2013年度版 2013年4月〜2014年3月
14年03月31日(月)  2013年度の最後の日にドジをやった。マイクロバスのエンジンを始動させようとしたらウンともスンとも言わないのだ。「エッ!」と思って各種ライトのスウィッチを見たら後部室内灯のスウィッチがオンになっていた。たぶん27日からずっと点けっぱなしになっていたのだ。すぐ三菱ふそうに電話して出張充電をしてもらったが、精算は3月分に間に合わず、4月分に回されるという。ということは消費税5%ではなく8%だということだ。クソッ!
2013年度の日々の出来事はこれでおしまい。明日の分からは2014年度版です。 
14年03月30日(日)  全国ミニバス大会で長崎県代表の男子大園小と女子長崎ジュニア(諏訪小)がアベック優勝した。快挙だ。大園小のコーチは鶴鳴出身の又村美香である。彼女は高校3年生の時はプレイングコーチを命じたほどのバスケット通であった。彼女がミニバスを指導している場面を私は見たことがないが、高校時代の下級生指導の場面を思い浮かべれば、ミニバス指導でもきっとこどもたちに分かり易い指導をしているのであろう。おめでとう。 
14年03月29日(土)  朝7時44分に目が醒めたが身体が鉛のように重い。でも、10時半からのひがながの練習には顔を出さなければならない。5日振りに練習を見たらひがながの選手がなかなか成長していることに気付いた。この4日間に急成長したのではなく、実は日頃の積み重ねで成長していたのだ。毎日顔を合わせているとそれに気付かなかったか、気付いたとしても認めてやらなかったのだろう。こうして他のチームに関わって久しぶりに戻ってみるとそれに気付く。何が成長したのかと言えば、ひがながの選手たちの聴く耳と見る目が成長しているのだ。今日は怒りを込めた「コラー!」が私の口からは出なかった。 
14年03月28日(金)  最終的に男子40名女子60名計100名のミニバスクリニックだったが、100名のこどもたちを順番待ちがなく汗をかかせて、しかも「バスケットをやった!」と感じさせるクリニックをするのは骨が折れる。私のクリニックではハンドリングドリルやドリブルドリルなどの個人技はしない。すべて攻防が入る内容である。それを最終的には「できたあ!」「やれたあ!」と感じさせて終わらなければならない。今日はまったく話を聞かないで自分勝手にやっている子が数人いたのでつい「話を聞け!」「言われたことを注意しながらヤレ!」「そうしなければ俺は帰るぞ!」と叱ってしまった。反省.............フー。疲れ果てて長崎に帰る途中の車中は殆ど寝てた。 
14年03月27日(木)  今日は終日クリニック。4チームの指導をしたが、何を教えるかだけでなく、AチームのB選手を脱皮させてやらなければならないとか、Cチームのコーチに方向付けもしてやらなければならないなど、参加したチームに「今日のクリニックは参加してよかった」と思って貰わなければならない。そういうことを考えながらやっていると頭が割れそうだったがなんとかやり遂げた。腰の痛みは座薬を用いたのでなんとか凌げた。明日はミニバスクリニック。人数は女子60人で男子40人ぐらいだという。今日もがんばったが明日は死ぬ気でがんばらなければならない。 フーッ
14年03月26日(水)  今日も観察のみ。そして審判が1試合。どこの誰がではないが、たとえ練習試合であっても指導者が選手にかける言葉は、その試合が良い方向に進む言葉でなければならないと言うことをあらためて感じた。それは、試合中は叱るより誉めよという意味ではない。叱ってもいいし怒鳴ってもいい。が、その叱り言葉や怒鳴りつけることばが、残り8分しかない試合がよい方向に進ために有効に働くものでなければならないという意味である。 
14年03月25日(火)  宇部錬成会。今日と明日は観察のみ。それをもとに明後日高校生クリニック、明明後日がミニバスクリニックだ。今日は観察だけだったが人手が足りなかったので審判もした。みんな気を遣ってくれるが俺は普通の年寄りじゃない。ゾンビの子孫だから大丈夫!。 
14年03月24日(月)  今日は小学校中学校ともに終業式。ひがながの部活練習は午後1時半から5時半までを前半と後半に分け、さらにそれを男女で共用しなければならないので、バスケ女子は1時半から3時半までの半面使用だった。それを20人の部員を1人も遊ばせることなく回さなければならない。長々と小言を言ってればすぐ終わってしまう。久しぶりに時間の無駄使いをしないように気を配りながら指導した。こんな緊張感もたまにはいいものだ。
14年03月23日(日)  このところずっと、他校との合同練習だったりカップ戦だったりして自チームの課題をじっくり練習できる日が少なかったが、この3連休はそれがしっかりやれた。久しぶりにみそ汁とご飯を食べた感じだ。でも腰は痛い。 
14年03月22日(土)  今日はトラムセットを飲まない日。イターイ!でも、痛くてもとりあえず1日おきに服用というペースでがんばってみよう。ひがながは今足首捻挫が2人と肘の腱を傷めたのが1人で計3人練習に参加していない。その選手達は今日コートの隅に隔離した(冗談だけど)。 
14年03月21日(金)  一昨日の診察で漸次減らすことにしたトラムセットは、1日1錠では足りないので飲む時には1日2錠にしてそれを1日おきにすることにした。昨日はまったく飲まない日で今日は飲む日だ。朝1錠飲んで昼間ひがながの練習に顔を出し、家に帰ってパソコンをしていたらな〜んだか痛いような気がする。夕方1錠飲んだが明日はまた終日飲まない日だ。大丈夫かなあ。 
14年03月20日(木)  心が重い。最近選手を叱ることばが多く飛び出すようになった。私は勝利第1主義でも少数精鋭主義でもない。しかし、たとえ小学生といえどもスポーツ活動をするこどもたちはみんな、平等に楽しくやっていきながら個人としてはだんだんアスリートとして成長して貰いたいと思っている。その思いが叱りことばとしてしか出てこない自分が恨めしい。
14年03月19日(水)  今日は大学病院での診察日。最近痛みに波があるが、日常生活に支障をきたすほどの痛みではなくなったので、トラムセット服用は毎日とせず、痛みが気になる時に服用しながら漸次服用をやめていくことになった。一時はもうコートで指導することはできなくなるのではないかと思ったが、まだしばらくはいけそうだ。
14年03月18日(火)  アメリカのカレッジバスケットのトーナメントが、男子は今日から女子は22日から始まる。男女とも64チームが参加するから、ベスト4まではブロックごとに各地区で開催される。準決勝以降は男子がテキサス州のアーリントンで4月5日から7日まで、女子はテネシー州のナッシュビルで4月6日から8日まで行われる。今年の男子はトニーベネット率いるバージニア大学がACCカンファレンストーナメントでデューク大を破って優勝し、イーストブロックの第1シードになっている。楽しみだ。 
14年03月17日(月)  午前中、県立総合体育館サブコートで行われた東海大学の公開練習に顔を出した。プレイぶりだけではなく、立ち姿も歩いている姿も不愉快さを感じさせる選手は1人もいなかった。すがすがしかった。中学生も高校生も学生も、スポーツ選手はこうでなければならない。 
14年03月16日(日)  ひがながはオフだったので、朝から県立総合体育館に東海大学招聘事業を観に行った。東海大学・日本経済大学・長崎成年男子・長崎少年男子の試合を観た。私は男子の試合を観るのは嫌いだったが、今日の試合は面白かった。東海大学も日本経済大学も、基本がしっかり身に付いておりプレイもひたむきなのだ。見直した。 
14年03月15日(土)  昼間はひがながの3年生を送り出すお別れ試合と昼食会だった。お別れ試合の最後はドッジボールで締めくくり、昼食会は網場の肥前屋(贅沢だ)で盛り上がった。昼食会は在校生キャプテンのキエと宴会部長のナツミの開会挨拶始まり、途中で1年生全員でのパフォーマンスと2年生全員でのパフォーマンスがあり、最後は在校生から卒業生へのプレゼント、卒業生から在校生へのプレゼント(ボール)でお開きとなった。人間関係でもプレイのことでも苦労が多かった卒業生キャプテンのマホの挨拶は涙で挨拶にならなかった。お前の気持ちよく分かるぞ。夜は東海大学男子の招聘事業の懇親会に招かれ、今日はパーティー漬けだった。フー。明日は朝からカブトガニに招聘事業の試合を見に行こうと思う。 
14年03月14日(金)  朝からつばさ保育園のお別れ遠足に付き合った。場所は諫早こどもの城@ A B 館内の壁に誰かのパパが書いたのかメッセージが貼ってあった。なるほど。 
14年03月13日(木)  3月に入って急に相談事が舞い込む件数が増えた。今日は家に帰り着いたのが9時半だった。こどもからおとなまで、個人としても組織としても決断を迫られる月なのだろう。組織に縛られない身になったから相談しやすいのか、今年度はヤケに相談を持ちかけられることが多い。 
14年03月12日(水)  回顧録執筆を再開したのはいいけれど、平成20年度の出来事は平成19年10月の地区新人戦から始まっているのにそれを忘れていて、10月の地区新人戦と県総合選手権、11月の県新人戦と九州総合選手権、年が明けて1月の九州春季大会2次予選と2月の九州春季選手権をすっ飛ばして3月末のJOMO合宿にいきなり進んでしまっていた。だから今日は飛ばした分をあわてて追加した。朝9時から午後3時まで連続6時間、パソコンにかじりついていた。フーッ。 
14年03月11日(火)  神楽坂スポーツ医学セミナーが無事済んだので、しばらくお休みしていた回顧録の執筆を再開した。今日から始まるのは第11章で、平成20年度の出来事である。第13章で完結するつもりだ。あともう少し。 
14年03月10日(月)  私のCUBEは3月11日が車検切れだった。なので7日に上京する時にCUBEで大村空港まで行き、空港のすぐ近くの野澤自動車に預けて「10日の3時5分着の飛行機で帰ってくるからそれまでに整備して車検を済ませておいてくれ」と言って飛行機に乗った。今日は飛行機がほぼ定刻の3時7分に到着した。それからタクシーに乗って野澤自動車に着いたのが3時27分。野澤社長から「ついさっき出来上がったばかりです」と言われた。そのままCUBEに乗ってマイクロバスを取りに行き、ひがながの選手を乗せて飯盛体育館に向かった。時間を最大限有効に使えた4日間だった。スッキリ。 
14年03月09日(日)  自分の出番は昨日で終わったとはいえ、今日の最後にまたディスカッションがある。そこで質問されたら答えなければならない。昨日の講演は筋書きを自分で用意しているが今日の質問は筋書きなしだ。だから他の講演者の話も聞きながら「もし俺に質問が来るならこんなのかな?」と予想を立てておかなければならないし、予想と違っても的はずれな回答はできない。昨日とは違った意味で緊張した1日だった。 
14年03月08日(土)  チームを創るは記念講演ではなく基調講演だった。主役だ。あがることもなく喋り忘れもなく1時間半ぴったりで終えた。「合格っ!」。そりゃそうだ、約1ヶ月ずっとこれにかかりっきりだったんだもの。これで「失敗だった」ではもうどこでも喋る資格なしだ。自分に「お疲れ様」ぐっすりお休み。柏口先生おせわになりました。 
14年03月07日(金)  大学病院での3回目の診察。朝起きたあと立ち歩いていると痛いがそのうち忘れる。バス運転後運転席を離れて動いているとしばらく痛いがそれもそのうち忘れる。練習指導中はかなり動くけど痛いのは忘れている。など、現状を報告したが、Dr宮本曰く「トラムセットは1日1錠に減らしますか…ウーン、いやもうしばらく続けましょ」ということでこのままトラムセットを服用することになった。診察後東京に飛んだ。東京は寒い。明日はいよいよ神楽坂スポーツ医学セミナーだ。今夜はお茶の水インで最後の復習。もう修正箇所はない。あとは喋り忘れがないようにするだけだ。 
14年03月06日(木)  技術指導の相談やチーム運営の相談は年中全国からある。が、3月に入るとそれに加えて人事の相談や個人の進路決定の相談が増える。参考意見程度で済むものもあれば重いものもある。いずれにしろ思いつきや軽い気持ちでは応じられない。「俺には分からない」と言って突っぱねることもしない。すると年々相談の件数が増える。自分で背負ってますます自分を忙しくている。でも、頼られていなければ相談も来ないか…。有り難いと思うことにしよう。
14年03月05日(水)  今日のリハーサルは1時間29分だった。質問時間も残さなければならないので1時間27分までは縮めたい。
14年03月04日(火)  自室に閉じこもって神楽坂スポーツ医学セミナー講演のリハーサルをした。パワーポイントのスライドショーに合わせて時間を計りながら喋り、ボイスレコーダーに録音して聞き返した。講演時間は1時間半与えられているが今日のりハーサルでは1時間32分かかった。もう少し流暢に喋る練習をしなければならない。フウ。 
14年03月03日(月)  秋田放送の取材が入った。中村和雄氏のドキュメンタリーを作るための取材だ。事前に「カメラが近付いたり、レンズが向いたりする時に、恥ずかしがったり避けたりするな」と選手に指導して練習に入った。選手はちゃんといいつけを守って自然体でやってくれた。明日から3日間は神楽坂講演の予習にどっぷりはまる。いよいよだ。
14年03月02日(日)  ひがながの練習はオフ。朝6時からぶっ続けで11時まで、バージニア大学対シラキュース大学の試合(白がバージニア)のライブとセントルイス大学対バージニアコモンウェールスの試合(青がセントルイス)のライブを見た。眠い。パソコンをインターネットに繋いでhttp://www.feed2all.eu/type/basketball.htmlで見ることができるのを昨日Guyから教えて貰った。バージニア大学のヘッドコーチはキャシーベネットの弟でディックベネットの息子であるトニーベネット。現在全米ランキング12位。セントルイス大学のヘッドコーチはジムクルーズ(元エバンズビル大学男子のヘッドコーチ)。現在全米大学ランキング6位。2人とも頑張っている。本当は、慎子と成井と私で昨日成田を飛び立ってイリノイ大学に行ってるはずだが私の腰が最悪状態だったので2月中旬に渡米中止を決めた。イリノイ大学は慎子がエベンズビル大学在学中のアシスタントコーチだったマットボーラントが女子チームのヘッドコーチをしているので彼のところを訪ねるつもりだったが、トニーとジムがこんなに活躍しているのなら来年こっちを訪問しようかなと思い始めた。実は4年前にバージニア大学を訪問したのだが、その時はトニーが移籍して2年目だったのでまだ強くはなく、デューク大学に大差で負けた試合を観て帰ってきた。こんなに強くなったのならこの両者の訪問を本気で考えてみよう。 
14年03月01日(土)  佐賀の城西中学校の江頭先生からのお誘いで練習試合に出かけた。会場は小城市芦刈町の町民体育館。芦刈中学校の敷地内にある。広い平野が広がり、高いビルがないので地平線まで見える。のどかな町に贅沢なたたずまいの体育館だった。民家の家におんぶされてまた民家が建っている長崎の街に比べたらうらやましい限りだった。下関・福岡・熊本・佐賀・長崎から9チームが集まって試合をさせて貰った。感謝。 
14年02月28日(金)  昨年の12月29日から痛み始めた右股関節痛(実は腰椎L4L5関節の炎症だと後に判明した)は、2月8日にトラムセットを使い始めてから落ち着き、練習の指導も少しぐらいの動きなら痛みが尾を引かなくなった。しかし、足は細くなっているし、何より尻の筋肉が落ちたのが情けない(画像なし)。ハ〜 
14年02月27日(木)  10日から毎日校正が続いているスポーツ医学セミナー(3月8日)の講演原稿は「今度こそ完璧だろう」と思いながら読み返すが、必ず新たな修正箇所が見つかる。退官前の論文発表準備と同じ状況がもう2週間以上続いているのだ。俺、年取ったのかなあ。フウ。 
14年02月26日(水)  ひがながの学年末テストが終わってからずっと、オールコートマンツーマンディフェンスとオールコートプレスディフェンスに対するオフェンスの練習に明け暮れている。それはオールコートのディフェンスを採用したいからではなく、その練習をすることにより彼女らの未熟な部分が是正されると思ったからだ。昨日と今日、飯盛中学校とスクリメージをやったがみんなヒーヒー言いながら試合をしている。それは体力がないからではなく、場面の移り変わりについて行けないからだ。こどもはすべて自分の周囲で起こる慌ただしい局面変化に対応できない。3月一杯この練習を続けるが、この局面変化に対応できるようになればひがながもバージョンアップすると思う。 
14年02月25日(火)  今日は飯盛中との3週間ぶりの合同練習だった。ひがながと飯盛は学年末テストが1週間ずれているのでこんなことになってしまった。飯盛中は部員が8人しかいないし、外部コーチの井手氏が務めが終わって6時過ぎにしか体育館に顔を出せないので、それまでの時間合同練習をして私が手伝うことにしたのだ。中学生の3週間ぶりはまた振り出しに戻る。「え?この練習やったよな?」というのが復習をしなければスッと出てこない。フウ........
14年02月24日(月)  今日はひがながの練習は定休日。ちょっと疲れ気味の私にはいい骨休めになった。朝から郵便局→短大→犬の散歩(つばさ保育園の園長の犬)と3件用事を済ませたあとは休養していた。犬の散歩は、園長が遊んでやっていた時、喜びすぎて飛びかかってきたアンジュに倒されて左足内側側副靱帯を傷めたので歩けないからその代役だ。私は動物好きで、鶴鳴では捨て猫を育てて15年も飼っていたくらいだから動物からも好かれる。
14年02月23日(日)  昨夜は深夜12時10分に家に着いた。それから衣類の整理を済ませ、パソコンのキーボードに向かったらいつのまにかそのまま寝てしまってハッと気がついたら深夜2時50分だった。慌てて布団に潜り込んで寝たが朝は7時半出発でひがながの選手を佐世保まで連れて行かなければならない(佐世保カップ)。朝200tの野菜ジュースを飲んだだけでバス置き場にバスを取りに行き、学校から選手を乗せて佐世保に走った。夕方まで何も口に入れず2試合ベンチした。ちょっと辛い1日だった。 
14年02月22日(土) 高校1・2年生、中学1年生、小学6年生の男子約60名のクリニック。午前3時間、午後3時間。テーマは「オフェンスの決着の付け方」だった。これは、ドリルを反復すれば分かるようになるものではなく、プレイの見方やイメージ能力を開発してやらなければならない。もし、コーチがイメージできたとしてもそれを選手にどう伝えるかがまた難しい。その火家kつ方法は……ま、人生経験を重ねるしかないな。小学6年生の裕太君は「場面が分かる選手とは…」を絵に描いたような選手だった。こんな選手がいるとクリニックも楽しい。 
14年02月21日(金) 倉敷に来た。協会から依頼されたクリニックは明日朝9時からだ。今日の夕方は倉敷翆松高校でクリニックをした。どこのクリニックでも同じだが「動きの効き目を調べながら」→「崩し」→「決めに行く」の手順とタイミングと決めに行くプレイの種類を自分のものにしないままいろんな技術を駆使しようとする選手が多い。明日はこの「技術を駆使する場面が分かる」ことの重要性を何人の選手がわかってくれるだろうか。ミニバスから高校生までの男子約60人らしいが、それぞれの階層で決めに行くまでの基準は同じでも決めに行くプレイの種類が違うだろう。その取り上げ方が難しそうだ。 
14年02月20日(木)  昨日今日とスクーターであちこち走り回った。冬、スクーターで走り回るのは寒い。でも、この冬私は一度もホッカイロを使っていないことに気付いた。平成19年2月20日の夕方(64歳)、突然左手の人差し指が丸ごと1本真っ白になった(レイノー現象)。すぐお湯につけたら3分ぐらいで症状は消えた。循環器専門の病院に行って調べて貰ったが膠原病(リウマチ)の疑いがあるということだった。血液検査をした結果リウマチではなかったが、それ以来手足の末端は冬になると血行が悪くなり、冷たくなるのでずっとホッカイロが離せなくなった。現在も手足は冬になると冷たくはなるのだがホッカイロは使っていない。ということは私は復活?これまで私は自分のことをマグロの生まれ変わりだと思っていたが、ひょっとしたら私の先祖はゾンビなのかもしれない。キャーッ!
14年02月19日(水) 朝一番に大学病院に行って診察して貰い、それから長崎駅に立ち寄って3月下旬の宇部行きのJRチケットを予約し、それから循環器専門の馬場内科医院に行って薬を貰い、それから鶴鳴に立ち寄ってマックから神楽坂講演で使用する写真を受け取り、その後思案橋のファミリーマートに立ち寄って3月初めに予約が入っている秋田放送の取材についての打合せを太田さんとした。午前中に5件の用件をサッと済ませた。ちょっといい気分。
14年02月18日(火) 今日も昨日と同じくらい動き、そしてメジェイドは使わずトラムセットだけで凌いだ。しかし、家に帰り着く頃には痛みも気にならなくなり、寝る前は痛いことを忘れるくらいだった。L4L5関節お前らも気まぐれだなあ。 
14年02月17日(月) 6日からテスト休みに入ったひがながの練習に11日ぶりに顔を出した。今日は昨日の熊本ジュニアオールスターのクリニックよりも身体を動かした。ディフェンスフットワークの見本も数回やってみせた。練習は6時40分に終わったが8時半までジンジンジンジンズキズキズキズキ痛かった。その後パソコンをいじったり風呂に入ったりしていたら痛みは薄らいで、寝る前にはもう気にならなくなった。今日は朝夕定期的に飲むトラムセットだけで凌いだが、やはり指導で身体を動かすならメジェイドが要るようだ。明後日大学病院に診察を受けに行くが「今使っているトラムセット(37.5r)で効かなかったら量を増やしましょうかね」と医師から電話で言われた。トラムセットは麻薬系痛み止め薬なので量を増やせば麻薬中毒にならないかしら。心配だなあ。ハ〜ア。
14年02月16日(日) 昨日は無事に午前午後とも乗り切ったが夕食後シャワーを浴びたあとはホテルの部屋の中を歩いていても痛かった。今日もトラムセットは通常通り服用し、朝8時と午後1時にメジェイドを使用してすべて順調に乗り切った。昨日も今日も、ステップや構えやミートやジャンプショットなど自らやってみせたがすべてやれた。しかし、今日も終わって帰る途中のクルマ運転中に少し痛みが出た。でも、昨日の夜の痛みも今日の痛みも絶えられないほどの痛みではなく、しばらくがまんしていたら知らぬ間に忘れるぐらいの痛みだ。これなら来週の岡山講習も大丈夫。2日間やり終えて安心したのか帰りの運転は眠くなり、広川サービスエリアで少し寝た。Zzzz......<(_ _)>・・・・と、自分のことだけ書いて熊本ジュニア選抜と2日間関わった感想を述べるのを忘れていた。感動したぞ。プレイがうまいとか素質がいいとかじゃなく、返事がいいのに感動した。彼女たちは私から教えられたことに対してちゃんと返事をしてくれた。自分の師匠から指導されたお仕着せの返事ではなく、自分の気持ちを素直に伝える返事だ。なぜこんなことを書くかというと、最近どこに教えに行っても「ここは、返事をするタイミングだぞ」と、そんなことまで教えなければならないこどもたちがとても多いと思っていたからだ。日本の若者はまだまだすてたものじゃない。安心した。
14年02月15日(土) 熊本ジュニアオールスタークリニック1日目。10時〜12時半。午後2時〜5時。無事終了。 朝8時と昼1時にメジェイド使用。手を抜くことなくなんとか切り抜けた。フーッ。
14年02月14日(金) 結果的に事なきを得たが今日は大変な事が起きた。ウェストポーチに仕舞い込んだはずの財布がないのだ。明日から長崎県総合体育館で大会される九州高校春季大会に参加する沖縄の西原高校を私のマイクロバスで送迎して宿舎に送り届けている間になくなったのは間違いない。どこで?マイクロバスの運転席周辺を捜したがない。しゅくしゃの式見ハイツに問い合わせたがない。それなら、選手に昼食を摂らせるために立ち寄った時津のファミレス牛右衛門でウェストポーチから財布を出して名刺を渡したことを思い出した。ここだ!問い合わせたら店の従業員の方が掃除をしている時に椅子の下に落ちている財布を見つけ、保管していてくれていたことがわかった。ホッ。入っていたお金は1万5千2百円だったから大したことはないのだが、免許証、VISACARD、ENEOSCARD、ETCCARD、市民カード、その他いろんなカードが入っていたので、もし見つからなかったらそれを止めて再発行してもらう手続きが大変だと思っていた。ドジだったことは忘れて、俺にはまだツキが残っていると思うことにしよう。
14年02月13日(木) 朝から夕方までずっとスポーツ医学セミナーの台本を修正していた。それが一段落したので鶴鳴に行って自転車を漕いだ。今日は昨日より遅い時間に行ったので、撮影してくれる者が誰もいなかった。今日もメジェイドは使わなかった。終わったあとの立ち歩きは昨日より少し痛かった。 
14年02月12日(水) 昨日は風がものすごく強かったのでスクーターで出かけるのが嫌で自転車漕ぎは休んだが、今日はまた鶴鳴まで行って漕いだ。隣りのバイクで陸上部の選手が無酸素パワーのトレーニングをしていたので若さに圧倒されそうだったがめげずに頑張った。今日はメジェイドは使わずにトラムセットだけだが前回より痛くない。 
14年02月11日(祭) 先週金曜日にMRIを撮った時に鎮痛薬のトラムセットを貰ったが、トラムセットは副作用として吐き気があったり便秘になることがあるので、吐き気止めの(ノバミン)と便を出やすくする(センノシド)も貰った。どのクスリも2週間分貰ったが、処方箋に朝夕2回食後に服用と書いてあったのでその通りに服用していたらセンノシドの数が足りないことに気付いた。もう一度処方箋を見たらセンノシドは夕方1回だけだった。このところトイレに最低でも2回、日によっては3回行くこともあるので「このクスリ効き過ぎじゃない?」と思っていたが、1日2回も飲めば効き過ぎるはずだ。おかげで腸内はスッカラカン。
14年02月10日(月) 今日は朝9時から夜11時まで、途中4時頃コンビニに行った10分間以外はずっとパソコンから離れなかった。3月8日のスポーツ医学セミナーの講演の台本をパソコンで打っていたのだ。講演時間1時間半。A4サイズにして8枚の原稿になったが、これから2月末まで何度も録音しながら読み返し、時間配分や声の調子も含めて、台本なしで喋れるようにならなければならない。俺も暗記力が落ちてきたからなあ、フウ。腰は、コンビニの中をうろうろしている間は痛かった。朝と夕方に飲むトラムセットだけしか服用していないからだろう。 
14年02月09日(日) 今日も鶴鳴まで自転車漕ぎに行ってきた。今日は家を出る前にメジェイドも挿入した。昨日と同じく、自転車を漕いでいる時はなんともないが、漕ぎ終わってトイレに行ったり着替えたりバイク置き場まで行くなど、立ち歩くと少し痛くなる。しかし、昨日ほど痛くなかったのはやはりメジェイドが効いたのだろう。来週末の熊本講習は、朝と夕方にトラムセットを飲み、午前の指導前と午後の指導前にメジェイドを使わなければならないようだ。
備考:自転車漕ぎを終わってスクーターで鶴鳴から帰ってきたらヘルメットをかぶっていなかった。スキー帽をかぶった上にコートのフードまでかぶっていたのでヘルメットを付けていないのに気付かなかったのだ。ウワーッ!
