「取り付く島もない」という言葉は、溺れている人が助かるためにたどり着く島もない、ということから、「頼れるところがない、つっけんどんで話をするきっかけもつかめない」という意味で使われる。
気の置けない人 「気を置く」というのは「遠慮をする」という意味。「気の置けない人」は「遠慮しなくていい人、気兼ねの入らない相手」ということ。仲のいい友達を紹介するときに、「コイツとは気の置けない間柄だから」というのは「お互い気兼ねをしないほど親しい」ということを意味する。
礼拝堂 「礼拝」の読み方は、キリスト教の場合は「レイハイ」だが、仏教でお寺にお詣りするときは「ライハイ」と読む。そのため、キリスト教では「レイハイドウ」だが、お寺の本堂や講堂をいうときは「ライハイドウ」という発音するのが正しい。
絶対絶命 「絶体絶命」と書くのが正しい。「絶体絶命」とは「追い詰められて、進退きわまった状態」のこと。
草木もなびく丑三つ時 「草木も眠る丑三つ時」が正しい。「丑三つ時」は、現在の時刻では深夜の二時から二時半、あるいは三時から三時半にあたる。「草木もなびく」は情勢が盛んで人々が服従する様や魅力あるものが人々を引きつける様子を表す。「草木も眠る」は、人間だけでなく、植物も眠りについているほどの遅い時間だということ。
農作物
(ノウサクモツ)
「農作物」と書いた場合、「ノウサクブツ」と読むのが正しい。「作物」だけだと、「サクブツ」ではなく「サクモツ」と読む。

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