14年02月08日(土)  今日からトラムセットを使い始めた。朝8時に飲んだ。それからパソコンをいじっていたら10時頃眠くなった。副作用かな?じっとしていると筋力が落ちるのでスクワットを始めたと1月30日のブログで述べたが、スクワットは左膝の関節に良くないので自転車を漕ぐことにした。午後鶴鳴のトレーニング室に出かけ、負荷を90ワット、速さを毎分60回転に設定して30分間漕いだ。鶴鳴在職中は120ワットの負荷で漕いでいたが腰痛リハビリのための自転車漕ぎなので自重して90ワットに落とした。漕いでいる間はまったく痛くなかった。漕ぎ終わったあと家に帰って近所の犬(ゴールデンレトリバー)と遊んだが、その時は痛かった。運転や自転車漕ぎなど、座ってやる動作はなんともないが、立ったり歩いたりするのはまだダメみたいだ。トラムセットとメジェンドの併用はOKなのだが今日は朝飲んだトラムセットだけとし、自転車漕ぎの前にメジェンドは使わなかった。だから犬と遊んだ時に痛みが出たのかも知れない。明日は自転車漕ぎの1時間前にメジェンドを使って効果を確かめてみる。
14年02月07日(金) 今日も練習指導はないので坐剤は使わなかった。しかし、午前中大学病院に行って駐車場から病院内の放射線科まで歩いて行く間に痛くなり、途中で座りたくなった。やっぱり動く時はクスリの力を借りなければダメなんだと実感した。今日のMRI検査とレントゲン検査では心配していた脊柱管狭窄症や椎間板ヘルニアなどではないことがわかった。強いて言えば第4第5椎間関節に炎症があるようだということだった。これまでの坐剤はそのまま用い、今日新たにトラムセットという薬を貰った。強いクスリなので副作用があるかもしれないから(吐き気や便秘)それを抑えるクスリも貰った。とりあえず手術や入院が必要な障害ではないことがわかった。これでしばらく様子を見て、それでも改善されなかったら次は神経ブロックだ。
14年02月06日(木) 静かで何事も起きない1日だった。1日中じっとしていたので今日坐薬は使わなかった。
14年02月05日(水) ひがながの練習は今日で一区切りしてまた17日(月)から顔を出す。ひがながが明日から学年末試験休みに入るからだ。学年末試験は来週の13日と14日の2日間だから、14日(金)から練習はできるのだが、私がその週末熊本講習に行かなければならないので17日(月)からしか指導ができないのだ。今日は坐薬を午後3時に入れた。昨夜10時以降も今朝も、昨日動いたことによるリバウンドの痛みは出なかったので、今日は椅子にも座らず杖も使わず、2時間コートにずっと立っていて、小さな動きではあるが自ら手本を示して指導した。右腰から下には痺れ感と痛みはあるが、立っているのが辛い痺れや痛みではない。でも、熊本講習はこの程度の動きでは充分じゃない。明日は静かにしていて明後日のMRIの結果を見て熊本講習の乗り切り方を考えよう。 
14年02月04日(火) 土曜日に貰った坐薬を今日試してみた。このクスリは肛門に挿入して30分後に効き始めて6時間保つのだそうだ。ひがながの練習指導が午後5時から7時までなので家を出る直前の午後4時に入れた。指導中は痛みがまったくなくなったわけではないが、かなり軽減されたのは事実だ。でも、動いたあとの痛みのリバウンドが怖かったので自ら動いて見せるのはずいぶん控えた。家に帰ってクスリの効果が切れる頃に痛みがひどくなるのではないかとビクビクしていたが、午後10時現在その兆候はない。今日の指導ぶり程度では熊本での講習会は成り立たないので、明日は坐薬使用後もう少し動いてみようと思う。
14年02月03日(月) 先週の日曜日(26日)以来、朝みそ汁とリンゴ3切れと卵1個口にするだけでそれ以外は終日何も食べない(水分だけは補給する)で1週間過ごした。内海氏のクリニックの懇親会などで飲食回数が増えたのでその分減らそうと思ったからだ。すると、先週水曜日からウンコが出なくなった。「食べなければウンコも溜まらないのか」と思っていたら今日出た。5日振りだ。でも少ない。みそ汁だけではウンコは出来ないんだということがわかった。 
14年02月02日(日) 県中学新人戦2日目。佐世保総合グラウンド体育館会場では、会う人会う人に「大丈夫ですか?」と言われた。大丈夫じゃないから杖をついて歩いているんじゃないか!…って、冗談冗談。多くの人に心配して頂いている事に感謝しなければならない。坐薬はまだ試していないが、事前に実験してみてその効果を確かめてみる。使用後30分で効き始め、効果は6時間保つそうだから、熊本講習の2日間は午前午後各1錠ずつ使用し、岡山でも同様にして切り抜けようと思う。3月末の宇部錬成会の対処方法はまだわからない。
14年02月01日(土) 午後4時、病院に行って腰部X線撮影をして貰った。X線画像からは著明な腰椎の変形は見られなかった。2月7日のMRI撮影で詳細がわかると思うが、とりあえず痛みに耐えられない時に用いる坐薬(メジェイド坐剤75)を貰った。2月15/16日の熊本講習と2月22日の岡山講習と3月下旬の宇部錬成会はこれで凌ぐことにした。なお、3月1日からアメリカに行く予定にしていたが、このような症状を抱えて行くのは先方にも同行者にも気を使わせるので今年は取りやめて来年に回すことにした。それまでお金を節約しなきゃ。 
14年01月31日(金) 朝起きたら太ももの裏表と尻の筋肉が痛い。ということは昨日のスクワットは効き目があったということだ。効き目がなかったら自転車漕ぎもやらなければならないかなあと思っていたがそれは今のところ要らないみたいだ。
14年01月30日(木) 今日から朝100回昼100回夜100回スクワットをすることにした。できるだけ歩き回らず椅子に座ってばかりだと足の筋肉が弱ってしまうからだ。背筋を伸ばしてやれば痛いが少し前屈みの姿勢でやれば痛くない。来週から自転車も漕いでみようと思う。自転車も前傾姿勢でやれば大丈夫だと思うので。 
14年01月29日(水) ウーン....やっぱりこれなのかなあ? 
14年01月28日(火) 今日も、ひがながの練習指導が始まる4時まで家でじっとしていて動かなかった。練習指導もほとんど椅子に座って指導した。動いたあとは座ってもしばらく痛かったが今日は座っている時間が多かったので痛みは尾を引かない。では座っていればいいのかというとそうではない。座っていても背中が反れば(脊柱前弯=せきちゅうぜんわん)痛いし、立っても背中を曲げていると痛くはない。次回のMRI検査で詳細がわかると思うが予約が詰まっていて予約が取れたのが2月7日の9時15分だ。それから1週間後の熊本講習は大丈夫かしら。
14年01月27日(月) 今日はひがながの練習はオフ。痛む箇所は仙骨の右側あたりで痛む姿勢は上体を反らした時だということがはっきりしてきた。だから今日はそういう姿勢や動作をしないよう、1日中じっとしていた。 
14年01月26日(日) 先日のMRI検査結果は@股関節の関節裂隙はほぼ保たれている。A関節軟骨にも明らかな菲薄化や欠損は見られない。B関節唇に変性や損傷はない。自分で股関節と思い込んでいたので股関節のMRI検査をしてもらったがそうではなかった。でないとすれば、腰部に的を絞ってMRI検査をして正確な診断をして貰わなければならない。さあ正念場だ。
14年01月25日(土) 今日と明日、内海知秀氏(日本代表チーム監督)のクリニックが長崎西高校で行われる。今日は午後3時からだったので、その前に内海氏を川崎先生の見舞いに連れて行った。内海氏は学生時代に川崎先生によくかわいがられていたからだ。川崎先生は内海氏と目を合わせたが認識できていないようだった。残念。
14年01月24日(金) 昨日の朝、小倉さんのとくだね(KTN8:00〜9:50)で、スノーボードのパラレル回転・大回転でソチオリンピック代表選手の竹内智香選手(30歳)の特集があった。竹内さんは国内ではチャンピオンをとっても世界では20位台とまったく歯が立たず、一時引退も考えたらしい。が、もういちど考え直して世界選手権で上位を独占するスイスチームの合宿に自主交渉して参加させて貰い、そこでまた自分を見つめ直したそうである。そこから変身。ソチオリンピックのメダル候補になった。私はインタビューの中の彼女の言葉にビビッときてすぐメモした。その言葉は「私はコースを下見して、そのコースを滑る映像を作るんです」だった。私もひがながの選手の中から一人でも多くアタマの中で映像を作る選手を育てたいと思いながら毎日指導している。竹内さんありがと。
14年01月23日(木) 大学病院でレントゲンとMRIを撮った。結果は2日後ぐらいにはわかるだろうが、わかったからといって外科的な処置は3月末のクリニックが終わるまではできない。その間、どうやって痛みを抑えるかがカギだ。病院の駐車場から受け付けまで約50bあるが、それを歩くのが辛いのでステッキを持っていったがダメだった。痛い! 
14年01月22日(水) 目は醒めているが起きあがりたくなくてずっとベッドの中に居た。起きあがって立つと痛くなるのがイヤだったからだ。起きあがってからも出来るだけ立ち歩くのを少なくして椅子に座ってパソコンをいじっていた。やむを得ず部屋の中を歩く時も背筋を伸ばすと痛くなるので腰を曲げてそろそろ歩いた。ロキソニンを2週間飲んでも治まらなかった痛みからはとりあえず今日は解放された。しかし、今日も練習指導は座ったままだった。後輩のM氏からメールで「ホンダのユニカブって器械がありますよ」と紹介された。ピボットやジャンプができるユニカブが考案されたら考えてみよう。
14年01月21日(火) 今日の練習指導は椅子に座ったままだった。立つと痛いのだ。歩くとか見本を示すなんてとんでもない。座った姿勢はなんともなくて、マイクロバスの運転なら2時間連続であっても痛くはない。明後日MRIを撮るので、その画像を見て今後の対策を考えなければならないが、このままだと間違いなく2月15・16の熊本講習と2月22日の岡山講習と3月25〜28の山口講習は無理だ。今月中には対策を立てなければならない。 
14年01月20日(月) 九州春季選手権長崎県予選最終日を佐世保まで観に行った。今日は男女とも準決勝と決勝戦のみ。女子決勝の長西対長商戦は、なんと延長戦4回目で決着がついた。第3ピリオドまで長西が勝つ要素はどこにも見出せなかったが、なあ〜んだかわからないうちに長西が追いつき、なあ〜んだかわからないうちに長西が追い越してしまった。観戦した人の中には「長商の集中力が保たなかった」とか「長西の積極的なディフェンスが効いた」などを勝敗の分岐点として挙げる人が居るかもしれないが、そんな単純なことではなく、双方の監督にしか分からない裏事情が何かあったのかもしれない。ウーン。難しい。
14年01月19日(日) 松浦杯2日目。2日間ともセンターのM子を1人欠いて(ジュニア選抜の練習参加)の戦いになったが、バックアップセンターのK子が予想外の働きをしてくれて試合が成り立った。この働きを見て、実はK子はずっと前にこれだけ働ける力を身につけていたのではないかと私は思った。そうでなければ急に任務を与えられても仕事ができるわけがない。K子は自己アピールをしない選手なので私が彼女の成長を見落としていたのだ。となると、他にもそんな選手がいるかもしれない。これまでのランク付けをもう1度見直して明日からコートに立たなければ…
とはいえ、股関節の痛さは尋常じゃない。立ってベンチ采配ができないのだ。早めの対応が必要かもしれない。
14年01月18日(土) 松浦杯初日。相手の動作に反応するのではなく、相手の思いに反応する選手に仕立て上げなければならない。そう思いながら選手1人ひとりをずっと観察していた。 
14年01月17日(金) 今週末つばさ保育園の発表会がある。会場は毎年いいもりコミュニティ会館だ。リハーサルは毎年私のマイクロバスでピストン輸送をしてお手伝いする。私が目を付けるのは幼児可愛いい演技ではなく、それを動かしている先生方の動きと目配りと声かけである。勉強になる。が、明日と明後日はひがながが松浦杯に参加するのでつばさ保育園の発表会は見に行けない。
14年01月16日(木) 朝練への顔出し2回目。1昨日の個人特訓をチームオフェンスに活かす動きを作った。このように「この子がこれをできるようになったので、こんな動きが有効になるのじゃないか?」ということに気付いてチームをいじる。しばらくすると別の子がワンラックアップしたのでこれも組み込もうというアイデアが湧く。そうやってチームのカタチが出来上がっていくのだろう。私にもひがながの完成品がどんなものになるのか予測がつかない。
14年01月15日(水) また対馬から鯛が送られてきた。デカイ!。今回は風呂場で金槌と出刃包丁を持って鯛と格闘する自信がなかった。鯛の骨は硬くて刺さると痛いのだ。だから団地内のダイエーにある魚屋さんに持っていって捌いて貰った。「サカナを貰ったんですが捌いて貰えますか」「ハイハイ、300円いただきますが」「これです」「エッ!これ、釣ったんですか?」「そうです」「…すみません、500円いただきます」。追伸:小さいのはベンコ鯛と言われたので「レンコ鯛じゃないの?」と聞いたら「違う!ベンコ鯛とレンコ鯛は別だ」と対馬の人に言われた。 
14年01月14日(火) ひがながのお手伝いをするようになって初めて朝練に顔を出した。朝練は毎週火曜日と木曜日の7時15分頃から45分までやっているそうだ。朝練も午後練と同じように割り当てがあり、女子バスケ部は火曜と木曜が割り当てらしい。長崎市内の部活動指導は辛い。学校によって多少の差はあるだろうが、どこも練習時間が少ない。夏時間完全下校6時40分、秋時間完全下校6時20分、冬時間完全下校6時である。練習は夏でも秋でも冬でもだいたい5時からしか始められない。加えてひがながは生徒数も部の数も多いので各部とも体育館使用割り当てが少ない。ひがながの女子バスケのウィークデイ割り当ては月曜日と水曜日、それに金曜日が隔週割り当てだがハーフコートしか使えない。
話しを元に戻そう。朝練に顔を出したのは、強いチームを作るための個人特訓は放課後の練習では殆どできないからである。放課後練習は時間と場所が限られていて、その時間と場所を特定の選手(スタメン+α)のためだけには使えない。20人の部員全員平等にプレイする機会と指導して貰える機会を与えなければならない。だから、個人特訓は週2回、1回約30分の朝練でしか補えないのである。
14年01月13日(祭) 今日はひがながはオフ。私は午後から大村の郡中に指導に行った。午後1時から5時までノンストップだった。帰ってからが大変だった。右股関節が痛いのだ。このままだと、これから目白押しのクリニック実施が危ない。だから大学病院でMRIを撮ることにした(23日PM3時20分)。MRIの結果、やはり手術だとなればヘパリン置換の入院期間と手術リハビリを合わせた入院で計約1ヶ月の入院が必要になる。本気で今後のことを考えなければならない。
追伸:私が検査を受けたり入院する度に多くの方々から「お身体大切に」ということばを貰う。ありがたいがそれを素直には受け入れない。身体を大切にして生きてきたらこんなことにはなっていない。自ら身体を動かす指導者であり続けたいから無理をしてこうなったのだ。今後もそれは変わらない。査定ゼロになったクルマをあと何万q走らせられるかに挑戦するのが残る人生で自分に嫁した至上命題(論理学用語としては間違った表現)である。
14年01月12日(日) 西海杯2日目。1勝1敗。負けた試合の負け方に怒りを覚えた。練習の時は研究者でなければならないし、試合の時は戦士でなければならない。それがダメだった。
山崎語録コーチの部追加1:試合でのことばかけは、その後の試合展開をよくするものでなければならない。練習でのことばかけは何かを修得させるためのものでなければならない。君は使い分けているか?
山崎語録コーチの部追加2:コーチは部分図ではなく俯瞰図が描ける選手を育てなければならない。
山崎語録選手の部追加:元気の基は自分で作れ。コーチや親や友達はいくら頑張ってもそれを手助けしてやることしかできない。
14年01月11日(土) 西海杯初日。2勝したものの、私の口から出ることばをイメージ化して取り込める選手がなかなか出てこない。
14年01月10日(金) 「訓練を重ねた人間はなあ、気付きが増えるんだ。自分はどうだ?チェックしてみろ」。今日選手に言ったことばです。山崎語録選手の部#61です。 
14年01月09日(木) 5日ぶりにひがながの選手の顔を見た。来月2つ県外クリニックがあるのでそれまでに股関節痛を治さなければならないから、今日を含めしばらくはあまり激しい動きをしないで指導していこうと思う。人工関節にしなくても、もうしばらく現役コーチを続けていきたいから…。 
14年01月08月(水) 年末からずっと痛かった右股関節の診察をしてもらった。レントゲン検査では大腿骨の受け側(臼蓋部=きゅうがいぶ)の端っこが屋根の庇(ひさし)のように尖っていた(骨棘=こつきょくという。通常は丸みを帯びているが加齢とともに尖ってくる)。その骨棘が周囲の関節唇(かんせつしん)を刺激して炎症を起こしているらしい。変形性股関節症という名前を付けて貰った。最近では鏡視下手術で簡単にこの尖った部分を削れるようになったが、とりあえず投薬で炎症が治まるかどうか様子を見てみることにした。まだ、あちこちからのクリニック要請があるので、今足が動かなくなるのはまずい。あと3年は持ち堪えさせたい。でも、フィルジャクソン(ブルズ→レイカーズ)もコーチK(デューク大学)も人工股関節だということを聞いたので少し安心した。
14年01月07日(火) 今日と明日はひがながの練習は実力テスト前なのでオフ。夕方東町の松尾さんちの田んぼで行われた鬼火たきに招待されたので出かけてみた。やぐらに組んだ正月飾りが燃え落ちると竹に餅を挟んで焼いて食べる。鬼火の本体は小学生に占領されたので中学生は本体から火を少し貰って小さな鬼火をつくり、マシュマロを焼いて食べていた。セーターを着ていたほなみはおなもみの実がいっぱいくっついたのでついでにそれを並べ替えて自分の名前を書いていた。何より喜んだのは近辺住人のお年寄りたちだ。こどもたちが沢山集まったのでご機嫌だった。この光景を見ながら私は、地域の人たちと一体感があった小学生の頃のよき時代を思い出していた。
14年01月06日(月) 鶴鳴正月合宿が終わった。島原で行われていたオレンジカップも終わった。鶴鳴合宿では、昨年下級生主体で初参加した福井の仁愛と今年で3回目の参加になる旭川北(超進学校)が、この合宿期間中に見違えるようなチームに生まれ変わって帰って行った。オレンジカップでのひがながは、昨日の1位トーナメントでは2敗してしまったが今日の敗者戦では2勝したようだ。手当たり次第に練習試合をするのではなく、日常ちゃんとした目標を持って練習し、その成果を試すという明確な目的をもって遠征や合宿やカップ戦に参加するチームは、武者修行する度にたくましくなる。ひがながも早くそんなチームに育てたいが、クリニックやアドバイザーや講演の依頼がだんだん多くなってきたのでその調整が難しい。フー。 
14年01月05日(日) 鶴鳴合宿4日目。みんな一杯一杯で踏ん張ってはいるものの、身体の切れが悪くなっているのでシュートがポロッポロッと落ちる。でもめげるな。このデスマッチゲームで生き残った者だけがチャンピオンになれるのだ。
追伸:オレンジカップの1位トーナメントでは力不足でひがながは潰されたようだ。でも、どんな練習をするよりもこのような大会でとことん抵抗することが力をつける基になる。ガンバレ。 
14年01月04日(土) 鶴鳴合宿3日目。午後の部はみんなヨレヨレ。でもみんな健気だ。仁愛(福井)と旭川北の試合は死闘の末旭川北が1点差で勝ったが、見ていた私は途中で「引き分け!」と言ってタオルを投げ込みたかった。どのチームも自分の学校でこれだけやったらぶっ倒れる選手続出だろうと思われる試合を限界を超えて頑張っている。互いに相手チームからエネルギーを貰って踏ん張っているのだ。それを見ている私たちもまた選手からエネルギーを貰う。追伸:中学のオレンジカップでひがながは予選リーグ2連勝で今日は1位トーナメント進出だそうな。しかも2試合ともダブルスコアで。2位トーナメントに行ければ御の字だと思っていたので快挙だ。アッパレ。
14年01月03日(金) 朝1発目の審判をしたあと、10時半から1時までのひがなが初練習に顔を出し、午後からまた鶴鳴合宿に戻った。高校女子の肉弾戦を見たあとだったので5日ぶりに見る中学生の可愛いこと可愛いこと。 
14年01月02日(木) あけましておめでとうございます。恒例の鶴鳴正月合宿が始まりました。今日到着して夕方ゲームができたのは旭川北と鶴鳴だけ。 私と小磯典子で審判をしました。明日からは一気にチームが増え、忙しくなります。
13年12月29日(日) 午前中、大村市の郡中と諫早市の飯盛中をがひがながに招待して練習試合をした。練習が終わったあと、体育館の大掃除をしてから1年間の感謝の気持ちをこめてステージに鏡餅を飾った。これで2013年の練習が終わった。新年の練習開始は3日だ。ひがながの練習が終わったあと短大に用事があったので行ったら、短大の体育館でも香焼聖マリア合同、横尾、戸町、江平の4チームが集まって練習試合をしていた。今日はウィンターカップ最終日で、その試合がテレビでも放映されていたが、テレビや新聞紙面を賑わわせているビッグイベントの裏では、こうしてがんばっている人たちが地方にはたくさん居るのだということを我々は忘れてはならない。
追伸:私の活動開始は新年2日の鶴鳴招待合宿のアドバイザーから。それまで冬眠し、ブログも休む。Zzz........ 
13年12月28日(土) 今日は飯盛中にお世話になった。明日はひがながに飯盛中を呼ぶ。今日は飯盛中のキャプテンの浦川のお父さんが練習を見に来ていた。「浦川のおとうさん?」「はい、そうです」「お父さんスポーツは?」「はい、高校の時ラグビーをしていました」「俺、高校の3年の時は夏までバスケットをやっていてそれからラグビーに駆り出されたんだよ。当時はラグビーの高校総体が12月だったからね、2種目出られたんだ。バスケもラグビーも準優勝。俺賞状2枚持ってるよ」「エーッそうですか」「フロントロー3番」「エーッその身体でですか?」「俺小柄だけど当時はポパイみたいだったもん」「私もフロントロー3番なんですよ」「高校はどこ?」「長崎南です」「エーッ、それじゃあの原先生にしごかれたの?」「いいえ、私が入学した時は原先生は転勤されたあとでした」。世間は狭い。
13年12月27日(金) LEDが普及してから電力消費が少なくて済むようになったので、個人の家でもクリスマスイルミネーションが華やかになってきた。でも、我が家の近くのかき道2丁目公園の角イルミネーションを越えるのはまだ見たことがない。わざわざこれを見に来る人がいるくらいだ。見たい人は年末までは大丈夫だよ。 
13年12月26日(木) 安元晴男先生(早稲田大学理工学部卒→満鉄入社→敗戦で帰国後教職の道へ)が亡くなった。91歳だった。ここ数年、少し体調を崩していた時期があったそうだが昨日亡くなった原因はそれではない。10月中旬に自宅近くの路上でクルマの運転をしていて自損事故を起こしたのが原因だ。クルマを石垣にぶつけ、頭蓋骨骨折で入院された。私がそのことを知ったのは先月だった。私が試合報告書を送ると毎回こまめにコメントを貰っていたが、最近途絶えていたから心配になってご自宅に様子伺いに行った。その時娘さん(息子さんのお嫁さん)から事故のことを初めて聞いた。入院先は済生会病院だったが、目は開けているものの誰が尋ねて来たか認識できないし意思の疎通もできないので、誰が見舞いに行っても「その名前の方は本院には入院されていません」と対応してもらうように、家族から病院に依頼されていた。だから私も気になりながら見舞いには行かないままだった。こんなことなら生前に一目お会いしておきたかった。
安元先生は淵中学校の校長を退職されてすぐ鶴鳴の常勤講師として招かれた。鶴鳴には19年勤められた。安元先生が鶴鳴に来られる少し前から学校ではパソコンが導入され、私も独学で勉強し始めていた。安元先生が来られてからコンピュータ委員会という組織が編成され、そこで入試処理業務を行うようになった。私もそこに引っ張り込まれた。安元先生にコンピュータのことをずいぶん習ったが、それよりも安元先生には教育についてとか人間についてをたくさん習った。もっといろんなことを習いたくて、安元先生の自宅に若い先生を引き連れて押しかけたこともあった。惜しい人を亡くした。合掌。
13年12月25日(水) 今日は1日中つばさ保育園の月組(年長)さんと一緒だった。朝8時半出発で島原の農家サトウキビ絞りに行った。サトウキビを絞ったあとは昨年と同じように小浜町のホットフット105で足湯に浸かり蒸気でさつまいもや卵を蒸して食べた。昨年と違って今回は、こどもたちの面倒を見ながらずっとひがながの練習のことが気になっていた。監督も会議で時々しか練習に顔を出せないので、メニューは伝えてあるがほぼ自分たちだけでの練習なのだ。大丈夫だったかなあ。でも、なんでもかんでもおとなが介入する活動から脱皮させなければならないから、こんなことも時にはいいのかな。 
13年12月24日(火) 昨夜HPを更新してから寝付くまでと、今朝起きてからずっと、昨日の試合のことが何回も頭の中で巻き戻されている。中でも、小さなからだで骨を軋ませながら踏ん張ったR選手、日頃準スタメンで試合に出ているが昨日は大半の時間不調のまま終わったA選手、この試合で変身することを期待してコートに送り出したが不発のままベンチに下がったY選手の顔は何回もズームアップして登場する。どんな言葉かけをして励ますか、いくつかある中からまずどの技を身につけさせて自信を持たせるか、などなどが頭を駆け巡っている。今日はオフ。 
13年12月23日(祭) 九十九島杯最終日の3位決定戦。主力選手を3人(1人病気、2人選抜練習)欠いた中、スタメン常連の2人も、いつもはあまり試合に出ないのに今日は重責を負わされたベンチメンバーも、ノドがカラカラになるような不安と恐怖との戦いだったと思う。前半9点差で負けて折り返した後半、私は大事なタイムアウトの2つ目を早々と取った。ゾーンプレスの1線目を破られたあとのカバーで、相手のドリブラーを必死で追いかけるM選手の背中を見て取ったタイムアウトだ。「Mの背中には”絶対ゴールまで進ませないぞ!”と書いてあった。Mは復活したぞ。そのことをみんなに伝えたくて取ったタイムアウトだ。何かが悪かったから取ったタイムアウトではない」と私は選手たちに言った。Mは前半心細くて目に涙を浮かべながらプレイをしていたのだ。これにて一件落着。
13年12月22日(日) 佐世保で開催された九十九島杯にひがながが参加した。予選リーグ1位で明日の決勝トーナメントに進むことが出来たが、小さな事件に顔面蒼白になる幼さは相変わらず住み着いたままだ。根気しかないか…。 
13年12月21日(土) 長崎市中学新人戦の最終日を観に行った。家に帰ってからベスト4のチームの特徴とベスト4のチームの各選手の特徴について私意見を述べ、エクセルファイルにしてLINEで回した。「 ひがながの選手たちが、今日の試合を次に戦う敵として観ることができたか、展開されるプレイを”こうすればいい、ああすればいい、これはよくない”などの感想を持って観ることができたかどうかでひがながの今後が違います」というコメントを添えて。
備考:ヘルペスがまだ治らないので髭が剃れない。まだ4日しか経っていないが白髪の髭が恥ずかしい。フウ。
13年12月20日(金) M選手を怒鳴りつけた。2つ目のスクリメージを始めようとした時、M選手が肩をすくめて寒そうな格好をしていたからだ。「バカヤロウ!次は自分の出番だと分かっていたくせになんだその格好は!コートから出ろ!」.。でも、これは指導の一場面であって12月5日とはまったく違う。部活動の指導では、充実感や達成感を味わわせるのがもちろん最優先だが、生きることの厳しさも教えていかなければならない。その兼ね合いが難しい。
13年12月19日(木) マイクロバスの補助席のボルトが折れて傾いたので修理に持っていった。ボルトが折れたのは1個だけだったが他の補助席のナットもほとんどゆるんでいてガタガタしていたので締め直してもらった。船橋インターハイ(平成17年)の時に新車を買ってから8年半になる。私が鶴鳴を退職してからも鶴鳴バスケットに優先的に使わせているが、それに加えてひがながバスケットのカップ戦や他会場練習、それに高城台小学校の学童クラブの送迎が加わって、このところ使用頻度が高くなっていた。ボルトが折れた原因は度重なる振動による金属疲労だった。スポーツ選手の身体では疲労骨折という症状で現れる。人間は骨がポッキリ折れる前に「痛い」と訴えることができるがバスは痛くても訴えることができない。ゴメン。
備考:往復ともに女神大橋を通ったが、この橋は生活道路として便利なだけでなく景観もすばらしいよ。
13年12月18日(水) ヘルペスができた。痛い。痛くて髭も剃れない。原因はたぶん…長崎市新人戦のベンチ采配だろう。采配を振るうのに自信がないわけではない。戦術指示も選手交替もタイムアウトも何一つ苦にはならない。ただ、ずっと気になっていたのは私がベンチに座ることの、チームに対する影響とバスケット界に対する影響だった。それがグルグル頭の中を駆けめぐり大きなストレスとなっていたのだと思う。 
13年12月17日(火) 「まてよ?」と思って古いアルバムを開いてみた。やっぱりあった。小野秀二氏が能代工業高校を卒業して筑波大学に入学する前の春休み、延岡での筑波大学の合宿に参加する前に長崎に立ち寄った時の写真である。昭和50年3月下旬だった。私は鶴鳴に移籍する1年前、福田中学校に在職中で33歳だった。小野秀二氏はまだ18歳だった。平和公園グラバー亭などに連れて行った。この直後の公立学校教員の人事異動で私は教育委員会の指導主事を命ぜられ、その場で私は「1年は勤めますが来年3月に退職します」と宣言した。
13年12月16日(月) 短大在職中はずっと附属幼稚園のクリスマス行事サンタさんは私がやっていたが、私が辞めると代役を見つけるのが難しいので退職後も続けて私がやることにしていた。たぶん、私が生きてる間ずっと続くよ。
13年12月15日(日) 9時開始の長崎市中学新人戦のベンチを済ませてから長崎西高校のコーチ研修会会場へ、その後また桜馬場中学校に戻って午後の部の試合を指揮。バタバタッと1日が過ぎました。他人から見れば、引退後を楽しんでいるように見えるかも知れませんが、実は引退前よりもいろいろ思いめぐらすことは多いかも知れません。
13年12月14日(土) 小野秀二氏招聘のコーチ研修会に顔を出した。師範動作はまだまだ現役時代のプレイを思い起こさせる。今年56歳だ。研修会の会場ではいろんな人から「初采配はどうでしたか?」と聞かれる。お願いだからその話題には触れないでくれ。備考:小野氏のweb site→http://www.coach-shuji.com
13年12月13日(金) 11月26日に「監督の勉強の材料になるなら試合のベンチに座ります」と宣言した。最初の采配は11月30日のとどろきカップだった。明日は公式戦の初采配になる。実は26日に宣言はしたものの、多くの人々の目にとまる公式戦のベンチに座るのは気が進まないという気持ちに変わりはない。監督やこどもたちのお手伝いをするのが主であって自分が主になるのは本意ではないからだ。Hooh......
13年12月12日(木) 沖縄の川野さんから先月名護でクリニックをやった時の写真が送られてきた。空港から名護まで行く途中前原高校に立ち寄って安里先生を呼び出し、3人で昼食をとった。昭和53年の山形インターハイで辺土名旋風を巻き起こし、その後また北谷旋風を巻き起こした安里先生も間もなく定年らしい。名将がまた1人現場を去る。
13年12月11日(水) 昨日中尾ダム前のマイクロバス駐車場にバスを置きに行った時ジョギング用の手袋を落としたらしい。今日現場に行ったらやはり落ちていた。雨で濡れてぐしょぐしょになっていたので拾ってスクーターの足もとに置き、風で飛ばないように靴で踏んづけて帰る途中今度はもう一方をどこかで落としたようだ。一組60円の手袋なので惜しくはないが、このところバカばっかりやっている自分が悔しい。<(_ _)>
13年12月10日(火) ハア〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ。行きたくない。12月5日の自分自身に対する嫌悪感がまだ拭い去れない。
13年12月09日(月) うっかり出かけたが今日はひがながの練習は休みだった。週末に試合があるので、通常は金曜日がオフなのだが今週は月曜と振り替えたのだ。忘れていた。バカな自分にイラッとしながら帰る途中、ガソリンを入れようとしてスタンドに立ち寄ったが雨で視界が悪く、ハンドルを早く切りすぎてスタンドの手前の縁石に乗り上げてCUBEの前輪をパンクさせた。ぶつけた衝撃で修理不可能な穴がぽっこり空いていた。片方替えるとバランスが悪くなるので両方替えた。24500円取られた。バカな自分にますます腹が立った。 
13年12月08日(日) 朝は7時半から10時半までひがながの練習。滑石中が指導を受けに来た。午後は1時から5時まで郡(こおり)中に教えに行った。そんなこんなで今日も1日が暮れた。 
13年12月07日(土) 陸上部の監督の島田先生の慰労会をした。場所は思案橋の「こころ」。参加者はバスケット部監督の中島先生と私。11月30日に指宿で行われた九州中学駅伝大会にバスケット部からもお世話になったのでその御礼だ。ここはウツボ料理を食べさせてくれる。ウツボを食べさせてくれるところはここと網場の肥前屋しか知らない。 
13年12月06日(金) 今日はひがながの練習はオフ。昨日怒りを抑えきれずに怒鳴りつけてしまった自分への不愉快さがまだ払拭できない。叱ることは毎日ある。それは指導中の1場面だ。しかし昨日の数分間は指導ではなくただ怒りの感情を選手にぶつけただけだった。71歳になって半年過ぎたがまだ修行が足りない。
13年12月05日(木) 「・・・・・・」 
13年12月04日(水) ひがながは飯盛中学校で練習させてもらった。合同練習のあとスクリメージをした。飯盛の井手コーチからゾーンディフェンスもやって欲しいと言われた。「週末の諫早地区新人戦で対戦する○○中学がゾーンを布くのでその練習をしたいと言うのはダメだぞ。俺は頼まれたらどこにでも行くので特定の相手をやっつけるためにと言われると困る」と言ったら「分かってます分かってます」と井手コーチは言った。私はひがながをメインに指導しているが、もし長崎地区新人戦でひがながと当たる相手から指導依頼をされても私は行く。
13年12月03日(火) 浦啓二郎先生が亡くなったことを昨日知った。今日お通夜に行った。67歳の若すぎる死だった。親族代表で息子さんが挨拶された時に初めて食道ガンで亡くなったことを知った。北陽台高校に浦という豪傑が2人居るということは巷の噂で知っていた。1人は陸上の浦啓二郎先生でもう1人はラグビーの浦敏明先生だった。実物の啓二郎先生を私が知ったのは啓二郎先生が県教委の体育保健課に務めるようになってからである。私が、インターハイ、国体、ウィンターカップの3つの全国大会のうち国体を最優先にするようになったのは啓二郎先生の影響が大きい。自分の手柄よりも地域貢献や社会貢献を優先する人だった。啓二郎先生が教員になった年が1巡目の長崎国体だった。来年開催される長崎がんばらんば国体を啓二郎先生には見届けて欲しかった。合掌。
13年12月02日(月) 苦しい!昨年の7月4日、鶴鳴学園を去ることを決めた時に「これで論文から解放される」と思ってホッとしたということを前に述べたが、引退して悠々自適なんてとんでもない。外部コーチとはいえ、趣味や余暇利用ではなく責任を背負ってひがながのこどもたちに関わっているから気を病む日々が多いのだ。こどもたちのすべてに「バスケット部に入ってよかった」と思わせ「私、自分でもうまくなったと思う」と感じさせなければならない。フーッ。
13年12月01日(日) とどろき杯最終日。決勝トーナメントの初戦で今日もまた負けた。31対30だった。敗者戦では勝ったが主力選手といえどもまだ何が起こるか分からないので舵取りが慎重になり、10人までしか使えず5人は試合に出してやることができなかった。カップ戦は、@勝つAチーム全体に試合という生き物の正体を掴ませるB個人の長所を試合中に引き出しC個人の修正すべき箇所を試合で直させるD少しでも多くの選手を試合に出してやるということに全神経を集中させる。それは論文を1本書くより難しい。論文は読み直して書き直しができるが、目の前で展開されている試合は生き物で、巻き戻しが出来ないから。フー。 
13年11月30日(土) 11月26日付けのこの欄で、ひがながのベンチに座ることを公表したが、その初采配が今日のとどろきカップだった。そしてその初采配は黒星スタートとなった。しかも初戦の相手は部員が揃わないために合同でチームを作った小野・長田(小野中3人と長田中2人)チーム。笛吹けど踊らずの苦いスタートとなった。クーッ… 
13年11月29日(金) 今日、岡山の強化委員長から電話で、来年2月22日(土)の講習依頼があった。その前は鹿児島市教委から来年8月18日(月)の講演依頼があった。来春3月8日(土)・9日(日)の神楽坂スポーツ医学セミナーでの講演依頼は1年前の今年3月下旬だった。鶴鳴をやめたからフリーになったということが知れ渡ったからなのか、このところあちこちから、しかもずっと先の講演や講習の依頼が来る。私が役に立つのならどこへでも出かけていくがあまり先の予約をされるとその時元気でいるのかどうか心配になる。もう71歳を過ぎたのだから。
13年11月28日(木) 30日と1日は今年度最後のミニバス県大会だ。多分決勝は長崎ジュニア(諏訪小)と古賀小になると思う。諏訪小には先日依頼を受けて2日間指導に行った。請われたら私はどこにでも行くが、古賀小は現在メインで指導しているひがながの校区の小学校なので、請われはしなかったが、多分遠慮して指導依頼をしなかったのだと勝手に思って顔を出した。今日はひがながが飯盛体育館で練習をする日だったので、古賀小には30分ぐらいしか居ることができず、何の指導もできなくて「がんばってね」と言っただけだったが、これでどちらにも平等に顔を出すことができたのでホッとした。
備考:向こう側では男子が練習していたが、男子は高城台小から来ている選手が多い。数年前、私が高城台小のミニバスを立ち上げたのだが、継続的な指導ができなくなったので休部状態が長く続いた。だから高城台小のこどもたちは古賀小に来て練習しているのだ。すまん。
13年11月27日(水) 中村和雄氏(現:秋田ノーザンスピリッツ監督)のお母様が14日に亡くなったことを今日知った。103歳だったそうだ。45年前、中村氏が鶴鳴に務め始めてすぐお母様が秋田から様子を見に来られた。お母様は中村氏の下宿に着くやいなや「長崎の人は不親切だ!」とぷんぷん怒っていた。浜の町で鶴鳴への道順を聞いたが誰も教えてくれなかったというのがその理由だった。私も中村氏の通訳なしには生粋の秋田弁で喋るお母様の話はまったく聞き取れない。「いやいや、それはお母さんの秋田弁を聞き取れる人が誰もいなかったんですよ」と言ったら「私は標準語で喋っている。あんたも私の標準語が分からないのか」と初対面の私は叱られた。私と中村氏は腹を抱えて笑った。豪傑だった。この母親にしてこの子(カズさん)ありと思った。ご冥福を祈る。
13年11月26日(火) 4月下旬に東長崎中学の校長に会い、東長崎中学女子バスケのお手伝いをすることは既に承認済みで現在活動している。しかし私はその時「練習のお手伝いはしますがベンチには座りませんよ」と告げた。それは、監督の中島先生の上に立つのは良くないと思ったからだ。中島先生は再三再四私に「ベンチにも座ってください」と言っていた。私は「それは乗っ取りに繋がるからダメだ」と言って頑なに断っていた。中島先生は「乗っ取られてもかまいませんから」と言っていたが、それは私に丸投げして自分は楽をしたいという意味ではなく、私を利用できる間にできるだけ多くのことを私から盗みたいと思っていたからだ。ベンチにも座ってくださいの趣旨は、練習では勉強させて貰っているが試合のベンチで私が何を話すのかどんな指示を出すのかは勉強できないからだ。なるほどと思い、今後はベンチにも座ることにした。だが、中島先生1人で大丈夫だと判断したらすぐ撤退する。 
13年11月25日(月) 佐田の富士関(東前頭9枚目。加津佐町出身。小浜高校柔道部→大相撲)が多良見町の障害福祉事業所「ドリームパーク」に、里帰りする途中立ち寄ってくれた。この催しは同事業所職員の瀬川君と佐田の富士関が小浜高校柔道部の先輩後輩にあたり、その関係でタイミングが会えば訪問してくれる催しだそうである。同事業所の職員である梅本ママ(東長崎中バスケットの保護者)からお誘いがあったので私も顔を出させて貰った。200sはデカイ!俺の3倍だもんな。
13年11月24日(日) 今日の午後は鹿児島市内まで足を伸ばし、神村学園と一緒に鹿児島女子高校へ行った。鹿女子は 先日のウィンターカップ予選で優勝し、年末の本大会に出場する。3年生はあと1ヶ月で本大会なので注文を付けず、1・2年生のみに少しだけアドバイスをした。どこに言っても気になるのが目だ。自分の思ったことだけにしか目がいかない選手はやっぱりミスが多い。難しいことではないが、これはミニバスの頃に直しておくもので、放置しておくと学年が進むに連れて修正が難しくなる。
13年11月23日(祭) 9時〜12時、午後2時〜5時の2部練。神村は長年出入りしているチームなのでやっぱり基本から教え直しというものはない。でも、何かに熱中していれば時間が過ぎるのは早い。6時間があっという間だった。
13年11月22日(金) 今日から3日間神村学園の手直し。かもめさくらを乗り継いで午後4時に串木野に着いた。夕方指導したが、大筋では選手は分かっている。あとはそれに付随する細かい部分を追加するだけだ。それは私が短期間出向いて手直しするのではなく、日常の練習で積み上げていくものだ。ウーン、明日と明後日どうしよう。 
13年11月21日(木) 今日日本協会の弘田氏からメールがあった。今鹿児島に居るが明日から3日間長崎に滞在するので会いたいというメールだった。しかし私は丁度明日から3日間神村学園の手直しで鹿児島に行く。というわけで弘田氏とは明日午後鹿児島で短時間会うことになった。アジア大会のことやいろいろ話したいのだろう。
13年11月20日(水) 11月1日から部活は冬時間で6時完全下校だ。中旬に期末テストが入ったり県の会議があったりして実感が湧かなかったが、今日コートに立ってみて45分間しか練習できないことがわかった。しかも今日はハーフコートだった。深く追求することは何もできない。ウーン…。 
13年11月19日(火) 今日開かれた「国体強化助成専門部会」で今年の会議は終わった。先週の火曜日と昨日と今日と立て続けだった。フーッ。県の強化推進委員を命ぜられて18年目になるが、現場のスタッフや選手たちにこの会議の緊迫感を味わわせたい。会議の性質上それはできないが、それを味わうことができたら「強化費が足りない」とグチや泣き言をいう者はいなくなると思う。
13年11月18日(月) 12日(火)の国体推進会議をさらに細かく分けた分科会が今日開かれた。私は成年部会の議長だ。あとがんばらんば国体まで328日。もう、抽象的な発言や理想論は許されない。試合に直接関わるスタッフから的を絞った具体策を出させなければ天皇杯には近付かないぞ。
13年11月17日(日) ストレッチ(長崎成年女子の母体チーム)の全国大会祝勝会(於:セントヒル長崎)に出席した。鶴鳴OGではない選手からまでツーショットの記念撮影をせがまれた。スキャンダルネタになるようなものには努めて近寄らないようにしているが、今日はウーマンパワーに圧倒されて応じてしまった(UPしません)。フーッ。
13年11月16日(土) 日体協からジャーナルが送られてきた。日体協の公認コーチには毎年送られてくるものだが、これはC級コーチ以上とスポーツドクターにしか送られてこないそうだ。いつもはサラッと目を通して捨てるが今回は夕食を中断してしっかり読んだ。こどもたちのスポーツ指導に関わる人たちがそれぞれの考え方を述べている。自分を見直すのにとても良い資料だった。D級以下の方で読みたい方は貸しますよ。 
13年11月15日(金) 8日ぶりにひがながの選手たちに会った。試験休み期間中に描いていた構想を選手に説明して実際に動かして試した。構想というのは、これまではガード4人(1年生)にセンター1人(1年生)でスタメンを組んでいたが、それをガード4人中3人をスタメンとし、代わりにフォワード2人(2年生)を用意してその中の1人がスタメン、センターにもう1人(2年生)用意して2人とし、それぞれのポジションに必ずバックアップを1人置くようにしたことである。その組合せで連続性のあるパターンオフェンスを組み立て、オプションの種類を増やしながら練習した。今日は思っていた段階よりも先までやることができた。
備考:昨日の「かもしれないを捜せ!」について具体的に説明してくれと、兵庫県のミニバスの指導をしているNさんから質問があった。敵のA選手はここにパスするかもしれない。敵のB選手はここでドライブしてくるかもしれない。味方のC選手は敵のD選手に抜かれるかもしれない、などだ。その「かもしれない」がコーチから見た「かもしれない」と違っていて、結果的に失敗したとしても「あの、かもしれないは間違っていたのかあ」という財産が選手には残る。コーチから習うことを元にして本人が感じて動くことは財産になるがコーチからこっちに動けあっちに動けと指示されて動いた結果は、それが成功しても自分の財産にはならない。
13年11月14日(木) 長崎ジュニア指導2日目。ディフェンスの指導で私が再三使ったことばは「かもしれないを捜せ!」だった。「膝を曲げろ」とか「足を動かせ」とか「ピストル!(ボールマンと自分の相手から目を離すなというバスケット用語)」などのことばは使わない。「かもしれない」を捜しながら「見つけた!」となれば自然に膝は曲がるし足は動く。指導者はそういうことばをかけながらその結果に対して「ヨーシよく見つけた!」とか「惜しい!」とか「ナイス!」など、結果を評価することばをかけてやればよいのだ。と、簡単に言うがこれがなかなか難しい。バスケットの指導に関わって50年になるが、まだ自分に満点を出せない。 
13年11月13日(水) 長崎ジュニア(諏訪小ミニバス)の出張指導に行った。明日も行く。ミニバスの指導でもっとも大切なのは指導者のことばだ。こどもたちにぶつけるのではなく、こどもたちに染み込ませなければならない。これが難しい。
13年11月12日(火) 午後2時から3時半まで国体推進会議(議長は田中副知事)。先月行われた東京国体の反省と来年のがんばらんば国体に向けての重要な会議だ。今年のバスケットの成績は過去最悪だったので、この会議は針の筵に座らされているような気持ちだった。これも国体直前にして鶴鳴学園を去り、協会も去った私に責任の一端があると思っている。すみません。 
13年11月11日(月) 久しぶりにな〜んにもない1日だと思ってゆっくりしていたらTさんから「今日お時間取れますか?」と電話がかかってきた。午後3時にガストで待ち合わせて2時間いろんな話をした。もちろんバスケットの話だ。 
13年11月10日(日) 名護講習最終日。今日は中学男子の部だった。沖縄の選手たちの独特の個人技を殺さないよう型にはめず、なおかつチームオフェンスに活かすのに役立つ考えた方を教えるのに気を使った。あちこち講習に行った中でもっとも頭が疲れた3日間だった。今日は早く寝ます。
13年11月09日(土) 名護クリニック2日目。午前中は中学女子で午後はミニバス女子。昼休みには午後の部のミニバスのこどもたちが遊び始めた。それを観察しながら午後の部の内容を考えた。こどもたちの様子を見ながら思ったことは、「こんなに楽しそうにバスケットをしているこどもたちの笑顔をそのまま高校まで失わせない指導者にならなければならないなあ」だった。
13年11月08日(金) 名護市講演初日無事終了。講演や講習は少しも苦にならないが沖縄で何かをやる時は夜の懇親会が怖い。みんなよく飲むし、いつ始まっていつ終わるのかわからないからだ。でも今日はそんな私を気遣って10時半には終わってくれた。大城先生ありがとう。 
13年11月07日(木) 今日から1週間ひがながは試験休み。朝からつばさ保育園の金比羅登山(366b)に就いていった。膝の調子はまだ久住登山には無理だがとりあえず金比羅ぐらいなら大丈夫だということがわかった。ホッ。
13年11月06日(水) 飯盛中学校に出かけて行って合同練習をした。東長崎中(ひがなが)は部員20人だが飯盛中は8人だ。飯盛中だけではなくそんなチームが最近多くなった。先日練習試合をした横尾中は部員全員で5人しかいなかった。昨日の話の続きになるが、オリンピックを目指すことと並行してこどもたちの現状を改善する策をJBAもNBBAも本当に真剣に考えなければならない。みんな当事者意識を持って具体的に動こう。
13年11月05日(火) 先日の私の講演会受講者のMさんから「会って相談したい」というオファーがあって今日蛍茶屋のロイヤルホストで会った。Mさんの相談とは「勉強の塾はあるけど、バスケットの塾って変ですか?」という質問だった。私が知っている「バスケットボールの家庭教師(千葉県)」の事例を紹介した。「学校の部活は時間制限やコート割りに制限があって充分満足できないこどもたちがいる。そんなこどもたちの救済措置がないか」ということで思いついたのだそうだ。こどもたちのことを考えてこんなことを考えている人がいる。JBAもNBBAもがんばりましょう。 
13年11月04日(祭) 43年ぶりに女子日本代表がアジアチャンピオンになった。日本バスケ沈没の危機を救ってくれたスタッフ及び選手たちに感謝する。しかし悔しい。長崎新聞を開いたら、バスケ女子アジアチャンピオンの記事はスポーツ欄の右下に小さく載っているだけ。国内の大学駅伝、体操全日本団体、東日本実業団駅伝、 全日本学生柔道より扱いが下位なのだ。アジアチャンピオンになってもこの扱い。バスケットに関わっているみなさん、もっとバスケットが注目されるようにがんばろうじゃないか。
13年11月03日(日) 先月、東長崎中の試験休みの時にロードを走ってみたと書いたが、最近では中学生のスクリメージの審判ぐらいなら難なくやれるようになった。しかし、自分の身体を触ってみて情けなく思うのは尻の筋肉(大臀筋)が落ちたことだ(画像なし)。私の身体はもうスポーツマンとは言えない。ハ〜
13年11月02日(土) 南島原カップに参加させてもらった。西有家中学校の野中校長から「山崎先生はどこに観点をおいて試合を観ておられるんですか?」と質問された。「場面理解の度合です」と即座に答えた。野中校長は私が長崎市教委在職中に受け持った成年男子の部の国体選手である。この夏、後輩の早崎先生との二人三脚体制で西有家中を県中総体Championに導いた。校長在職期間も残り数年になってなおバスケットを追求しようとしている。脱帽!
13年11月01日(金) 午前中、つばさ保育園の芋掘り手伝いに行った。無邪気なこどもたちの顔を見ると気が晴れるかと思ったがダメだった。 
13年10月31日(木) 「・・・・・・」 
13年10月30日(水) 午後7時半から9時まで、桜馬場中学校で講演をした。鍛えるとか躾けるとか導くということばがキーワードの講演だ。親も教師もこどもたちの導き方に苦慮しているようだ。答えは簡単「おとなが力を付ければこどもは就いてくる」である。力のないおとなが増えたからこどもが暴走するのだ。 
13年10月29日(火) 気分が超ブルーになる出来事がありまして、3日間更新する気力が湧きませんでした。早く立ち直りたいと思っています。備考:念のため、その出来事とは私の身分に関することでも家庭のことでも財政のことでもありませんし、学校や保護者や選手とのトラブルでもありません。世間から見れば小さな小さな出来事です。
13年10月28日(月) 「・・・・・・」 
13年10月27日(日) 「・・・・・・」  
13年10月26日(土) 「・・・・・・」 
13年10月25日(金) 東長崎中の練習はオフ。今日は朝歯医者に行った。歯茎が痛い。歯周病だなこれは。帰宅後は家から一歩も出ないでずーっとパソコンをしていた。回顧録1章から6章までの紛失資料を見つけたので手直しをしていたら一日中かかってしまった。 
13年10月24日(木) 2年生が修学旅行中なので練習は1年生だけである。火曜と木曜は飯盛体育館を借りて練習しているが8人(9人中風邪で1人欠席)では何もできないので飯盛中学校にお願いして練習試合をしてもらった。手伝い始めてからまだ本格的にディフェンスに手を入れてはいないが今日はスイッチをちょっとだけ教えた。すると試合運びがこれまでとガラリと変わった。若いからちょっとした刺激で変わる。若者という生き物はおとなの関わり方次第でどんな色にも染まると思うと怖くなる。
13年10月23日(水) 明け方ビュービューという風の音で目が醒めた。8時過ぎに東長崎中2年生の修学旅行団は出発したのかどうか電話で確かめたら出発したということだった。楽しみにしていた修学旅行が中止にならずにホッとしたが、今度は京都市内学習やユニバーサルスタジオ観光が雨や風で台無しになるのではないかと気になり、台風情報をひっきりなしにチェックした。バスケットだけ教えてやればいい外部コーチであるはずなのにいつのまにか気分は身内になってしまっている。 
13年10月22日(火) 今日は10時から5時までずっと、安全運転管理者講習会で缶詰だった。安管講習というのは、大型バスを所有している事業所には必ず安全運転管理者というのを置かなければならないことになっていて、毎年安全運転管理者が受講を義務づけられている講習会だ。私は個人でバスを持っているので私が安全運転管理者である。この講習を受けて毎年思うのは「受講者に退屈な思いをさせない講演をする講師になりたい」である。
13年10月21日(月) 昨日は忙しかった。朝から佐世保に高校ウィンターカップ予選を観に行き、午後は諫早で行われている中学1・2年生の各地区対抗試合を観に行った。同時に長崎地区秋のミニバス大会も行われていたがそれは観に行く余裕がなかった。中学選抜の試合を観ながら東長崎中の選手を思い浮かべたが、2年生は体格はそこそこだがミニバス経験者が皆無に等しくてバスケット的には幼稚の域を出ていない。。1年生はミニバス九州大会優勝経験者が数人いるが体格が幼くて当たり合いでもみくちゃにされてしまう。このところ1年生と2年生の質の違う「幼さ」の解決策が見あたらず苦悩する日々が続いている。
13年10月20日(日) ウィンターカップ予選最終日。男子長崎工業、女子純心女子高校の優勝。純心は前任の舟越先生時代には数回全国大会に出場したことがあるが大久保先生に替わってからは初出場。汐碇先生は平成3年と4年に2年連続長崎東の男子を率いてインターハイに出場したことがあるが、それからずっと女子畑だったので久々の全国大会出場だ。まずは両監督おめでとうと。特に大久保先生は平成15年まで公立中学校の教師だったのを辞めて純心に移籍したあと、様々なアクシデントに見舞われ、不運の10年を経ての優勝なので感慨一入だろう。
13年10月19日(土) 午前中東長崎中の練習を見たあと、午後は夕方5時半まで大浦小学校で行われた小学4年生以下のサッカーの練習試合を観に行った。結子(小1)の成長ぶりを観に行ったのだがずいぶん成長していた。携帯で動画を撮ろうとしたが「電池残量が足りません!(13%)」と携帯に叱られ、撮影できなかった。残念。スポーツを楽しんでいるこどもの姿って、やっぱりいいよ。
13年10月18日(金) 右の下の奥歯から薬品の臭いが浸みだ出してきたので歯医者に行った。薬品の臭いはずっと前に根っこの治療をした時の薬品が、歯茎が炎症を起こして歯根膜が浮いてそこから浸み出しているのだろうと言われた。これもやはり俺が古くなった証拠か。
13年10月17日(木) 東長崎中に関わってから4ヶ月。選手たちは心身ともに「こども」の域を抜け出せない。フーッ。 
13年10月16日(水) 監督の中島先生から問われた。「パワーを付ける練習を取り入れる必要はないでしょうか」。彼は、腹筋背筋やスクワットなどの筋トレに加えてフットワークなどを日常の攻防の練習の中に取り入れる必要はないかと問うているのだ。私の答えは現段階ではNG。選手たちの幼い身体つきからパワートレーニングの効果が出るとは思えない。それより、今は攻防の場面で相手の動きを逆利用して自分の力にする目や技術を身につけた方がよいと思っている。パワーを身に付ける練習は選手に辛い思いをさせる。辛い思いをさせる練習は必ずその成果を出さなければただ選手をいじめただけで終わる。 
13年10月15日(火) 私の串木野滞在中に東長崎中は時津長与杯というカップ戦に参加した。神村の手直し中は神村の選手に私の全力を投入するが、長崎⇔串木野の行き帰りの車中では東長崎中の選手たちの顔が私の頭の中で走馬燈のように駆けめぐる。しかしどの顔を思い浮かべても相手選手をきりきり舞いさせている図は登場しない。スタメンの5人すべてがこじんまりとまとまってはいるがパワーがないからなのだ。6月にお手伝いを引き受けて以来そのことがずっと気になっていたので、今日の練習でバスケット的にはまだまだ未熟だがパワーのある選手を起用して実験してみた。その意図についてはもちろん全選手に伝えた上でだ。このままでは本当に強い相手に戦えるチームにはならない。来年3月までにその問題を解決しなければ…。
13年10月14日(祭) 串木野最終日。今日も6時間半。各地区から選手を集めたクリニックではなく、ひとつのチームを手直しするのはキツイ。そのチームの良さを殺さないようにして、滞在期間中に何かを残して帰らなければならない。それが大変なのだ。今日はチームの中で1人コツをつかんだ選手が出てきてそこを起点に私の意図することがチーム内に浸透していったので、帳面消しに終わらずホッとした。(新幹線つばめ車中にて。安心したのか眠いZzzz…)
13年10月13日(日) 2日目は朝9時半から夕方5時半まで、実働6時間半の指導をした。手直ししたいことが午後になってやっと伝わり始めた。すると欲が出る。さらに発展させようとしたら選手が混乱し始めた。ウーン残念。
13年10月12日(土) 今日から3日間串木野で神村学園の手直しです。どこまでお役に立てるやら。止まりは2泊とも剣道部監督室なので(体育館隣)何時まででもやれます。今日は午後からだけなので4時間で区切りをつけました。 
13年10月11日(金) 1週間ぶりに東長崎中の選手たちに会った。やっぱりこどもだった。1週間でおとなになるわけないか。金曜日は体育館割り当てがない日なので諫早市高来町のとどろき体育館まで出かけた。北諫早中とスクリメージをさせてもらった。立派な体育館だった。諫早市にはもっとも古い諫早市体育館をはじめ、多良見町体育センター、小野体育館、飯盛体育館、森山スポーツ交流館、とどろき体育館、諫早市中央体育館と、室内球技が実施できる体育館が7つもある。全国でも人口14万人のちいさな市でこれほどスポーツ施設を持っているところは珍しいだろう。ビックリ。
13年10月10日(木) 東長崎中の試験休みは今日までだ。1日中家に籠もっているのは身体によくないので今日も軽く走った。走ったというより競歩といった方がいいが…。かき道3丁目のバス停→かき道4丁目→南通り→橘小学校前→かき道3丁目と団地を1周する2.1qのコースだ。競歩だったので膝には何の異常もないが、昨日侍石坂を登ってくる途中に不整脈だ出たのをまだ引きずっていて気持ちが悪かった。昨年の夏に心房細動と診断されてプラザキサというクスリを毎日服用しているが、平坦地は平気でも上り坂になって心拍数が上がると不整脈が出るようだ。俺も古くなったなあとつくづく思う。 
13年10月09日(水) 台風が過ぎ去ったので今日も走ってみた。自宅前のかき道3丁目バス停を出発して侍石坂を下り、矢上交差点を右折して高速道路の真下を折り返す丁度5qのコースだ。走り始めたからひどくなったわけではないが右膝の外側の隙間が痛い。夏頃気付いた。外側側副靱帯ではないと思う。半月板かなあ?もしそうだとしたら、放置しておくと残り少ない軟骨に傷がつくから一度MRIを撮った方がいいかなあ?その結果手術となっても、ヘパリン置換で10日も入院するような手術はもうやりたくないしなあ。3泊4日ぐらいで済む鏡視下手術ならやってもいいけど。ウーン…。米倉先生宮本先生どうしよう? 
13年10月08日(火) 東京国体が閉幕した。長崎県は天皇杯10位だった。私は県バスケットボール協会の役職も鶴鳴もこの春辞めたが、県競技力向上対策委員だけは辞めさせてもらえずに続けている。17年目だ。長年この仕事に関わっているので、国体開催前年の10位確保がいかに重い順位であるかがよくわかる。一昨年の山口国体では15位。この勢いで行くぞ!と意気込んだが昨年の岐阜国体では20位に後退。おそらく、競技力向上対策課の職員たちは10位以内を確保できなければ切腹覚悟で臨んだに違いない。テレビのニュースで「天皇杯長崎10位」が出たとたん、競技力向上対策課職員面々の顔が次々に浮かんだ。おめでとう!そしてありがとう!
13年10月07日(月) 4日、7ヶ月ぶりにロードを走ったが5日は雨で走れなかった。昨日はまた5q走ったが今日は足がパンパンで走れない。まだ毎日走るのは無理のようだ。午後、市内の小中学校はお宮日初日で午前中のみの授業なので、理子・結子・彩花・勇歩の4人を連れて街に出た。夢彩都前は人々々。梅ヶ枝餅の店はどこも長〜い行列で買えない。久しぶりにジージ役をやった。フー。 
13年10月06日(日) 昨日、なぜあんなことを書いたかというと、今後私に講演やクリニックを依頼(決定も予定も含めて)している人たちに知らせておかなければならないと思ったからである。私は過去の暴力指導については6月19日のこの欄と9月20日の講演時に告白と懺悔をしているが、昨日の事例を機に、私に講演やクリニック依頼をしている人たちに@そんな人には講演を頼めないとかA山崎先生の名前が新聞に出れば考慮しなければならないとかB新聞に出る出ないに関係なく予定通り依頼するなど、考えてもらう機会を与えなければならないと思ったのだ。私自身としては、私の体験が活かされる依頼があればこれまで通りの活動を続けていこうと思っている。もっとも、裁判にかけられて有罪判決を受けるようなことがあれば話は別だが…。
13年10月05日(土) 昨日、鶴鳴にKと名乗る男性から「平成15年にバスケットボール部で体罰があったのを知っているか?」という電話があったらしい。鶴鳴の教頭から私に「先生心当たりありますか?」という問い合せがあった。K氏は「うちの娘は監督にビンタされて頬が腫れ、口の中を切った」と言ったそうだ。思い出せない。思い出せないが相手がそう言っているのなら事実なのだろう。暴力については6月19日の欄に書いてるように若い頃の私はひどかった。しかし20歳台の後半には、暴力を振るった日の夜は気分が悪く「明日は絶対暴力を振るわないぞ」と思うようになっていた。ではそれ以後暴力を振るわなくなったのかというとそうではなく、しばらく沈静化しているがまた暴れるという繰り返しだった。暴力の程度もだんだんおとなしくなっていくが「私は○○年以降暴力を振るわなくなりました」とはっきりその時点を明言する自信はない。ちなみに、9月28日に昔の教え子が私の退職慰労会を開いてくれた時にN子が「私先生にビンタされて鼓膜破れましたハハハ」と言っていたがそれを私はまったく思い出せなかった。私は過去に数多くの暴力を振るっているはずだが、いつ、どこで、誰を、何発ビンタした、というのは暴力を振るわれた選手には申し訳ないがほんの数件しか覚えていない。K氏は新聞社と警察に知らせると言ってるらしい。私に社会的制裁を受けさせるのが目的なのだろう。私の過去を振り返れば暴力に関して清廉潔白ではないのだからその制裁は甘んじて受けなければならないと思っている。
13年10月04日(金) 今日から10日(木)まで1週間東長崎中の部活は試験休みである。昨日選手たちに「7日間のうちに6回は家の周辺を少なくとも4qはジョギングして身体が鈍らないようにしておけ」と言ったので私も家の周辺を走ってみた。玄関を出て侍石(さぶらし)の坂→ジャスコ前→矢上大橋→矢上団地トンネル→自宅のコース(5.3q)である。38分16秒かかった。膝を曲げて体重をかけるとまだ痛いので着地時に膝を伸ばした競歩状態の走りしかできない。走ったのは3月3日以来7ヶ月ぶりである。9月2日にMRIを撮ったが画像では軟骨は薄い膜といった程度しか再生していない。加えて左膝と同じくらい傷めている右膝には少し水が溜まっているのでそれも用心しながら走らなければならない。トンネルから自宅までの1.7qがずっと上り坂でこれが応えた。到着後は玄関で伸びていてしばらく起きあがれなかった。 
13年10月03日(木) 東長崎中学女子駅伝は市大会で優勝した。バスケット部からは2人走った。3年生の中尾は4区で区間1位。1年生の熊谷は2区を走り区間2位だったそうだ。おめでとう。私が中学生の頃の駅伝大会は、平和町の文化会館(現在の原爆資料館)をスタートして日見トンネルを越えて矢上まで国道34号線を走るコースで、各校沿道に並んで声援を送った。その後交通量の多い一般道を走るのは危ないというので陸上競技場の周回コースを走るようになったが、駅伝競技は走者は道路を走って応援は沿道にならんで声援を送る方が絵になる。
13年10月02日(水) 2階のパソコン部屋に消臭剤が置いてあった。「何コレ?」「臭いがするから」「俺の加齢臭か?」「…」。私と嫁の会話である。 
13年10月01日(火) 今日はふたつある。ひとつはつばさ保育園の月組(年長)さんをマイクロバスで島原のわかくさ保育園まで連れて行ったことだ。わかくさの子はたくましい。園庭ではヤギの子も人間の子も同居している。ふたつめは夕方家に帰ってから右足のふとももの裏がつったことだ。28日からずっとオーバーワークぎみだったのに加えて今日は東長崎中の練習に新メニューを加えた。その練習で動きに急な変化を付けることを教えるのに「キュッと」とか「サッと」とことばで表現しても選手にはイメージとしては伝わらない。そこで見本を示す。 やりすぎた。フー。
13年09月30日(月) 今朝起きたら鼻腔粘膜に張り付いた風邪ウィルス一個小隊の生き残りが応援を頼み、一個中隊(約140匹)ぐらいに増えていた。クソ!でも、鼻腔粘膜からノドにかけて活動しており、気管までは進入していない。 
13年09月29日(日) 今日は朝9時から午後2時まで神村学園の手直し。午後3時半から6時まで東長崎中学の指導。計7時間半。さすがに疲れた。今日は何もしないで早めに寝る。Zzzzzzz...........。 
13年09月28日(土) 今日は、8時から10時まで東長崎中学指導(於:東長崎)。10時30分まで神村学園の指導(於:小ヶ倉中)。13時から米倉医師による膝の診察(於:楢林医院)。14時から郡中学指導(於:飯盛体育館)。16時から神村学園と鶴鳴のスクリメージ審判(於:鶴鳴)。18時から昭55年卒の選手たちが企画してくれた退職記念慰労会(ベストウェスタンプレミアホテル5F仁)に顔を出した。川井熊谷はわざわざ埼玉と東京から駆けつけてくれた。忙しい1日だった。昭和の頃の教え子たちに会うのは重い。 彼女たちは私に殴られた話も懐かしい思い出として笑い話にして楽しんでいるが、殴ったことだけでなくあの当時の私は指導者として未熟過ぎた。それを思い出すと心が痛むのだ。フ―ッ。みんなと別れて鶴鳴のセミナーハウスに戻り、神村学園の進藤先生とミーティングをしたが、途中当直当番のサムが「先生助けてください」と言って監督室に駆け込んできた。彼女たちが寝ている食堂に行ってみるとマッハがほうきを持ってテーブルの上に上がって降りられないでいる。ゴキブリが出たのだそうだ。ゴキブリを部屋の隅に追いつめてティッシュで潰して一件落着した。今日はいろんなことがあった。
13年09月27日(金) 明日と明後日は神村学園が鶴鳴で合宿する。明日午前は私が神村の手直しをする。午後は鶴鳴と神村のスクリメージ。明後日の午前はまた私が神村の手直しをする。よって今日と明日は神村と一緒に私も鶴鳴のセミナーハウスに泊まる。しかし、神村の鶴鳴到着は夜9時を過ぎる。だから今日は夕方5時45分上映開始の「風立ちぬ」を観に行った。もっとも気になったのが堀越二郎氏の結婚である。映画の中では菜穂子さんと恋愛結婚をするが結婚してまもなく新妻の菜穂子さんは結核で死んだ。帰ってから調べたらそれはフィクションであり、実際の堀越二郎氏は見合い結婚で6人の子宝に恵まれている。実在の人物を扱った本や映画はちゃんと事実関係を調べなければ思い込みが一人歩きしてどんどんふくらむ。危ない危ない。
13年09月26日(木) 風邪症状が出てから31日目。鼻腔粘膜の天井に風邪ウィルスの一個小隊(約36匹)がへばりついている。それが消滅するのにさほど時間はかからないだろう。今度こそ収束だ。ホッ。 
13年09月25日(水) 9月18日から東長崎中学校の部活動練習は秋時間となり、6時20分完全下校となった。下校時刻に間に合うためには6時5分には終わらなくてはならない。帰りの会や掃除が終わって練習を始められるのがおおむね5時だから約1時間しかできない。しかも11月になったら冬時間になり、6時完全下校だ。何もできない。ウーン…
13年09月24日(火) 東長崎の選手に4日ぶりに会った。教えているプレイと似たようなプレイはするが、場面がほんの少し変わるとまだ対応できない。ところで風邪症状が出てから今日で29日目。今朝は5時から咳が止まらず寝られなかった。オキシメーターで測定したが、酸素飽和度は98%なので肺炎ではなさそうだ。それにしても長い。フーッ。 
13年09月23日(祭) 宇部錬成会最終日。錬成会そのものは午前で終わったが午後は参加チームの監督の要請で午後からクリニックをした。午後5時37分厚狭駅発の新幹線こだまに乗るので約2時間強しか時間がない。オフェンスの組み立ての考え方に的を絞って教えた。つなぎ→崩し→しかけの基本的な考え方、それに絶対必要なディフェンスとのズレ(間合い)と敵味方の配置(スペイシング)の適不適の見分け方を教えようとしたが2時間では無理だった。 
13年09月22日(日) 宇部錬成会2日目。昨夜の城北のステップアップは冗談。城北をサカナにして遊んだだけ。さて本論。合宿や遠征をすると自チームの弱点が浮き彫りにされる。それは2つに分けられる。@日常の練習での観点が甘いからそうなる。Aちょっと変わった毛色のチームに対応できないでいる。@もAもその場で修正することはできる。しかし、あれもこれもいっぺんには解決できない。いくつかある項目の中から優先順位を決めて的を絞って取り組まなければならない 。最悪なのは、うまくいかないゲームを罵声と皮肉で終わることである。
13年09月21日(土) 宇部錬成会視察初日。朝5時半に起きて諫早発6時50分のかもめに乗ったので、半分寝ぼけていて携帯電話をベッド脇に忘れてきた。23日夜9時半まで携帯は使えない。ハーッ。夜のミーティングは城北を如何にしてステップアップさせるかを議題にする。ミーティングの結果は個人情報なので公開できない。 
13年09月20日(金) 6月22日のこの欄で述べた長崎市教委主催「スポーツ現場から暴力を無くすには」というテーマの部活動指導者研修会で講演をする日が遂に来た。午後7時から8時半まで、告白と懺悔の連続だった。講演が終わった直後「先生!」と言って近付いてきたヤツが居る。山下(旧姓)登紀子(桜馬場→鶴鳴→シャンソン)だ。「お前lは俺の心の傷に塩を振りかけに来たのかあ!」と言って、背中を押してドアの外のロビーに押し出した。山下は私が桜馬場中に務めて2年目の選手で、私が選手をボコボコにしていいた時代の生徒である。唯一私に反抗して至近距離から私の顔面にボールを力一杯分投げつけた選手だ。講演後ロビーに出て昔話に花が咲いたが、近々みんなに連絡して集まりたいと言っていた。その時は護身用の武器を持って行かなければ…。
13年09月19日(木) 久しぶりに朝起きてから7時間ぶっ通しでパソコンの前に座っていた。風邪はまだ棲み着いている。25日目だ。咳はまだ止まらない。鼻水が少し出るようになった。普通、鼻水→ノド→肺という順番で風邪は進行していくが今回はまったく逆コースだ。これも地球温暖化の影響かなあ。 
13年09月18日(水) 富山の竹澤さんから写真が届いた。富山訪問の時なに私は長崎県チームの監督ジャージと退職記念Tシャツを寄贈したが、それを浦町会館の壁にパネルにして飾ったという写真だった。これから何年もこの壁に飾ってあると思うと恥ずかしい気もするが、浦町の名誉町民になれたような誇りもちょっぴり味わっている。 
13年09月17日(火) 息苦しさは減ったが風邪はノドに引っかかったままだ。咳が頻繁に出る。今日は東長崎の生徒から贈り物を貰った。祝敬老と書いてあり、身体をいたわれという意味なのか中身は栄養ドリンクだった。鹿児島の鮫島先生からも贈り物が届いた。ペコロスの母に会いに行くというコミックエッセイだった。いくら背伸びしても俺はやっぱり年寄りなんだ。ハ〜。 
13年09月16日(祭) 3日間の講習を終えて厚狭駅からこだま745号に乗った。疲れてすぐ眠った。博多駅に着いたら鹿児島本線のホームがごった返している。台風の影響かな?と思ったが電光掲示板には大野城−水城間で起きた人身事故の影響だというテロップが走っていた。私が乗る予定のかもめ43号の発車時間になっても37号17:15発、39号17:55発、41号18:15発がまだ出発していない。43号を待てずに1時間45分遅れの41号自由席に乗って帰った。諫早に着いたのは10時13分だった。41号に乗っても、43号の諫早着時間を1時間43分も遅れている。43号に乗ったらあと1時間は遅かっただろう。大変な目に遭ったが、車中でストレッチの第2回全日本クラブバスケットボール選抜大会優勝のニュースが携帯に入ったので少し元気が出た。備考:風邪はノドで停留。 
13年09月15日(日) 山口講習2日目。中学生と高校生は違う。当然のことだが高校生にはこちらが伝えたいことが日を重ねる毎に浸透していくのと残留していくのが分かる。こうして、高校生と中学生の両方を教えてみると、ミニバスの指導者ってとても大変だろうなあと想像できる。追伸:風邪は気管からノドまで上がってきた。
13年09月14日(土) 風邪が治らないまま山口講習初日を迎えた。講習中には咳き込まないが昼休みや講習後はひっきりなしに咳き込む。講習中は大きな声で指示するし激を飛ばしているのでそれを俺の脳が「この人咳き込んでいる」と勘違いして練習中に出そうな咳を押さえ込んでいるのかもしれない。フーッ。 
13年09月13日(金) 今度こそ峠を越えたようだ。が、まだ喉仏の下10〜15pあたりにゼロゼロが残っていてしょっちゅうむせる。最近のブログを読んだ味トレの古海五月から「本当に将来の日本協会や日本バスケット界のことを考えるとしたら山ア純男さんまだどこが痛いとか具合が悪いとか言ってられませんよ。一緒にがんばりましょ!」と檄を飛ばされた。ウーンあと7年、くたばるわけにはいかんか…。
追加のTシャツ40枚が出来上がってきた。前回の色は鶴鳴色のサックスだったが少し薄かったので今回は少し濃いターコイズブルーにした。最近みんなTシャツをダボッと着ているので前回サイズはXLとLしか注文しなかったが、大人の小柄な女性にはLでも大きすぎたので今回はXLとLとMの3種類注文した。前回大きすぎた人ごめんなさい。
13年09月12日(木) 昨日も今日も、朝起きてから東長崎中学の指導に出かけるまでは1歩も外に出ず、殆どベッドで寝ていた。体力を温存するためだ。14日の朝6:50にかもめで山口に向かう。それまでに風邪を征圧しなければ…。
13年09月11日(水) バスケットのルール変更はFIBAがオリンピック毎に改正して各国に通知し、各国競技団体が各カテゴリー(一般・高校・中学)に通知する。実施時期に多少のズレはあっても各国のルール改正はその手順を踏んで現場に浸透していく。日本のミニバスルールはどうして変わらないのかと思っていたら、一般のFIBAルールは2012年に変わっているが、FIBAのミニバスルールが2005年から改正されていないから日本のミニバスルールも変えられないのだという。私はFIBAミニバスルールを調べた。その抜粋を掲げるが、確かに2005年以降変わっていない。だが、内容を読んでみると10歳以上のリングの高さは305pで10歳未満は260pだとしてあるし、全選手が2ピリ出場しなければならないとなっているし、ボールは高学年は5号で低学年は3号となっている。バックパスルールもある。FIBAミニバスルールが変わらないと言いながら、日本ではFIBAミニバスルール通りにはやっていない。それはFIBAミニバスルールが日本の実情に合わないからだろう。アメリカも同じだ。高校の試合でさえショットクロックはない。それだと、攻める技術よりも攻めないで時間を稼ぐ技術が重要になるだろう。そんなことをやっていながらミニバスケット男子は305pのリングでゴム製の7号ボールを使っているのだ。私にはアメリカのバスケット協会の考え方が理解できない。日本もアメリカもFIBAのルールに基本的に従いながらも教育的配慮により国の実情に合わせてアレンジしていると言いたいのだろう。それなら、日本のミニバスルールが変わらない理由をFIBAミニバスルールが変わらないからとしているのはうなづけない。2012年にFIBAルールが変わった時点で、ミニの選手が中学に進級した時にこのままでは実情に合わないからということで独自に変えてもいいのじゃないのか?例えば、2012年の改正で中学男子のボールが7号になった時に「小学校で5号を使っていて、中学になったらいきなり7号ではやりにくいだろうなあ」ぐらいは気にして欲しいのだが…。
追伸:今日もまだウィルスとの闘いは続いている。手で頭の皮を揺らすとビリッと痛みが走る。熱がある証拠だ。
13年09月10日(火) 今回は体温計を見るのが怖くて熱を計っていないが、8日の夕方も9日の夕方も自分の体感では39度を超えていただろうと思う。昨日の東長崎中の指導はコートに立っているのが精一杯だった。昨夜は手を頭に当てると頭の皮が熱かった。「風邪ごときで死にたくはないなあ」と思った。やむを得ずカロナール(昨年インフルエンザに罹った時服用せずに持っていた)を服用した。発熱というのは体内に侵入してきたウイルスや細菌を死滅させるために起こる自己防御反応なので、発熱による体力の消耗が起こっていない時には解熱剤を服用すべきではないということは知っている。でも、今週は2週続けて週末長崎を留守にして東長崎中の練習に顔を出せないのでクスリを飲んだ。今朝起きた時には頭の皮は熱くなくて、頻繁に出ていた咳も少し治まっていた。カロナールは200rを1錠しか飲んでいないので、熱が下がったのはクスリの効果ではなくてたぶん丁度収束の時期と重なったのだろうと思う。どうやら峠を越えたようだ。…とここまでは12:30に更新した。以下は22:00に再度更新。
夕方、東長崎中の指導後また熱が上がってきた。頭の皮は昨夜ほど熱くないが口の前5pぐらいのところに手のひらを置いてハーッと息を吐くと熱風が顔にはね返ってくる。たぶん37.8度から38度くらいだろう。ウィルスの残党が元気を取り戻したみたいだ。でもカロナールはもう飲まない。またしばらく闘いが続く。
13年09月09日(月) 先月26に引いた風邪がずっと長引いていて昨日は熱が出て寒気がした。ヤキが回ったようだ。ところで、昨日の続きを書きたい。ミニバスケットについてだ。日本協会主導なのかミニバス連盟主導なのか知らないが、私は東京オリンピック開催決定を契機にミニバスルールを中学以上のルールに近づけたらどうだ?と提案したい。こう言えばミニバス関係者から「小さい子はボールがリングに届かないんですよ」という意見が返ってくる。それはもちろん承知の上だ。私が数年前高城台ミニバスの立ち上げを手伝った時に保護者から「何年生から入部できるんですか?」という質問を受け「二足歩行ができるようになった子は誰でもいいですよ」と言った。当然保育園児も入部してくる。私は体育館の一隅にインターネットで取り寄せた上げ下げ自由のリングを設置し、バレーボールに茶色の革製ペンキを塗ったボールを使わせ、低学年や保育園児専用のコーナーを作った。試合形式は専用リング1個でハーフコートゲームをさせた。やり方は工夫すればいろいろあるのだ。ミニバスについて前々から思っていることで私がもっとも気になっているのがジャンプショットやレイアップシュートの際にちゃんとジャンプせず尻を落としたままシュートに持ち込む子が多いことだ。これはきっとリングが低いからちゃんとしたジャンプをしなくても入るからだと思う。昨日も書いたが7年後の東京オリンピックの時は今のミニバス選手たちが日本バスケットの主力選手になっているはずだ。だから一刻も早く今のミニバス選手たちに国際ルールや国際ゲームのイメージを植え付けたい。備考:デイモン君11歳http://www.youtube.com/watch?v=GHYzhXjj9kc 
13年09月08日(日) 長崎市会長杯争奪中学大会2日目。東長崎中はベスト8に入ったものの、ベスト4を賭けた試合では琴海中に負けた。来年の中総体に向けて「まずは今回ベスト8入りを目指そうな」と言っていたことを達成できたのだからとりあえずヨシとしよう。それはともかく、東長崎中だけでなく、今大会に参加した選手全員に「7年後の東京オリンピック開催が東京に決まったぞ!そして君たちがその当事者なんだぞ!」と言いたい。7年後と言えば今日この大会に出場した選手たちがアスリートとしてもっとも活躍できる年齢に達している。指導者も選手もたった今から、7年後の日本のバスケットが東京オリンピックでメダルを獲得する時の当事者になっていることを片時も頭から離さずに日々の練習に取り組もうではないか。猪瀬知事はじめ招致委員の方々ほんとうにご苦労さまでした。ありがとうございましたっ!
13年09月07日(土) 長崎市会長杯争奪中学大会初日。まだまだだなあ。フーッ。 
13年09月06日(金) 退職記念Tシャツ進呈名簿を整理した。ギリギリ絞り込んでも140名になった。T-Shirt Shop NAKANO(加治屋町)に出かけていって追加注文をした。財政上今回は40枚の追加しかできなかった。それは9月20日過ぎにできあがる。それでも40枚足りないが、景気が回復したらまた追加を作る。今回も漏れた人たちごめんなさい。 
13年09月05日(木) 9月2日に撮ったMRIの結果を昨夜見せて貰った。結論を一言で言うと「剥がれた軟骨はまだ充分再生されていない」である。それは71歳という年齢からして予想していたことなのでがっかりしてはいない。それに加えて最近は、手術した方と反対の右膝に時々水が溜まるようになってきた。それに、ずっと前から右肩の腱板は断裂したままで腕を横に挙げる筋肉は2本とも機能していない。おまけに、両肩とも上腕2頭筋腱の長頭は切れている。8月3日は踵が痛くてまともに歩くことができず、専門医に診てもらったがアキレス腱石灰化症(軽度)ということでケナコルトを注射してもらった。膝も肩もアキレス腱も今後どんな治療をしても再びジャンプしたり走ったりできるような身体には戻らないと思っている。昨日は部分入れ歯も付けた。私の歯は抜歯したのがこれまで5本。1本抜歯してもブリッジで繋げるが3本連続で抜歯するとブリッジでは繋げない。部分入れ歯でなければ安定しないのだ。そんなこんなで私の身体は満身創痍状態である。そんな身体なので思うように見本を示してやれないのがもどかしいが、私の指導を欲している人がいるかぎりどこへでも出かけて行こうと思っている。
13年09月04日(水) お世話になった浦町の方々の世話人代表の竹澤さんから懇親会の写真が速達で送られてきた。会に先立ちみんなで撮った記念撮影。今回の企画の経緯説明(山崎)。富山国体で宿泊関係のお世話をしてくださった市役所の安川さんのあいさつ。長崎チーム担当の林さんのあいさつ。浦町会館での食事一切を仕切ってお世話くださった仲村さんの挨拶などなど。裏話が面白かった。選手たちには食事は残すなと厳命してあるので全員完食。それを見た仲村さんたちは「全員完食ってことは足りなかったのかもしれない」と思い、次の日は量を増やす。選手たちはまた完食。次の日はまた増えるの繰り返し。高島と成井は、試合よりも食事と闘うのが大変だったと告白した。仲村さんたちは「ねえ、長崎ってどれぐらい強いの?」「さあ…」「とりあえず3日分ぐらい用意しておこうか」ということで材料や当番のローテーションを組んでいたが予定が狂い、材料の買い出しやらローテーションの組み直しやらで大変だったらしい。私も今回初めてその話を聞いたが腹筋が痛くなるくらい笑った。
13年09月03日(火) 東長崎中の選手たちに4日ぶりに会った。懐かしかった。富山に行ってる間に沖縄のミニバスの講習会(11月)のオファーがあった。今月は山口県宇部市に講習会や錬成会オブザーバーで2回行く。鶴鳴を辞めて4ヶ月が過ぎたが鶴鳴奉職時代よりも忙しい。しかし、どんなに忙しくても苦にはならない。伝えられるものが自分の中に残っているというのがどれほど幸せなことか、今味わっている。神様に感謝。
追伸:60枚のTシャツのサインを全て終え、県外の人への郵送準備も全て済ませた。本当は500枚でも600枚でも足りないほどお世話になった人々が居る。進呈できなかった人たち本当にごめんなさい。
13年09月02日(月) 今日は東長崎中の練習はオフだったので、大学病院にMRIを撮りに行った後は自宅で1日中退職記念Tシャツサインをしていた。Tシャツができあがったのが8月27日だったので、まだ茨城と富山の人にしか配っていない。長崎の人には明日から配布する。財力がなく60枚しか作成できなかったので足りないかも知れない。もしそうなれば貰えなかった人たちごめんなさい。
13年09月01日(日) 朝早く富山のホテルに林五月さんが新聞をどっさり持ってきてくれた。昨日の歓迎会のことが北日本新聞の朝刊にでかでかと載っていたそうだ。ワ−ッ。彫刻師の音琴氏のことも新聞に載っていた。追伸:こきりこは歌も舞も魂を揺さぶる。やっぱり昔から人々の心に残り続けてきたものはいい。
13年08月31日(土) 富山に来た。2000年の富山国体でお世話になった南砺市福野浦町の方々に、私と成井千夏の退官退任ごあいさつに来たのだ。同僚の高島淳子およびそのご両親を含めた7人で来た。当時の長崎チームの担当だった林五月さんが福野体育館で待っていてくれた @ A B。夕方6時の歓迎会まで2時間もあるので名所を見学した。最初は棟方志功住居。昭和20年から6年間ここを拠点に活動したそうだ。次が木彫り職人の工房。大村出身の彫刻師音琴さんに会った。庭にはモアイ像のようなでっかい合作があった。一向宗の寺である瑞泉寺にも行ったが大きな寺だ。寺と言うより城に近い。夕方6時開催の浦町会館での歓迎会には約40名の方々が集まった。懐かしい色紙横断幕があり、こきりこまで踊ってくれた。福野はやはり、私にとってはナバホ居留地と同じ心のふるさとだ。
13年08月30日(金) 朝7時から9時まで東長崎中の練習に顔を出し、それから歯医者に行って自宅に戻り、シャワーを浴びて大村空港に向かった。台風が接近していいるので心配だったが定刻通りJAL1844は飛んだ。本当は明日富山に行くのが主目的なのだが、茨城組が私の上京を待ちかまえているので茨城に一泊し、明日富山に向かう。茨城では鶴鳴卒業生の工藤姉妹・武藤・慎子(佐世保出身)・肘井(千葉出身)・成井姉・高島・なぜか中村学園卒の松山まで加わり食事会はおおいに盛り上がった。退職記念として作ったオリジナルのTシャツの裏には「自分の愚かさにきがついた時成長の第一歩が始まる」と山崎語録が書いてあり、胸には鶴が飛んでいる。。卒業生の半数以上が子持ち。バスケットの話だけではなく子育て論で賑わった。子育てではみんな苦労しているようだ。
13年08月29日(木) 1年生だけの飯盛体育館での練習最終日。今日は飯盛中学校と諫早中学校に来て貰った。私は中学の教員になって4年目に創った「まぼろしの名チーム」を思い出した。中学生のチームというのは、「できるようになった!」や「どうやら理解できたようだな」が何かのきっかけで崩壊することがあるのだ。原因は人間としてのキャリア不足である。仕方がない。中学生のチームはこんなことを何度も繰り返しながら成長してくのだ。
追伸:江村氏からの情報 @ A B C 日本を早くこんな風にしたいものだ。 
13年08月28日(水) 今日は飯盛体育館で橘中学校の胸を借りた。東長崎は小さくてスピードがないから強い当たりのディフェンスに潰される場面が多い。昨日と同じだ。何よりまずいのはそんな場面になりそうな時(なった時ではない)の彼女らの顔である。顔面蒼白で目がテンになっている。ミニバス時代から苦手だったのだろう。こんな場合重要なのは決して怒鳴りつけたり精神論を持ち出したりしないことだ。怒りを抑え込み、展開の方法を教え、トライさせ、プレイ中に評価のことば(「OK!」「もうちょい!」「そんな感じだ!」などなど)を投げかけてやる。その繰り返ししかない。選手に財産として蓄えられるのは、コートで体験したナマの事実(成功感や屈辱感)であり、説教や図解やビデオでは蓄えられない。昨日と今日の2日間で私はアタマのエネルギーをかなり放出したので今夜しっかりチャージしなければ明日保たない。フーッ。
13年08月27日(火) 今日は小島中に武者修行。オンコートでの学習成果を取り込めないまま終わった。いくつもある問題点のうちのひとつだけに的を絞ってアドバイスしてコートに送り出す。その結果「できた!」もあるし「惜しい!」や「もうちょっと!」もある。が、それがみんなに広がらないのだ。広がらない理由は選手の表情に精気がないし課題意識が薄いからである。何ヶ月ぶりだろう、私はお手伝いコーチではなく鬼コーチに戻った。鬼と言っても、何十年も前のように暴力を振るったり暴言を吐いたりはしない。怒りの感情を押し殺して同じ問題点と解決策を根気強く指摘し続けた。感情を抑え込んでいたので怒りの残り火が家に帰ってからもまだ燻り続けている。
13年08月26日(月) 今日から4日間、東長崎中の2年生は職場体験学習なのでその間1年生9人(うちミニバス経験なしの素人2人)で練習しなければならない。7人では練習できないので武者修行に出かけることにした。今日は滑石中だった。でも私が午後から県の競技力向上対策会議に出なければならなかったので滑石中では11時までしかできなかった。午後の会議はブルーな気分で出席した。がんばらんば国体直前にしてバスケットの成績が思わしくないので後ろめたい気持ちになるのだ。だから手を挙げて発言するのも控えてしまう。フーッ。 
13年08月25日(日) ゼロカップ最終日。東長崎中は2位グループでは2勝した。2試合目の鍋島中(佐賀)はプレイをしっかり教えられたチームで、東長崎中にとってはとても勉強になる相手であった。東長崎中はコヤスポカップとゼロカップの全試合を通して最高の動きをしてくれたが、これは相手の鍋島中がキチッと教えられたチームだったからだと思う。感謝。
私は終日佐世保に居たので観に行けなかったが諫早で行われたミニバス大会は長崎Jr.が初優勝を飾ったようだ。おめでとう。これから小柳亜結ちゃんの去就が長崎バスケット界の話題になりそうだ。私は県の競技力向上対策委員を17年続けているが、その会議の中でいつも話題になるのが「優秀選手の県外流出を防ぐには…」である。このことについて私は長年ブレない持論がある。それは「どんな対策を講じても、魅力ある指導者が出てこない限りそれを食い止める方策はない」である。 
13年08月24日(土) ゼロカップ初日。東長崎中は三角リーグは2勝で1位になれたが、同グループでもう一つの三角リーグ1位の祇園中に順位決定戦で負け、明日は2位グループのトーナメントで試合をすることになった。負けた原因は、オフェンスの「崩し」を選手1人ひとりが自分のものに出来ていなかった、の一語に尽きる。まだまだ幼い。一方、諫早市で行われている県ミニバス大会では古賀小はベスト4に残ったようだ。今回のミニバス大会では長崎Jr.の小柳亜結ちゃんがダントツで光っている。が、長崎国体には間に合わない。ウーン残念!
13年08月23日(金) 午前中東長崎中の練習に顔を出したあと、午後は諫早の小野体育館に県ミニバス大会を観に行った。5時までそこに居た。それから夕方6時半まで小ヶ倉中学校の練習を見に行った。ミニバスや中学の指導者はみんな熱い。こんな熱い人たちの気持ちをジュニア代表から日本代表へ、さらにオリンピック出場へとなんとかして繋げたい。ついては古海五月にお願いがある。見聞きすることはアタマにくることばかりだと思うが日本代表がオリンピック出場を果たすまで味の素トレセンを辞めないで欲しい。君は日本のバスケットが撃沈しないための命綱だ。追伸:最近指導の際に見本作を示す回数が多くなった。ことばだけでは伝わらないからだ。今日は手術した方と反対の膝(右)が少し腫れて水が溜まったようだ。用心用心、もう手術はこりごりだからな。 
13年08月22日(木) 朝7時、東長崎中の駅伝練習に顔を出した。10時、古賀小ミニバス9人の選手の故障者を診に行った。オスグッドシュラッテル、ジャンパーズニー、有痛性外脛骨、扁平足、ハンマートウ、足底筋膜炎、鵞足炎、踵骨疲労骨折疑いなどなどさまざまだったが全て軽傷だ。ミニバスの年代は身体の発育が最も著しい時期なので予防はもちろん軽度なうちに適切な処置をしなければならない。診察後走り方のフォームや正しい姿勢など少しだけ指導をしたあと海星高校に向かい、大塚理事長と国体に向けての会談をした。その後再び古賀小に戻り緑が丘小と古賀小の練習試合を見学した。明日から県ミニバス大会が諫早で開催されるのだ。ミニバスのこどもたちは爽やかで健気でかわいい。おとなになってもこのまんまの爽やかさでバスケットを続けてほしい。
13年08月21日(水) ねずみ取りは今日で5日連続だ。「ヤレ!徹底的にヤレ!横着者は徹底的に取り締まれ!」
備考:動画は通行車両や警察車両の番号が判別出来ないことを何度も確認してUPした。 
13年08月20日(火) 長崎市内から私が住んでいる矢上方面に向かうには日見峠で2つのトンネルを越えなければならない。この路線は2つ目のトンネル手前までは片側2車線だが、2つ目のトンネル以降は片側1車線になる。それを知っている人は渋滞でも左側を並んで走っているが、空いている右側斜線をビャーッと走ってきて2つ目のトンネル手前で左側斜線に割り込むクルマがあとを絶たない。だからよくネズミ取りをやっているが、通常2日続けてやることはない。だが、今日は4日連続ネズミ取りをやっていた。それだけ違反者が多いのか、それとも警察の資金繰りが悪いのか、私としてはどちらでもいいが「毎日ヤレ!」と警察を応援したい。横着なヤツは徹底検挙賛成だ。
追伸:8月3日に「平成14年度6月の九州大会の案内文書・結果報告・勝ち上がり表を紛失しました。どなたか持ってらっしゃいませんか?」と書いたが、この年、県総体3位だったので出場してないから資料が残っているはずがない。すみませんお騒がせしました。 
13年08月19日(月) 長与町民体育館にコヤスポカップの最終日を観に行った。動き→崩し→決め、の過程をわかってプレイしているチームはない。若いチームだからこそチーム創りはそこから入っていかなければならないのだが…。気になることがもうひとつある。それは、人数不足により2校合同で出場していたチームがあったことだ。6月の県高総体の感想でも同じようなことを述べたが、これが少子化によるものならば仕方がないが、サッカーやバレーに食われてバスケット人口が減っているためにこのようなことが起きているのであれば、まずはJBAが危機意識をもってこの問題に取り組み、バスケットに関わるすべての者が「何から教えるか」よりも「どうやってバスケット人口を増やすか」を最優先に考えなければならない。
13年08月18日(日) 近くは8月4〜6の山口講習。昔に溯れば鶴鳴風軍団。思いを伝えるという意味では手応えがあった。まだ中学生の新チーム初の試合なのだからそれと重ね合わせるのは酷かもしれないが、昨日と今日の東長崎中の試合ぶりからは「この程度しか伝えられなかったか…」という無念さしか残らなかった。帰宅後は気が滅入って食が進まない。誤解のないよう補足しておくが、今日の無念さは選手批判ではない。自戒である。フーッ。
13年08月17日(土) コヤスポカップ初日。東長崎中は予選リーグで島原1中に52−51で辛勝。2試合目も式見中に60−59の辛勝で、明日の1位グループトーナメントにコマを進めることができた。2試合ともずっと2階観覧席から見ていたが内容の乏しい試合だった。視点は2つ。@手伝い始めて2ヶ月半になるが、私が伝え続けてきたことを練習の場面では出せるが試合では出せなかった。まだ本当に分かってはいないのだ。Aパワーが足りない。一瞬の素早さとかガツンと当たった時の丈夫さがないのだ。これは彼女らの訓練期間からすれば仕方がないことだが、これから課題意識を持って取り組まなければならないことは確かだ。昨日の組織論といい、今日の試合展開といい、彼女らが一人前になるまでの道程は長い。
13年08月16日(金) 3日間の盆休み明け。機能する組織とは…ということで、ほうれんそう(報告・連絡・相談)の話をした。練習開始時に4人が来ていない。なぜ来ていないのかという理由は4人のうち3人までが「…らしい」ということしかわからず、確実な情報を把握している選手がいないのだ。こんなの組織とは言わない。組織というのは、ミニバスのこども集団であれ、従業員千人の会社であれ、社長⇔中間管理職⇔社員の間の縦横の情報がきちんと共有されていなければならない。東長崎中が世間で認められるチームになるにはまだまだ時間がかかる。 
13年08月15日(木) 世間ではほとんど13・14・15の3日間は盆休みだ。東長崎中学もこの3日間はオフにした。が、12日の練習が終わって大村に向かう前に「カップ戦直前に3日間何もしないのは不安だからシューティングか何かしたい」と選手が言っているという声をちらっと聞いた。大村から携帯でそのことを確かめたらやっぱり数人の選手が13日にシュート練習をしたようだ。私はそれを聞いて14日と15日は練習禁止令を出し、保護者連絡網で全員に知らせてもらった。オフの日に休みをとれない選手は練習の時に全力集中できない。これを指導者に置き換えれば「休ませたらナマる」と言ってオフを与えるのを恐れる指導者は練習の時に選手を追い込めない。これは私が50年のコーチ生活で得た教訓だ。東長崎中はお手伝いで関わっているのだが、お手伝いだからといって技術や戦術だけを教えてやればいいのではなく、指導者にも親にも子にも訓練のあり方を教えてやるのでなければ私の50年のキャリアは利用価値がないと思うので積極的に出しゃばっていこうと思う。が、その出しゃばりは日常の練習や生活のあり方への出しゃばりであって試合のベンチには絶対座らない。そこまでやると乗っ取りに繋がるからである。
13年08月14日(水) 教員大会最終日。シーハットからカブトガニに戻ってきた。長崎と大村では微妙な違いがあるが、 FIBAASIAの時との違いでパッと目についたのが、長崎大村ともに年配の方々がボランティアでお手伝いをしておられたことだ。FIBAASIAの時は高校生を貼り付けていたところに今回は年配のボランティアの方々が立っておられる。その前を通る時はついつい頭を深々と下げながら通る。ボランティア・協会・行政の区別は帽子の色で分けられているから識別しやすかった。ただ、今回は教員大会なのでどこもガラーンとしていたが本番では人の数がこんなものではない。そういう意味では「本当に国体のリハーサルになったかなあ?」とちょっぴり心配になる部署もあった。ま、何はともあれリハーサルが終わった。あとは本番に向けて進むだけだ。みんながんばれ!
13年08月13日(火) 昨日、大村会場に到着したのは最終試合直前だったので今日は午前中にシーハットに顔を出した。女子の部は午前中にベスト4が決まり午後は明日のメインコート作成の作業だ。ところで、4日間という期間なのでやむを得ないのかもしれないが、明日の試合時間設定は本当はおかしい。1試合目と2試合目が準決勝で3試合目が決勝戦なのだが、1試合目のチームと2試合目のチームは3試合目までの間の時間に差があるのだ。プログラムの役員名簿にも「この人よりもこの人が上位に記載されているのはおかしいよな」と思われる箇所があった。また長崎市会場では、行政側がまだ手探り状態かな?という印象を受けた。国体は天皇杯を獲得できれば成功なのではない。官民一体となって,、国体というイベントそのものを成功させなければならないのだ。
13年08月12日(月) J選手はHb13.6で貧血ではなかった。ホッ。これで安心して教員大会の視察に行ける。午前中カブトガニに寄った。JBAから弘田氏が来ていて大塚氏や長崎市担当者と打合せをしていた。午後から東長崎中の練習を診てシーハットに向かった。シーハットに着いた時は長崎教員対石川教員の試合が行われていたが、役員たちに挨拶をしているうちに終わり、試合は見られなかった。大村では夜の部が忙しかった。FIBAASIA仲間が集まり酒を飲んだ。夕方5時から深夜12時まで私は野澤氏に拉致されてへとへとになってホテルに帰った。明日朝は寝坊させてもらおう。Zzzzzzz........ 
13年08月11日(日) 今日から14日まで全日本教員選手権大会が開催される。県立総合体育館で男子の部が行われ、シーハット大村で女子の部が行われる。この大会は来年の本国体のリハーサル大会である。一昨年FBAASIA大会を長崎に誘致したのは、日本代表チームを長崎からロンドンに送り込みたいというおおきな目標があったが、長崎県協会の構成員に本国体の運営のノウハウを身につけさせたいというもうひとつの狙いもあった。FIBAASIA大会を長崎に引っ張ってきた張本人としては今大会の運営ぶりをチェックしに行かなければならない。今日は所用で行けなかったが明日午前中に県立総合体育館へ行き、午後シーハット大村に出かけようと思う。たのむぞみんな! 
13年08月10日(土) 朝7時からの駅伝の練習に顔を出した。3日連続の3日目だから今日はかなりきつい。7月22日に顔を出して以来ずっと駅伝の練習には顔を出すが、その意図は選手の人間観察である。駅伝の練習があった日も午後はバスケの練習は通常通りやる。その時に、駅伝練習に顔を出しているのといないのとでは全然違うのだ。今日の練習内容は400bダッシュ4本を1セットとして4セット走るきついメニューだったが、J選手は後半集団についていけなくなった。もし朝からこの状況を見ていなかったら午後の練習でJ選手に気配りすることはないだろう。J選手には病院で血液検査をしてもらうことを勧めた。貧血かもしれない。今後要観察である。
13年08月09日(金) さだまさしさんのお母さんは鶴鳴卒業だ。だからこれまでにさださんはお忍びで鶴鳴に講演に来てくれたことがあるし、身内だけのミニトークショー&ミニコンサートを開いてくれたこともある。その時は鶴鳴の選手を全員を引き連れて行った。今回、さだまさし4000回記念コンサートを日本武道館でさださんが開いた時に、卒業生の熊谷繁子(昭和55年3月卒177p→共石→全日本)が「私の恩師が引退されたのでメッセージを書いていただけませんか」と頼んだらしい。するとさださんは「浜口さん(現小磯典子183p平成4年3月卒→ジャパンエナジー→全日本)が稲佐山なら君は彦山かな」と言いながらサラサラッと書いてくれたそうだ。ありがとうさださん。
13年08月08日(木) 今日は朝早くからつばさ保育園の月組(年長)さんのイルカウォッチングのお手伝いをした。毎年「見る人は楽しいけどイルカさんたちにとっては大迷惑だろうなあ」と思う。10隻以上の舟に追い回されて息継ぎをするのも苦しいに違いない。フーッ。
13年08月07日(水) 2日目の昼休みに「最終日までにこの選手達が俺の意図をくみ取り、プレイで表現できるようになるかどうか心配だなあ」と慶進高校の村谷先生に言ったら「そうですねえ…」と村谷先生も心配そうに言った。私は必死で頑張った。そしたら2日目の午後の練習でK選手のプレイをきっかけにして他の選手にも次々と「ナイス!」が出るようになった。最終日の今日は「ここで死んでもいい」と思ってがんばった。今日の午後は昼休みを30分短くして4時まで指導を続けたが死なずに任務を全うすることが出来た。しかも、「どうにか伝えることができたな」という感触をもって締めくくることが出来た。今日は自分に「山崎純男、よくがんばった!」と言ってやりたい。 
13年08月06日(火) 山口講習3日目。8月1日には踵をつけて歩けなかった左足が、ケナコルトのおかげで普通に歩けるようになり、山口講習にはどうにか間に合ったが、膝の手術後の回復がまだまだなので師範の時に左足キックができない。両足が自由に動かせるならばもっと巧く伝えられるのに…。あーはがゆい。
13年08月05日(月) 山口講習2日目。1日中声を出しっぱなしだったのでとっても疲れた。声といっても気合いを入れるための声ではない。プレイの展開を予測して選手に正しい反応をさせるための刺激語とプレイの結果に対しての評価(ヨシ!惜しい!ダメ!など)の声だ。そのためにはコート上のすべてのプレイはもちろん、選手のちょっとした目つきや態度も見逃さないよう目を配らなければならないので脳が疲れるのだ。ホテルに戻ったらシャワーも浴びずにそのままバターンとベッドに大の字になって1時間。ようやく起き出してシャワーを浴びた。明日もがんばらなきゃ。 
13年08月04日(日) 山口講習初日。ゾーンオフェンス。山崎バスケットはこうだというのを教えるのは簡単だが、このチームはどんな方針でやっているのかどの選手をメインにしてやっているのかを把握して、それならここをこう変えればいいとかここを修正すればいいというのを早い段階で見抜かなければならないのが難しい。
13年08月03日(土) 踵の痛みはずいぶん軽減された。踵をつけて歩けるようになった。これで明日からの山口講習は凌げそうだ。ケナコルトが効いたのだろうが、ケナコルトはステロイド剤なので炎症や痛みを取り去る効果はあるが、石灰化している部分を溶かしたりする作用はない。だからいずれまたこの痛みは再発するだろう。人間も機械も同じで古くなればあちこちガタがくる。無理をしなければこんなにならずに済んだかもしれないが、自分を追い込み過ぎたためにこんなになったのならそれはそれで悔いはない。図1(アキレス腱に肥厚が見られ、ところどころに粒状の石灰化が散在している)と図2(アキレス腱の踵骨付着部を中心に石灰化が見られる)は同じ症例だが、私のはこんなにひどくはない。
追伸:平成14年度6月の九州大会の案内文書・結果報告・勝ち上がり表を紛失しました。どなたか持ってらっしゃいませんか?
13年08月02日(金) 長崎県体育協会の賛助会員募集趣意書が届いた。これまで毎年賛助金として1万円寄付していたが、2日間考えて今年から寄付をやめることにした。3月末以降は年金暮らしになったので極力出費を節約 した暮らしをしている。毎年お中元を贈っていた人にも今年は送っていない。これまで通りに贈り物や寄付をしていたらキリがないのだ。ただし、もう20年以上続けている国境なき医師団への寄付は死ぬまで続けていこうと思う。
13年08月01日(木) 踵が痛い。3月14日に退院してからずっと痛いのだが、最初は膝の手術のあと膝関節内の出血があふれ出して膝裏から足首までかけてパンパン腫れたのでその後遺症と思っていたがどうもそうではないらしい。昨日は普通に歩くのも辛かった。今日、楢林医院に行ってX線撮影とエコーによる診断をして貰ったがアキレス腱石灰化症らしい。骨棘はまだできてないようだ。ケナコルトを注射してもらいロキソニンを貰って帰ってきた。4日からの山口講習に差し支えないようあと2日間慎重に過ごさなければならない。
13年07月31日(水) バスケ練習のあとまた理子と結子を釣りに連れて行った。今日は名前を知らない少し大きな魚をゲットした。釣果はすべて結子が捌いた。結子は頭は「アタマ〜」と言って包丁を当てるが内蔵は「いのち〜」と言いながら包丁を当てる。「なぜ内蔵と言わずにいのち〜と言うの?」と聞いたら「その言い方の方が可愛いいから」だそうな。
13年07月30日(火) 東長崎中バスケは朝7時から東望グラウンドで陸上部とともに駅伝練習。今日は前回と違って千b×5本。2本目以降の設定タイムは少しずつ緩和されるが、ほぼスポーツテストの持久走(今はシャトルランかな?)を一気に5本続けてやるのと同じだ。鵞足炎、ジャンパーズニー、オスグッド、腰痛などで本体から外してペース走をさせたのが6人。14人はヘロヘロになりながらも5本走った。だから、午後のバスケ練習はフルコートを走るメニューを除いた軽いメニューにした。これが、九州や全国を狙うチームならばそんな甘いことはしないのだが、まだ殻を割って世の中に出てきたばかりのヒヨッコたちなので無茶はできない。こっちのアタマが疲れる。フーッ。 
13年07月29日(月) 県中総体の決勝リーグ第1試合だけを観せて、東長崎中と古賀小をバスに乗せて佐世保に行った。大久保小学校とのスクリメージや私のクリニックのあとみんなで記念撮影。お互いに刺激されてひとつ財産が増えた。 
13年07月28日(日) 佐世保の江村コーチからの紹介によるTamika Catchings選手(WNBA INDIANA FEVERの現役)の語録。彼女は1979年生まれの34歳。大学は名門テネシー大学ですが高校のAdlai E Stevewnson High Schoolは、大野慎子がEvansville大学時代にお世話になったコーチのTricia Betthauser が現在Athletics Directorをしている超マンモス高校で、一昨年慎子とアメリカに行った時に訪問した学校なんです。 世界は狭い!
13年07月27日(土) 朝6時45分久住ヒュッテ出発。7時牧ノ戸峠から登山開始霧と風が強くてちょっと心配。私は膝が治っていないのでバスで留守番。途中霧が晴れてなんとか登頂に成功、落伍者無しと携帯に連絡が入った。午後1時過ぎに無事下山。ご褒美にアイスを買ってもらって階段に並んでそれをなめて、再びヒュッテに戻りお弁当を食べて今日の予定はおしまい。ヒュッテをあとにして帰途についたら間もなく雨、鳥栖ジャンクションまではずっとどっしゃぶりの雨だった。昨日の渓谷遊びといい今日の登山といいギリギリセーフ。何をやってもうまくいかない日もあればこんな日もある。人生あきらめちゃダメだ。
13年07月26日(金) つばさ保育園年長さん28名。お泊まり久住初日。今日は宇佐市の岳切(たっきり)渓谷川遊び。途中カミナリ付きの雨が降ったりしたがどうにかクリア。明日は朝7時に登山開始で久住に登る予定だが天気予報は雨だ。大丈夫かしら。ダメなら別府の海卵に行くことになっているが、折角久住まで来たのだから登りたい。 
13年07月25日(木) 理子・結子姉妹を昨日の夕方牧島の波止場に釣りに連れて行った。昨年はサバとカワハギとこっぱぐろしか釣れなかったが昨日はアジの子が11匹釣れた。ずっとアジを釣りたかったが念願が叶った。ヤッホー。 
13年07月24日(水) 昨日は朝8時から10時半までの指導だった。帰ってすぐシャワーを浴び、ちょっとだけパソコンをいじった以外は昼寝も含めてずーっとごろごろしてしていた。背筋痛・腰痛・前腕痛・倦怠感で身体を動かしたくないのだ。今朝は10時半から13時までの指導だったが、10時過ぎに家を出るまではじっとしていて身体を動かさず体力を温存した。まだ疲労が抜けないまま指導に出かけたがとっても嬉しいことがあり、疲れが吹っ飛んだ。昨日私からボロクソに叱られたA子が今日は別人のようにがんばったのだ。順番待ちの時にA子を呼んで「どした、今日は誉められまくりやん」と言った。A子は「昨日自分の部屋で、先生から注意されたことをノートに書いて何度も復習と予習をしました」と答えた。こんなことばを聞いたら疲れたなんて言ってられん! 
13年07月23日(火) 最近東長崎中の指導が難しくなってきた。指導対象が中学2年生と1年生なのでまだあどけなさが残っている。しかし、勝利を目指す競技スポーツの選手ならばたとえ中学1・2年生といえどあどけなさの中にピリッと一本芯が通った人間に仕立て上げなければならない。勝利第1主義でがんじがらめに縛るのは教育的ではないけれど仲良しグループでもダメなのだ。6月中旬から指導を始めて約1ヶ月、最近生きることの厳しさを教えるために選手の心に突き刺さることばがしばしば私の口から飛び出す。まだ13歳と14最のこどもを相手に…。それがまた自分を苛む。このところ回顧録に向かうエネルギーを生み出す余裕がない。フーッ。
13年07月22日(月) 朝7時から東望グラウンドで東長崎中の駅伝練習が行われた。陸上部だけでなく、各部の速い子は駆り出されるが、女子バスケット部は監督の指示により体力レーニングという意味で、速い子だけでなく全員練習に参加する。陸上部の子がペースメーカーとなり、1q6分のペースで約50分走った。バスケ部の中島先生も部員と一緒に走った。かなりバテていた。8時前には終わったが外気はもうすでに暑い。バスケット部は午後3時半から練習なので、駅伝練習が終わったら3時半まで学校で夏休み宿題をするそうだ。お疲れ様。
13年07月21日(日) 一昨日の続き。ここ10年以上、私は教え子が結婚すると「こどもは3人以上産めよ。2人だと現状維持だからダメだぞ」という。このままだと日本はどんどん高齢化が進み、経済の先行きが心配だからだ。デトロイトが破綻した。夕張も破綻した。破綻にはかならず人口減が絡む。先日、中国からの留学生の彩君が帰国した。彼は長崎大学の大学院を卒業したが在学中に結婚していた。帰国祝の食事会を開いてやった。その時彩君は「私たちの世代はひとりっ子政策時代のこどもなので、私たち夫婦はでそれぞれの両親の4人を将来面倒見なければなりません。大変です」と言っていた。今、中学生のバスケット指導の手助けをしているが、とてもかわいい。が、この子たちの10年先20年先の日本の経済がどうなっているのかも気になる。スポーツに励むこどもたちの顔は生き生きとしているが、スポーツや芸術は経済が豊かであってこそ成り立つのだ。 
13年07月20日(土) つばさ保育園の夏祭りに顔を出してみた。懐かしい卒園児たちに何人も出会った。颯太はもう中学3年生になっていた。中学3年生にもなるとこどもっぽさは抜けておやじ顔だ。
13年07月19日(金) 昨夜のニュースでデトロイト市が財政破綻したことを知った。最近は利用しなくなったが数年前までアメリカに行き来する時にもっとも多く利用したのがデトロイト空港(正式にはデトロイト・メトロポリタン・ウェイン・カウンティ空港だそうである)で、キラキラしていてでっかい町という印象だったが、あんなでっかい町が破綻するとは…
そこで気になったのが夕張市である。5年前に破綻した。ネットで調べてみた。破綻した自治体はまず国(総務省)の管理下に入り、容赦ないリストラを受けるハメに。「夕張市の場合、給与は約4割削減され、破綻前にいた職員300人が現在は120人ほどに激減しました」“これじゃやってられん”とばかりに幹部候補の若手職員の多くが自主退職の道を選んだ。続けて市役所の取引業者が市外へ撤退。連鎖的に関連業者も後を追う。「結果的に、市商工会議所の会員数は破綻前の300社から200社に減りました」人口流出が止まらなくなり、夕張市の場合は06年の約1万3000人から6年間で約3000人減少。「このペースでいけば、財政再生計画が終了する2027年には5500人前後にまで減る計算になります」町に残る住民は「全国最低の行政サービス」と「全国最高の市民負担」を強いられる。夕張市の場合、市民税3000円⇒3500円、軽自動車税1.5倍、入湯税(150円)導入、下水道使用料1470円⇒2440円、ゴミ処理手数料新設などが負担増。さらに命に関わる問題も。
「破綻後の病院の閉鎖や縮小に伴い治療も廃止されます。夕張市の場合は透析治療が市内で受けられなくなり、腎臓病の患者は約40km離れた隣町の病院まで通っています」忘れてはならないのは、夕張並みに悪化しているのが日本全体の財政だということ。同じことが全国で起きる可能性もある……。
なんだかせつなくなってきた。 
13年07月18日(木) マイクロバスの中に潜んでいた蚊のヤロー、俺がハンドルから手が離せないのを知ってかこんなところに食らいつきやがった。背筋の筋肉痛と蓄積疲労の上にこんなことにエネルギーを使わされるのは腹が立つ。クソ! 
13年07月17日(水) 東長崎バスケの指導中、N選手のドライブステップについて「それをやるなら最後のステップをもっと大きく踏み込まなければならないぞ」と言ったら、それを見ていたL選手が「それってユーロステップって言うんですよね」と質問した。「エ?そんなの知ってるのかお前」と言ったら、それを聞いていたJ選手とH選手が寄ってきて「リッキールビオとかドゥエインウェイドがよく使いますよね」「なに?そんな選手を知ってるのか。じゃあこれをジノビリステップって言い方をするのも知ってるか?」「ウーン?」「それならデレクローズって知ってるか?トニーパーカーは?」「知ってます」「なぜ知ってるの?」「you tubeとかwowwowとかいろいろ見るから」「へーえ、お前達すごいなあ」「ねえねえ先生、マイケルジョーダンってそんなに凄い選手だったんですか?ナマのプレイ見たことありますか?」とNBAの話題が次々と出てくる。私は50年コーチをやっているが、男の子ならまだしも女の子で、しかもLもJもHもつい4ヶ月前までは小学生だったガキンチョの口からこんなにNBAの話題が出てくるとは思いもしなかった。すごい!。って、最近の子はこれがフツー?俺が認識不足だっただけかなあ? 
13年07月16日(火) 対馬から鯛が送られてきた。対馬沖で舟の上から1本釣りで上げた正真正銘の天然ものの雄鯛だ。こんなでかいのは台所では捌けないのでいつも風呂場でやる。捌くというより格闘すると言う方が当たっている。骨が硬いので出刃包丁だけでは捌けず金槌を使う。背びれも硬い。左手の中指と右手の人差し指に刺さった。フーッ。 
13年07月15日(祭) バスケットの指導で出かける回数は鶴鳴時代よりも多くなった。加えて1回の指導における体力の消耗は鶴鳴時代よりもはるかに激しい。だから指導に出かける時間以外は体力温存のために家でじっとしていることが最近多くなった。もどかしいのは左膝がまだ完治していないので動作の師範が思い通りにできないことだ。クソッ!
13年07月14日(日) 昨夜は懇親会のあと野澤氏に連れ出されて遅くなり、とうとう自宅には帰らなかった。ブログは休刊にしておいてよかった。クリニックは閉校式まで居た。陸川章氏51歳。なかなかの勉強家である。@ A B C D
この2日間、ボールラインについての質問や意見もあちこちからメールでもらった。感謝。こうやって疑問を公開すると日本全国から意見や回答が来る、それがまた勉強になる。ありがたい。
13年07月13日(土) コーチ研修会(15:00於長崎外大)のあとの懇親会に出て、帰りが遅くなるので休刊。 
13年07月12日(金) タビースミスのビデオに不満そうにしていたらまたまた江村氏からメールが届いた。丁寧な対応ありがとう。
13年07月11日(木) ボールラインというバスケットボール用語がある。昭和39年の東京オリンピックの時、全日本男子チームのアドバイザーコーチであったピートニューエル氏が広めたことばだ。ボールマンを通ってエンドラインに平行に引いた仮想線のことを言う。その意味合いから私はボールマンとリングを結ぶ線を半径とする円周をボールラインと言うべきだとずっと思っている。これを大久保小学校の江村コーチに調べてくれと頼んだ。彼は半分アメリカ人なのでアメリカのバスケットには超詳しい。するとタビースミスコーチのクリニックビデオを紹介してくれた。だがこれはわずか57秒の動画でしかも最後の肝心なところで動画がおしまいになっている。どなたかこのことについて自分の考えとか参考情報とか教えてください。 http://www.youtube.com/watch?v=m_0ojT6-V40
13年07月10日(水) バージニア大学→ミネソタリンクス(WNBA)のモニカライトがあのケビンデュラントと婚約したらしい。俺、絶対コネつけてケビンデュラントと友達になるぞ。 
13年07月09日(火) 7月から8月にかけて私のスケジュールはびっしり詰まっている。鶴鳴在職中にはチーム練習がオフの日が待ち遠しかったりオフの日にほっとすることなどなかったが、最近は誰からも拘束されない金曜日が待ち遠しい日々が続いている。でも、何もする事がないことに比べれば必要とされて忙しい方が遙かに幸せである。感謝。 
13年07月08日(月) 九州地区インカレ最終日。三菱重工体育館に顔を出した。共立大学の選手が試合中に私の目の前で転倒した。足首も捻挫したが手首も痛そうにしている。足首だけなら出しゃばらなかったが手首も痛そうにしていたので出しゃばった。傷めた手をとって健側とくらべてみたらわずかにフォーク状変形が見られる。「あ、コーレス骨折だ」と言ったら事務局もチームマネージャーもうろたえてじたばたし始めた。「俺がやる、心配しないで大会続けて」と言って長谷先生に電話して予約を取り、私の車で五島町まで連れて行って診て貰った。X線検査では橈骨遠位端にくっきりと骨折線が見られた。麻酔下で修復してもらい体育館に戻った。最近あちこちに出かけていろいろ手助けすることが多くなった。な〜んだか長崎の宮沢賢治になったみたいだ。
13年07月07日(日) 午前中小ヶ倉中学校、昼休みに長崎大学(九州地区インカレ)、午後東長崎と終日バスケット漬けだった。フーッ。しかも中学生の指導は鶴鳴時代よりも数倍疲れる。ある程度分かっている鶴鳴の選手に対する気配りとこれからどんな色にも染まっていく中学1・2年生に対する気配りは桁が違うのだ。 
13年07月06日(土) 午後東長崎中の指導に出かけた。今日は通常の部活割り当て時間ではなくエンドレスで、しかも2面フルに使える。練習開始前に私は全員を集めてホワイトボードに「やりだめ」「3時間」という2つのことばを書いて話をした。練習も勉強もやりだめはできない、人の集中力の限界は3時間だ、エンドレスで練習できるから6時間練習したとしても3時間練習の2倍の効果は得られない、という内容だ。でも今日は2時間半過ぎたところでやめようかなと思った。理由は選手たちがバテていたからだ。練習の途中ある選手に聞いた「今日はなんだかみんなバテてるみたいだね」。その選手の返事は「駅伝の練習が結構きついんですよ」だった。月水金の朝は11月に行われる中総体駅伝の練習でバスケット部の大半は駆りだされるのだそうだ。でも、それは駆りだされる本人たちにとってもバスケットボール部にとってもとても大切なことである。バスケット部の選手だからバスケットにだけ専念してバスケットの試合に勝ちさえすればいいという考えは間違いで、バスケット部の選手はバスケット部の選手である前に東長崎中の生徒であるわけだから、東長崎中のために貢献できることならば積極的に力を貸してやらなければならない。そのための苦労は結局本人やバスケット部に最終的には返ってくる。あとは、指導する側が選手たちの負担を配慮して指導してやれば済むことだ。 
13年07月05日(金) 今日は東長崎中バスケはオフ。夕方私はバイクに乗って東長崎地区をグルグル回った。どうも、東長崎中の生徒も保護者も、私のバスで飯盛体育館⇔自宅を送り迎えしてもらうのが気の毒で、帰り道に「ここでいいです」と言って自宅まで歩いて帰るには少し遠いところで降りている生徒がいるらしいのだ。それならまた親がそこまで迎えに来なければならない。そんなの私が送り迎えする意味がない。だから今日はゼンリンの地図を片手に走り回ったのだ。つつじヶ丘から古賀町界隈は3回グルグル回ってしっかりルートを確保した。もう大丈夫だ。
13年07月04日(木) 今日は東長崎中バスケット部を飯盛体育館まで連れて行った。鶴鳴在職中はもちろん鶴鳴バスケットをメインに私のバスを使っていたが、当時も今もつばさ保育園の行事には頻繁に使うし、鶴鳴陸上部の練習や試合にも使わせている。それに東長崎中が加わった。年中無休だ。平成17年の6月に購入して8年が過ぎた。頑張れクレインズバス!
13年07月03日(水) 休刊 
13年07月02日(火) つばさ保育園は今日がプール開き。青いビニールシートで囲われたのが理事長手作りのプール。彼はなんでも自分で作る。ヤギを放し飼いしている森、その向こうの里山、手前のグランド、道の向こうの畑、全部手作りだ 
13年07月01日(月) 夕方バスケット関係者(協会関係者ではなく仲間)数十人の集まりに呼ばれて顔を出した。中には顔を知らない人がいたので代表者のA子(昔の教え子)に「俺が知らない人が何人か居るけどあとで名刺渡しといて」と言って数枚の名刺を渡した。すると突然A子はボールペンを出して名刺に何か書いている。「オイ、俺の名刺に何書いてんだお前!」と言ったら「いやいや名刺の顔があまりにも怖かったので修正しようと思って」ですって。 
13年06月30日(日) 昨夜は遠くから集まった教え子たち(平成12年度)との食事会及び2次会に顔を出し、深夜2時に帰宅した。おみやげをもらった。特別製Tシャツだった。うーん、ちょっと誉められ過ぎかな。今日は昨夜ほとんど寝てないのにオファーがあって2つの中学校の指導に出かけた。走ったり跳んだりはしないが、1日中体育館に居れば足に負担がかかるのだろう、術後初めて左膝がむくんでいると感じた。明日から少しおとなしくしよう。 
13年06月29日(土) 休刊 
13年06月28日(金) 高城台小学校の行事の参観に行った。行ってみて初めて知ったが助産師会から講師が来てこどもたちに話をする性教育だった。対象は5年生ママ達も来ていた。私は現在中学生の指導やミニバスの指導や講演などいろいろ依頼されるので「対象にわかりやすいことば」ということに執着している。今日の講師の先生のことばにも「なるほど」があったし「ウーン」があった。来年3月に東京で行われるスポーツ医学セミナーで講演を依頼され、今その資料を作っているが、今日の参観はその参考になった。 
13年06月27日(木) 回顧録第4章は平成13年度の出来事が中心である。この年度の選手には新潟出身で双子の重村姉妹がいて姉の典子(鶴鳴→トヨタ)が主将をしていた。この頃の出来事を調べているうち、妹の安紀(鶴鳴→拓大)のご主人は自衛官3等陸曹の三口智也(みぐちともや)さんだということがわかった。ここまでならおもしろくもなんともないのだが、実は三口智也さんは近代五種競技の日本を代表する選手で、2010年の近代五種全日本選手権で優勝。2012年同2位。なんと、3年後のリオデジャネイロオリンピックを狙っているんだそうな。ビックリ! 
13年06月26日(水) 東長崎中学校の校長、副校長、教頭、体育主任に名刺を渡してあいさつをした。決して乗っ取り目的ではないこと。東長崎中専属ではなく、あくまで多くのオファーの中のひとつであることを強調した。 
13年06月25日(火) 協会からの一斉メール配信で、長崎国体のグッズ販売についての協力依頼があった。このようなビッグイベントは、グッズ販売の担当者や拠点校の監督や強化委員や各種別のスタッフや広報担当など特定の部署の数人がやっきになっても成功はしない。バスケットに関わっているすべての人が当事者意識を持たなければならないのだ。それには、当人の少し上の位置の人が当人を教え導くのが重要である。例えば、ミニバスを始めたばかりのこどもに協会の会長が訓辞を述べても効果はなく、その子の少し上の人はその子のコーチだからその子はそのコーチが教え導かなければならない。そのコーチの少し上の人といえば協会のどの担当部署の人だ?協会の担当部署の人たちを教え導くのはダレだ?常任理事か?常任理事を教え導くのは理事長か?会長か?いずれにしろ、そのような縦のつながりがしっかりしていれば横のつながりが広がっていき、こどもから大人まで、バスケットに関わっている人の当事者意識が高まっていくだろう。あと1年4ヶ月だ。がんばれ。
13年06月24日(月) 昨日、今日「 エ?宮崎(九州大会)に行かなかったんですか?」と数人から聞かれた。宮崎どころか、県高校総体もフロアには降りず、人にみ見つかりにくい2階観覧席の隅っこで試合を観ていた。元監督とか前監督という立場で選手や現監督を前にして「一言感想を述べる」などと偉そうな態度を取るのを私は好まない。
13年06月23日(日) 午前中小ヶ倉中学校午後東長崎中学校。今日は1日中バスケット漬けだった。こうして呼ばれて出かけるのは気が疲れる。しばらく練習を見せて貰い、コーチの口から出るセリフや態度からそのコーチの意図や構想を見抜き、選手の資質を見極め、無駄なく無理なくコーチが目指すチーム作りに役立つアドバイスをしなければならない。しかも、決して自分が主役とならないよう気配りをしなければならないからアタマが疲れるのだ。フーッ。
13年06月22日(土) 朝6時50に家を出て佐世保まで行った。大久保小学校の江村コーチから視察の依頼があったからだ。しばらく練習を見せて貰い、最後にちょっとだけクリニックをしたが、江村優有ちゃん(5年生)はすごい。アレンアイバーソンを女の子にしたみたいな選手だ。たぶん、中学生になる頃には国内あちこちからオファーがあると思うが、私が思うに彼女はアメリカに渡った方がいいと思う。とにかくすごい。備考:16日のブログの動画で右サイドからのドライブシュートを決めた青いユニフォーム4番の子であるが、あの1カットだけではこの子のすごさはわからない。ナマで、技術や身体能力だけでなく彼女の目、表情、態度まで含めて見ると半端じゃないのがよくわかる。 
13年06月21日(金) 第7回長崎国体がんばらんば国体2014を成功させる会サンプリエールホテルで行われた。発起人は山崎純男・浦敏明(北陽台ラグビー)・松本利弘(諫早高校駅伝)の3人。当初は行政や競技団体が音頭をとってやるのではなく、現場で指導に当たっている指導者が自腹で自主的に集まろうという意図で始めた。それも、あと1回で本番がやってくる。天皇杯獲得に向けていよいよ待ったなしだ。みんな、覚悟はできてるか?
13年06月20日(木) 今日から3日間嫁がいない。友人と2泊3日の旅行に出かけた。鎌倉・箱根だと言っていた。やもめ暮らしは短大に勤めていた間の論文締め切りが迫ってきたらほとんど研究室泊まりだったので慣れている。昨日も今日もまた一歩も外へ出ず、パソコンの前に座っていた。 
13年06月19日(水) 私は9月20日の夕方、長崎市教委主催の研修会の講師を依頼されている。部活動の指導者を集めた「スポーツ現場から暴力を無くすには」というテーマの研修会で講演をするのだ。昨日中村氏と全日空ホテルのロビーでコーヒーを飲みながら雑談をしている中でそのことに話題が飛んだ。私は「この講演は冒頭に、もし今の私が40年前の私と同じならクビです、という懺悔から入ります」と言った。するとすかさず中村氏が「おいおいそれは違う違う。クビですじゃなくて死刑ですだろ」と言った。確かに。 
13年06月18日(火) 中村和雄氏が川崎先生の見舞いに来た。BJリーグのオフがこの時期なのでこのタイミングでしか来られないのだが、昨年も一昨年も川崎先生は寝ていて起きなかった。私は長崎に住んでいるから時々見舞いに行くが、もう3年ぐらい寝ているか起きていても反応がない川崎先生しか見たことがない。ところが今日は起きていて、中村氏が「中村です!」と言ったら「おー今どこにいるの?」と返事を返した。歯が全部抜けていて何を言っているか分からなかったが妹さんがそう解説してくれた。私が1週間前に見舞った時も、看護士さんが「山崎先生ですよ!」と耳元で言ったら「おー、俺の弟子だ」と言った(看護士通訳)。今年98歳になった。来年10月は国体の時に1順目国体(昭和44年)の時の教員男子が集まろうという話をしている。その時はみんなでワイワイ病院に押しかけたい。実は、川崎先生よりも心配していたのがおばさん(川崎先生の妹さん)の方だった。おばさんは90歳になる。ところが元気元気、階段の昇り降りは私よりシャキシャキ歩く。川崎先生を見舞った後は太田さんはじめ昔の教え子たちと食事をした。おばさんも喜んでいた。来年の国体が楽しみだ。
13年06月17日(月) つばさ保育園の月組さんを活水大学に連れて行った。お目当てはチャペルの中にあるパイプオルガンだ。目の前にそびえ立つたくさんの金管の前の鍵盤を抑えて弾く楽器だ。私も今日始めて聞いたが、ひとつのパイプオルガンには千本のパイプがあるそうだ。ヒェーッ。園児は3人ずつ替わるがわる弾かせて貰った。フルートの独奏も聴かせてもらった。みんなで歌も歌った。体験に勝る教材はない。 
13年06月16日(日) 朝8時から夕方4時半まで御館山小学校に入り浸りだった。10チームが集まって練習試合をした。こどもたちが約150人。おとなが54人。大村中央の森先生を除けばあとは全員外部指導者だった。みんな熱い熱い。日本のバスケットの原点がここにある。そう思った。しかし、気になることもあった。参加チームの中には1校だけでは人数が足りないので近隣の小学校が1つになって参加しているチームが数校あった。それでも6人しかいないチームもあった。少子化の影響だ。ミニバスのルールでは1人で3ピリオド以上出場してはいけないことになっている。それを忠実に守れば公式試合には出場できないチームがたくさん出てくる。スポーツの普及発展を唱えるならば、文科省も競技団体もルールから見直すことを真剣に考えなければならないのではないだろうか。
追伸:慧君に久しぶり(2012.1.15のブログ)に会った。お兄ちゃんについてきたようだ。必ず田臥を追い越せよ。
13年06月15日(土) 今日で4日間連続引きこもり状態だ。ずっと椅子に座ったままなので尻も痛い。今、第3章(平成12年度)を手がけているが、資料を調べているうちに読みはまってしまってキーボードを打つ手が止まる。そして、「そうだったなあ、あの時は…」などと思い出して涙が出そうになる時がある。 
13年06月14日(金) 明後日、諫早の御館山小学校に行く。そのことで昨日から問い合わせが数件ある。私はミニバスの練習試合を観にいくのだが、どうやらそれ以外の人も集まってくるみたい。楽しみだ。追伸:今日も家から一歩も出ていない
13年06月13日(木) 昨日と今日は一歩も家の外に出ていない。昨日は約10時間、今日は約12時間、パソコンの前に座りっぱなしだった。そのほとんどが回顧録の執筆である。回顧録は古い資料を調べながら書くのであるが、事実確認のためにずーっと前の卒業生に問い合わせをしなければならないことが出てくるし、そのような事実を時系列で並べていくだけではなく、当時は文字にしていないがその裏には今だから話せるこんなことがあったんだとか、実はこんなことを思っていたんだというようなことも挿入しなければならない。なかなか手がかかる仕事だ。 
13年06月12日(水) 日常生活も勉強もまじめにやり、練習は人一倍がんばってきたつもりだが最後までエントリー選手になれなかった選手から「部活動はまじめにやってるだけではだめなんでしょうか」と、人生相談のメールが送られてきた。私は「チャンピオンを目指してやっている部活動ならば@チャンピオンを目指すためにエントリーを組むのが当然でAチームの和とか友情とか信頼とかいうのはチャンピオンを目指す活動の過程でメンバーの心の中に自然に育っていくもの。それをAを優先にして@は二の次と考えるならばそれは部活動ではなくお友達ごっこにしかなりません」という返事を送った。「では試合に勝つために必要な選手ならば、練習をさぼったり校則を守らなかったりしてもいいのかというとそれは大間違いです。よい選手である前によい人間であるのが大前提です」とも付け加えた。その子に会ったこともないし、その子のプレイを見たわけでもないが、この回答で納得したかなあ? 
13年06月11日(火) 休刊 
13年06月10日(月) 長崎市中総体最終日。ずっと前から思っている事だが中総体の舞台に立てる選手は幸せだ。なぜならブラスバンドが入るからだ。これは県高校総体では見られないし、インターハイでも見られない。まるでアメリカのカレッジバスケット会場だ。サッカーに人気を奪われてしまっているバスケットに人目が集まる方策が何か欲しいなあ。 
13年06月09日(日) 長崎市中総体2日目。東長崎は再延長で山里に負けた。59対57の1ゴール差だった。でも今日は最後まで観ていられた。現3年生と2年生は素質に恵まれた選手は少なく、昨年まで殆ど試合には出たことのない選手ばかりだ。それが中学最後の中総体で2回戦まで進み、しかも山里を再々延長に追い込む試合ができたのだ。それだけでアッパレ。拍手拍手。 
13年06月08日(土) 長崎市中総体を観に行った。東長崎対長大附属。AM10時トスアップ。試合時間残り3分。附属がゴール下シュートを決め、50対43と差を広げたところで会場から出た。バスケット的に見るとどっちも幼稚すぎる。でも一生懸命なのだ。こんなに一生懸命なのに勝負が決まる瞬間を迎えなければならない。その瞬間に立ち会うのが辛く、会場に居られなかった。会場を出てしばらくしてから東長崎の保護者から携帯に電話がかかってきた。「先生途中で帰ったでしょ。50対50に追いついたあと延長戦で勝ったんですよ!」「エーッ!ウソぉ」。今度は長大附属の選手たちが泣き崩れている様子を思い浮かべて切なくなった。歳を取りすぎて涙もろくなったようだ。
13年06月07日(金) 鶴鳴は明日と明後日の2日間中総体の会場である。鶴鳴の選手は会場設営をしなければならない。その間、下級生を相手にスクリメージをさせてもらいうために東長崎中を鶴鳴に連れて行った。田口先生と鶴鳴の下級生には2日続けて迷惑をかけた。東長崎2年生のA子は自分の出来が悪くて泣いていた。3年生の親が数人見学に来てたが、中には自分の娘が中学生最後の試合になるので感極まっている親もいた。選手も親も「やるだけやった」と思えて明日からの大会に臨めれば私も少しは役に立ったと言えるのかな。
13年06月06日(木) 今日は東長崎中の選手をマイクロバスに乗せて鶴鳴まで行った。小島中学校も呼んでスクリメージをした。鶴鳴が高総体後のミーティングなのでコートが空くから貸してもらったのだ。大会直前にたくさん練習したからといって飛躍的に強くなるわけではないが、安心は広がるだろう。合理的・能率的だけでは処理できないことが世の中にはあるのだ。しかし、お手伝いしながらN先生の存在と私の立ち位置のバランスがやっぱり気になる。
13年06月05日(水) 東長崎中は水金が体育館使用日だ。それは先週確かめた。確かめただけで私は「わかった、行くよ」とは言わなかったしN先生からも「お願いします」はなかった。でも、不安になって確かめた。案の定N先生は当然私が指導に来てくれると思っていた。この「当然」が怖い。N先生の当然ではなく私の当然が怖いのだ。もうなじみになっているから当然受け入れられていると思っていたら飽きられていたとかお邪魔虫になっていたとか、そんなことが世間ではよくある。私には「もうけっこうです」と言える人はなかなかいないので、そこらへんを自分でしっかり判断して行動しないと相手に迷惑をかけてしまう。 
13年06月04日(火) 高校総体が終わった。先週鹿児島総体を見に行ったが、長崎総体は鹿児島総体と比べて男女とも魅せられる試合が少なかった。国体まであと1年なのに、大丈夫かなあ。心配な事がもう一つある。公式試合のエントリーは15人だが、プログラムを見ると男子54チームの中に7チーム、女子51チームの中に10チーム、空欄のあるチームがある。部員が15人に満たないということなのか?。新人戦では3年生が引退し、新入生はまだ入ってきてないのでこんなことはよくあることだが…。上対馬高校男子はエントリー6名、しかも3年生だけだ。2年生と1年生は旅費がなかったから置いてきたというのならいいが、部員がこれだけだったら来年休部か?O小学校のミニバスといい、上対馬高校といい、少子化がスポーツの将来にも暗い影を落としている。 
13年06月03日(月) 高校総体が決勝リーグに入った。10時からの長崎西戦。鶴鳴の最初の得点は川口のスリーポイントだった。これで1万円が飛んでいった。そして、5分もしないうちに川口は2本目のスリーを決めた。私はすぐ川口ママに「2本決めたからといって2万円にはならないぞ!」とメールした。4月以降、私は毎月15日に嫁からその月のお小遣いを貰うことになっているが、今日から15日までの13日間、自己資金8千円で凌がなければならない。 
13年06月02日(日) 午後東長崎中の指導に行った。yamasakischeduleで私の個人的スケジュールは公開しているが、それを見てあちこちから視察や指導や講演の依頼が来る。念のために言っておくが、私は原則としてこのような依頼では日当や謝礼を貰わないことにしている。バスケットボールを通して得た実績で稼ぐのは気が引けるのだ。あくまでこのような依頼を受けるのはバスケットボールへの恩返しだと私は思っている。
13年06月01日(土) 高校総体が始まった。4日までだ。今日も明日も観には行かない。狭い体育館で行われるからだ。高校総体は各校応援団がすごいので狭い体育館では駐車場もないし観るスペースもない。3日と4日は観に行く。シーハット大村なので駐車場も観戦スペースも大丈夫だ。前にも述べたが、5月18日、神村学園の進藤先生の依頼により私は鶴鳴に合宿に来た神村学園のチェックに行った。その時、昼休みに鶴鳴のセンター川口がスリーポイントシュートを打っていた。「5本連続成功したら千円やるよ」と言ったら簡単に決められた。「高校総体本番で1本でも決めたら返さなくていいけど、ゼロだったらこの千円返せよ」と言った。初日の今日、川口ママから「決めましたよ」とメールが来た。これで千円は返って来なくなった。しかも、「ヨシ、じゃあ決勝リーグで決めたら1万円だ」と、軽はずみなメールを返してしまった。大丈夫かなあ。 
13年05月31日(金) つばさ保育園の月組さんと星組さんは今日お泊まり保育。夕方園庭でカレーを食べたあとホタルを見に行った。昨年撮った静止画ではホタルの光は見えなかったので今日は動画で撮影したが、肉眼では見えてもホタルの点滅は動画では見えなかった。画面上部の光の移動はホタルではなく向こうの道を走るクルマのライトだ。残念
13年05月30日(木) 昨日の私のBLGを見たE氏からメールが来た。
僕がNOTRE DAMEのSKYLAR DIGGINS選手を目標とさせたい理由はいくつかありまして、@リーダーシップAバスケIQB闘争心。この3つが主な理由です。ON/OFFの切り替えもきちんと分かっている選手で、ONの時はバスケットに集中し、チームを引っ張り、必要に応じて必要なプレイをセレクトします。OFFの時は社交的で、笑顔がはじけるチャーミングな方です。技術、評価、結果は努力した分だけ後から勝手についてくるものだと信じているので、DIGGINS選手のような優秀なバスケIQとテクニックもさることながら、人としても成熟してほしいと願いを込めて、日々指導にあたっています。今年度はDIGGINS選手以外にも、UCONNのBREANNA STEWART選手、LOUISVILLEのSHONI/JUDE SCHIMMEL姉妹、ANTONITA SLAUGHTER選手も、気持ちが伝わる、感動を呼ぶ、心を打つ選手でした。今年度の日本の高校女子で注目しているのは宮崎早織選手と加藤瑠倭選手です。8月の高総体ではベスト8の試合を観戦する予定で、生徒もつれて行きます!
だって。太刀打ちできないっ!。ダーッ。 
13年05月29日(水) 26日のこの欄にO小学校のE氏とメールのやりとりをした一部を掲載したが、まだある。E氏は私にセカンドオピニオンをして貰いたい超元気な2人をNortre Dame大学のSkylar Digginsのような選手にしたいと言った。よほどマニアックな人でないかぎり、Nortre Dame(日本式な発音ではノートルダムだが本当の発音はノーターデイムに近い)大学を知らないだろうし、Skylar Diggins(スカイラー ディギンズ)選手なんて殆どの人が知らないだろう。事実、私もNortre Dame大学はバスケットボールやフットボールが強い名門校だとは知っていたが、Diggins選手のことは知らなかった。彼女はTULSA SHOCK(オクラホマ州にあるWNBAチーム)のスタメンガードで活躍している。ちなみに、私が3年前にVirginia大学を訪問した時にツーショットで記念撮影して貰ったMonica Wrightは現在Minnesota Lynxで活躍している。私もけっこうマニアックだと思っていたが、こんな人が居るなんて…、油断出来なくなってきたぞ。
13年05月28日(火) 5日間の旅から帰ってきた。今回は男子もしっかり見たので感じたのだと思うが、高校女子の強いチームを作るには筋トレが必須だということを痛感した(ミニバスと中学の下級生はダメですよっ)。広島でも鹿児島でも私が見たのはそれぞれの地域の上位のチームなのだが、ヒョロッとかユラッとするプレイが女子には目立つ(広島皆実を除いて)。際立って目立つのがヘルドボール。男子にはほとんどないのだが、女子は床にすぐ寝っ転がる。こんなの踏ん張ろうとすればすぐなくせる。「ヘルドボールの度にいちいち寝っ転がるな!」と、ずっと前から私自身も言っていたが、今回またその重要性を再認識した。
13年05月27日(月) 鹿児島にやってきた。高校総体3日目。高校男子の決勝リーグをこんなに熱心にみたことは今回が初めてである。特に、I高校はこれといって目立つ選手がいないが組織プレイがしっかりしていて魅せられた。他の高校の選手たちも若者らしくきびきびしていて気持ちのいい試合だった。昨日のE氏にも今日の鹿児島総体高校男子の試合にも元気を貰った。まだまだ老け込むわけにはいかなくなった。備考:鹿児島の街中に駐車しているクルマはみんなワイパーを立ててある。寝せていると火山灰が積もるのだそうだ。 
13年05月26日(日) 広島滞在中にE氏からメールを貰った。
E氏「初めて連絡させていただきます。S市O小学校のミニバスの外部指導者をしています。現在6人の部員で積極的に活動しています。うちの部員の中に低学年から継続的に努力を続け、他のチームメイトのお手本になっている超元気な生徒が2人います。その2人を、先生のご都合の良い時に生で見ていただき、アドバイスとセカンドオピニオンをしていただきたく、メールをさせていただきました」
山崎「6人でやってるって…、それだと公式戦には出られないんじゃないの?」
E氏「ハイ、O小学校は1学年1クラスで、全校児童が140人程度です。児童数が少ない小規模校ではメンバーが集まらないのが現状です。ですから、公式戦には出られませんが、指導者仲間のカップ戦や練習試合などで切磋琢磨させていただき、中学・高校に繋げられるよう日々精進しています」
こんな人がいるかぎり、私はどこにでも出かけて行くし何でもする。双方都合の良い日を連絡し合い、6月16日に行くと約束した。 
13年05月25日(土) 広島皆実に徳島城北・新居浜商業・誠英・皆実の4チームが集まって合宿をした。すべてのチームが来週県高校総体を控えている。今日だけで4人ケガ人が出た。幸い4人とも来週試合に出られないような重傷ではなかった。高校スポーツは実質2年半しかない。だからケガはその選手の青春すべてを奪ってしまう場合がある。高校スポーツに関わる者はケガには神経質にならなければならない。
13年05月24日(金) 広島に来た。ひとり旅だ。もう何年も、乗り物を利用するのはマイクロバスかCUBEか飛行機でJRはめったにないかった。かもめに乗って車窓を流れる景色を眺めていたら小学生の頃を思い出した。小学生時代私は佐賀県の叔母の家に預けられ、長崎に出稼ぎに行ってる母の職場に時々会いに行った。当時のJRは蒸気機関車が引っ張る汽車だった。トンネルを抜けたあとはススで鼻の穴が真っ黒になった。座席は堅い木製だった。それでも浮き浮きしながら旅をした。 
13年05月23日(木) 休刊 
13年05月22日(水) 今、山崎純男の回顧録は第1章「5:FIBAASIA大会」の終盤にさしかかっている。FIBAASIA大会の大村市誘致で最初に動き出してくれた元大村市地域げんき課スポーツ振興室の西孝之氏が昨日亡くなられた。そのお通夜に今日行ってきた。日本協会から視察に来たH氏やK氏に西氏が説明するのだが、大村弁で話す西氏のことばをH氏やK氏に通訳するのが大変だった。ご冥福を祈る。お世話になりました。 
13年05月21日(火) つばさ保育園の先生がインターネットで調べた。5月の潮干狩りに◎印が付いている日は9日と21日だった。今日の島原新港の干潮は11:45となっていたが小潮だった。インターネットの間違いだ。だからマテ貝掘りは全く出来ず、浜遊びをして帰ってきた。でも面白いことがあった。マテ貝掘りはまず砂を掻く@マテ貝が潜んでいる穴を見つけそこに塩を落とすA苦しくなったマテ貝が頭を出すのでそれを抜き取るBという手順になる。ところが今日はM先生が穴から出てきたヤツをつまみ上げたらエビだった。エビって、砂に潜っているんでしたっけ?
13年05月20日(月) 午後から東長崎中学の運動会を見に行った。一言で言えば、小学校の運動会の方がかわいい。明日はつばさ保育園のマテ貝掘りの引率だ。もっとかわいい。 
13年05月19日(日) 神村学園は昨夜のうちに帰した。進藤先生が今日午後1時から行われる鹿児島県協会の評議員会に出席しなければならないからだ。それで今日は東長崎中学の運動会を見に行くつもりだったが朝から雨で中止になった。するとN先生から「今日運動会が中止になり、3時半から練習することになったのですが…」と電話があった。彼は指導を私に丸投げするのではなく、必ずテーマを用意して指導を願い出る。今日はハーフコートのトラップディフェンスについて指導して欲しいということだった。なかなか立派な指導者だ。
13年05月18日(土) 昨夜は私も鶴鳴のセミナーハウスに泊まって進藤先生と深夜までミーティングをした。現状の打破・個々の活かし方と修正箇所等々話し合う内容は尽きなかったが、結局起死回生案とか目からウロコ案はなく、指導者の観点がぶれないことと、選手との根気強い係わり方しかないという、いつもの結論にしか至らなかった。今日は、昼休みを利用して鶴鳴の村岡・井手・糸山・平田・渡辺・高尾の6選手に東長崎中学の相手をしてもらった。8分のスクリメージを10本やってもらったが、東長崎中学は1本勝った。大収穫だった。が、当の本人たちはフツーにしている。給水が終わった彼女たちに近づいて「お前たち鶴鳴に勝ったんだぞ、わかってるのか?」と言ったら取って付けたように「イエーイ」と言ってた。よくわかってないみたい。それにしても、審判をしてやりながら「こんな可愛い子たちを45年前はボコボコにしながらやってたんだよなあ。信じられない…」と大反省した。
13年05月17日(金) 今日と明日は鶴鳴で神村学園の合宿。進藤先生から神村のチェックを頼まれて鶴鳴に行った。そこへ卒業生のB子が現れて退職記念の花束を貰った。ずーっと昔の卒業生のA子からはNORTHFACEのウェアー上下を貰った。これは退職記念ではなく、2日前の誕生日お祝いだそうだ。「NORTHFACEかあ、色合いと柄がいいねえ」と私。「でしょう、新作だそうです」とA子。「こんな贅沢なモノ俺にはもう必要ないのに」と私。「いえいえ、いつ死ぬか分からないので生きてる間はできるだけのことをしようと思って…」とA子。 
13年05月16日(木) 休刊 
13年05月15日(水) 71歳になった。おめでとうと言われるが、長生きすると国家財政を圧迫するので心苦しくなる。 
13年05月14日(火) 休刊 
13年05月13日(月) 昨日東長崎中学校での練習試合の審判中(左膝はまだリハビリ中なので、センターライン近辺を行ったり来たりするだけ)、センタージャンプのボールが直接私の右目に当たった。星が飛んだ。昨日はなんともなかったが今朝嫁から「どうしたんですか」と言われて鏡を見たら青タンが出来てた。ワーッ。 
13年05月12日(日) 昨日と今日、2日連続で東長崎中に行ってきた。もちろん顧問のN先生から依頼があったからである。鶴鳴を完全撤退してから5回目だ。実は昨日は3年生は居なくて2年生と1年生の下級生だけのはずだったが全員居た。大半の3年生が公立高校のオープンスクールに参加することになっていたのに「山崎先生が指導に来てくれるなら練習に行く」と言ってオープンスクール参加をキャンセルしてしまったのだ。それを自分の方がN先生より人気があるなどと錯覚してはいけない。50年もコーチをしてきたのだから選手の痒いところに手が届く指導ができるというだけだ。今年東長崎中に転勤してきたN先生はバスケット経験者で中学生の指導者向きの熱心な先生だ。でも私が頻繁に通うと選手たちは痒いところに手が届くだけに「山崎先生の指導は分かり易い。山崎先生がずっと来てくれればいい」と思うようになり、それがN先生のチームの乗っ取りに繋がっていく。ある中学校の監督が、定年退職後のある指導者に「暇だったら手伝いに来てくれませんか」と頼んだら、そのチームが全国でもトップレベルのチームになった。それはその学校の監督が立派だったからそのような成果を収めたのであって決して助っ人指導者のおかげではないと私は思うのだが、その助っ人指導者は「俺が勝たせてやった」と自慢している。そんな助っ人に私はなりたくない。
13年05月11日(土) 長崎南部地区公園グラウンドにNJSS(長崎女子サッカースクール)の練習を見に行った。小学1年から中学3年までの女子ばかり約40名ぐらい。指導者は3名。女子サッカーと言えば佐々木監督やナデシコジャパンがメディアに頻繁に登場するが、この3人の指導者を見ていて「ナデシコジャパンじゃなくてこんな人たちが日本のサッカー界を支えているんだよなあ」と思った。話は遡るが、元長崎市役所の職員だった宮本さんは長年東長崎地区の小学生や中学生の女子バドミントンの指導に携わり、数々の全日本クラスの選手を育て上げられた。特定のチームを全国優勝させたりしたことはないが、私はずっと宮本さんこそ県民栄誉賞にふさわしい人だと思っていた。宮本さんは平成15年に文部科学大臣賞を貰われたが、私は長島さんや松井選手と並んで宮本さんが国民栄誉賞を貰われても不思議ではないと思っている。日本のスポーツ界はこんな人たちを大切にしなければならない。ご存命なら今年87歳になられる。
13年05月10日(金) 今日の夕方、東長崎中学校の監督から頼まれて指導に出かけた。今日で3回目だ。東長崎中学校には高城台ミニバスを指導していた頃の生徒たちが6人居る。だから保護者の中にも顔見知りが何人も居るが、そういうつながりで私は押しかけ指導はしたくない。だから初回の時「今回は保護者経由で頼まれ、保護者が”監督にも連絡済みです”と言うから来ましたが次回からは監督から直接依頼がないかぎり来ませんからね」と言った。私は、保護者と監督のトラブルで部活動に支障を来した事例をいくつも知っている。保護者が熱心に協力するのはいい。しかし、部活動が保護者主導になったり、監督のやり方にいちいち保護者が口出しをするのは嫌いだ。このことは私のHPの『books & essaysの監督一代Nぜいたく』で述べている。これを書いたのは1985年5月29日。なんと28年も前のことだ。明日と明後日も監督から直接頼まれたので出かける。 
13年05月09日(木) つばさ保育園の月組と星組のこどもたち26人マテ貝掘りに連れて行った。私の弁当も用意されていた。折角用意してくれたのに「俺、昼は食べないから」とは言えない。ご飯は残したがおかずは全部食べた。昨日嫁にダイエット宣言をしたばかりなのに…世の中思うようにいかないものだ。 
13年05月08日(水) 今日は第1章の(1)だけUPした。前書きも修正した。嫁に「今日から食事は朝だけでいい」と言った。パソコンの前に座ったまま身体を動かさないので1日2回も食事をするのは健康によくない。 
13年05月07日(火) 今日も郵便局に行っただけであとはずっと家に籠もっていた。原稿にも手を付けようとしたが、パソコンに向かったらパソコンの中に古くて不要なファイルがたくさんあることがわかったのでそれを整理するのに多くの時間を費やした。原稿は、書いているうちにあれこれ思い出し、それを途中で挿入するので文を途中で入れ替えたりしてなかなかまとまらない。章立てと内容をきっちり整理してなくて思いつきで書いているのでこんなことになってしまう。今日は未完成だか前書きだけUPしようと思う。明日はまた内容が変わってるかもしれない。 
13年05月06日(月) 家から一歩も出ずに一日中パソコンの前に座っていた。平成8年に大野慎子物語を出版した時、もう書かないだろうと思っていたが退職したら時間が有り余るので、平成24年度からさかのぼりながら回顧録を書こうと思ったのだ。この回顧録は出版はしない。加筆修正しながらその都度HP上にUPしていこうと思う。だから、読者にはとっては「あれ?前回読んだ時と前書きの内容が違っているぞ」ということがしばしば起こるかもしれない。
13年05月05日(日) 5月連休の倉敷カップはいつも、行きは下り線が渋滞で帰りは上り線が渋滞だ。反対車線を走っていると気の毒になる。さて今日は、反動について述べようと思う。連休合宿や正月合宿のようにスクリメージの連戦になると、出来の良い試合をしたあとの反動で勝てるはずのチームにやられることがよくある。こんな時は、主力を2人ぐらい外して下級生を入れる。新鮮な気持ちでプレイする下級生に刺激されて上級生の動きが復活することがあるのだ。或いは、オフェンスでは無駄な動きをたくさんやらせ(ボールマン以外の選手が動きを止めない)、ディフェンスではインターセプトを頻繁に狙わせるなど、無茶をたくさんやらせる。反動で動きが滞っている時選手は「しっかりしたプレイをしなければなならい」という気持ちになって知らず知らずのうちにかたちにこだわっている場合が多いからだ。
13年05月04日(土) 今日は選手起用のことについて述べたい。昭和43年に私は苦い経験をした。当時私は中学生の指導をしていたが、 練習試合を申し込まれて受けたものの相手が格下のチームだったのでキャプテンをスタメンから外して試合をした。あとでそれが相手に対して大変失礼だったことに気づき、それ以来どんなに弱い相手と試合をする時でも最初は絶対スタメンを出すことにした。たとえ「この試合では1年生のM選手にキャリアを積ませたい」という意図を持っていたとしてもだ。その時は私が指導するチームは県下では敵なしのチャンピオンチームになっていたが、駆け出しの頃相手の迷惑も顧みず強いチームに頻繁に胸を貸してもらったことを忘れ、その恩義を忘れて天狗になっていた。江頭先生すみませんでした。
13年05月03日(金) 各コート9試合ずつ。両コートで計18試合つぶさに観察した。監督のベンチからの声に的を絞って考えを述べてみたい。ベンチからの声というのはおおむね次のような種類に分けられると思う。@結果についての感想(OKなのかNGなのか。NGならばどうすればよかったか)。A何かが起こる前にそれを警告してやるか準備を促す。B現状を分析して知らせる。Cその他(激励や叱咤)。それらの声が全てその後の展開に有利に働かなければならない。もっともよくないのが、結果を責めるだけのことばだと思う。自分がそれを完璧にやれるわけではないけれど。他人の試合を見て感想を述べるのは簡単だ。
13年05月02日(木) 夜11:15。クレインズバスに便乗して倉敷翆松高校に到着した。4月23付けで鶴鳴のコーチは辞任したが、それ以前に倉敷カップ参加のお願いをしていたのと、辞任表明した後も「山崎先生、倉敷には来られますよね」と中野先生から念押しされたので足を運んだ。明日から3日間、鶴鳴のベンチはしないが、参加全チームの試合ぶりや監督の一挙一動を観察させて貰おうと思う。 
13年05月01日(水) Aさんからメールを貰った。「先生、人はいつ死ぬと思う?人に忘れられた時ですよ」ということばだった。そうか、人の死は命が尽きた時ではなく忘れられた時なんだ。いいメッセージを貰った。Aさんありがとう。 
13年04月30日(火) 3月21日のこの欄に、「部屋の荷物の整理は膝が治るまで出来ないだろうから夏休みまではこのままだ」と書いた。その時はまだ両松葉杖だったが今はそれを外して生活している。だから26日から片足で抱えられる量の荷物をボチボチ片付け始めた。2日目、残った段ボール箱三つ分の本を整理していたら勝海舟全集が箱の底にあったのでそれを自室に移し、残ったマンガ本は仏間の本棚の横に机を持ってきてその上と下に積み重ねて無理矢理収めた。これで片付けは終わりだ。結局、段ボール一箱分の本の保管場所がなくなったが、それは松本幹夫氏に譲る。ところで、約3日間でこの作業をやったが、2階の自室まで13段ある階段の昇り降りが応えたらしく、手術した方と反対の右膝が痛くなった。膝を曲げて体重をかけるのがよくないのだ。grinding testをすると痛い。サラの上端を指で押さえたまま太ももに力を入れるとサラがグリッと動く。その時痛みを感じれば、サラと太ももの間の軟骨を傷めている可能性大なのである。左膝の手術の前に同じテストをしたら、左膝は痛かったが右膝は痛くなかった。というわけで左膝が治っても私は走れるようにはならないだろう。でももう手術はしない。 
13年04月29日(祭) 保育園仲間とバスケット仲間の東長崎ファミリーをマイクロバス(バレー部のオートマ仕様)に乗せてアグリの丘まで連れて行き、バーベキューパーティーをした。7歳から14歳まで10人のこどもたちだ。男の子一人だけ参加の勇歩君も最後にみんなと一緒に食器洗いをやった。片付けのあとはみんな散らばってしまって2時間ぐらい帰って来ない。仕方がないので昼寝した。
13年04月28日(日) 三菱重工体育館に長崎新聞社杯長崎市中学生大会を観に行った。これまでは自チームの試合に集中するために試合と試合の合間はバスの中で沈思黙考。他の試合を観たりステージで他の役員と話したりすることはなかったが、今日は一観客となり試合内容はもちろん、ベンチの様子や審判の動きや役員の立ち居振る舞いなどつぶさに観てきた。チームを創り選手を育てるには第3者が一見しただけではわからない裏の事情というのがたくさんある。これからは、そんなことまで洞察できるような観客になれるよう勉強していきたい。 
13年04月27日(土) 朝歯医者に行って一旦帰ってきて部屋の片付けをし、夕方膝の診察に出かけた。膝は徐々に回復していくだろうが、今回は前4回の手術と違って勝負がつくまでは長い。暇なので走りたいが今度ばかりはそうはいかない。部屋の片付けがあと2日ぐらいはかかりそうなので、一段落したら、バスケットの臭いのするところには出来るだけ出かけ、バスケットを視る目や感覚が鈍らないようにしようと思う。ただし、押しかけコーチは絶対やらない。 
13年04月26日(金) 朝から郵便局に行ったりして雑用を済ませ、部屋を片付け始めたのが10:30。短大の研究室と高校の体育教官室両方の荷物を持って帰ってきたのだから全てが自分の部屋に収まるわけがない。マンガ本は半数ぐらい棄てたがそれでも母の仏間を間借りしなければ置き場所がない。母の仏間に間借りしても収まらないマンガ本が段ボール箱三つ分残った。棄てたくない。どうするかはこれから考える。今日の作業は夜7:30分で打ち切った。ぶっ通し9時間の作業だった。ところで、本を整理していたら30年前の古い手紙が見つかった。当時名古屋経済大学の監督であった新井春生先生からの手紙だった。私はいつの間にか新井先生の同志になっていた。
13年04月25日(木) JBAから公認コーチ宛にメールが届いた。文面は下記の通り。
これまでの指導の実態を正確に把握し、再発防止に向け注意、反省を促した上で、新しい指導体制を策定する必要があります。そのために、この度、指導者全員に、実態調査を実施します。公認コーチのみなさんは、ありのままを回答してください。本調査において、過去の暴力行為について正しい申告がなされなかった場合には、厳しい処分が科されます。さらに、今後暴力行為を行った者はより厳しい処分と致します。
設問@あなたは過去3年間(2010〜2012年度)にバスケットボールの指導において暴力行為、暴言、セクハラ、パワハラを行いましたか。(選手、保護者、関係者等から暴力、暴言、セクハラ、パワハラに関するクレームを受けたことがある場合も含む。)
山崎回答:なし
設問Bスポーツ指導における暴力行為等の根絶には何が必要だと思いますか
山崎回答:指導者が私利私欲を棄てること。
設問C日本バスケットボール協会では指導者の育成にさらに取り組んでいきます。選手育成のための指導者の指導力向上にはどういった取り組みが必要だと思いますか。
山崎回答@バスケットボールの魅力に引き込もうという努力から始めているミニバスの指導者を大切にすること
山崎回答Aほとんどの熱心な指導者は、身銭を切ってやっていることを協会上層部が知っておくこと。
山崎回答BJBAから権威や権力を欲しがる者を一掃すること。
13年04月24日(水) いろんな憶測が飛び交っているので辞任理由についての詳細を説明します。私は、平成3年のインターハイ優勝以後「私」よりも「公」を優先するようになりました。ですから今回の件も、「俺はあと何年コーチをしたい」という「私」優先ではなく、「どうすることがもっともチームや学校のためになるのか」という「公」を優先した結果こういう結論になったのです。かっこつけたセリフに聞こえるかもしれませんが本音です。本当は、命尽きるまでコーチを続けたいと今でも思っています。今日12:00に久しぶりのスーツ姿で校長に挨拶し、14:30にデスク片付け、それからクロゼットロッカー靴箱を空っぽにして16:17に鶴鳴を去りました。
13年04月23日(火) 夏までは私がクレインズの指揮を執ることになっていましたが、本日付けで校長宛にコーチ辞任願いを提出しました。辞任理由は下記のとおりです。
クレインズチームは2月中旬の九州春季大会以降力をつけ、さらに春休み遠征の結果でもそのことは証明され、選手たちの中にも「今年はいける」という自覚がこの2ヶ月間で芽生えてきたのがはっきりと見て取れた。しかるに県春季選手権大会の準決勝(純心戦)では、これまで指摘し続けられ、改善すべく努力を積み重ねてきたはずの選手個々の弱点がことごとく露呈し、地区新人戦と同様の結果になってしまった。このような試合をしてしまった彼女たちは当然「またやらかしてしまった」と思っているはずである。そんな状況の中でこのあと私が指揮を執り続けると、私は選手にとって「教えて貰う」という存在よりも「弱点克服のための努力を監視され続ける」という存在となる可能性が高く、そうなれば選手のよい面を引き出してやることはできない。選手の良い面が表に出てくるようにするためには選手達を山崎純男の呪縛から解き放ってやるのが最善策である。
上記辞任理由は、選手達に愛想が尽きたわけではなく、情熱が薄れたからでもない。私の本当の気持ちです。 
13年04月22日(月) 無念! 
13年04月21日(日) 県春季戦2日目。佐世保商業との試合前、審判の水戸先生と佐世保商業の山本先生を呼んで「俺、3月に膝の大手術をしたので思い切り動けないんだ。だからハンディ5点ぐらいくれないかなあ」と交渉したけどダメだった。 
13年04月20日(土) 県春季戦初日。新入生にとっては初めての公式戦だった。公式戦では日頃の部活動では見えなかった一面が表に出てくる。人には良い一面と悪い一面があるが、今日の試合で悪い一面が見つかった選手はいなかった。これからボロが出てくるのか…、良い一面に磨きがかかってくるのか…、どうなんだろう? 
13年04月19日(金) 4月8日に片松葉杖にしたが、めんどくさくなって鶴鳴杯(13日)の日にはそれも外した。左足をピンと伸ばしたまま歩いたり体重をかけたりしても痛くはないが、膝を少しでも曲げて体重をかけると痛い。だから、階段は2歩で1段ずつ昇り降りしなければならない。イライラする。イライラしながら歩くから時々つっかかる。つっかかった時はとても痛い。それに腹が立って近くにいるヤツに八つ当たりする。いかんいかん。
13年04月18日(木) つばさ保育園の園長のテニス肘(ピアノ弾きすぎ)がまた痛み出したので様子を見に行った。しっばらくぶりだった。園児たちは丁度里山でお昼ご飯を食べるとこだった。3月24日、卒園式が終わってアオちゃんと結子が「お世話になりましたあ」と、花束を持って鶴鳴まで来てくれたが、実は園児たちからはほかにもプレゼントがあったらしく、今日それを貰った。Tシャツの背中の図柄は卒園児たちが描いたもの。マイクロバスにぶら下げる飾り物も卒園児の手作り。卒園児全員の顔写真入りマグカップも貰った。新しく年長さんになった月組のマテ貝掘りが今月末か来月始めにある。クレインズバス活躍のシーズン到来だ。 
13年04月17日(水) Guy Healyがお世話しているアメリカからの留学生9人をマイクロバスに乗せて福岡市大濠公園脇にあるアメリカ領事館に連れて行った。1日がかりの仕事だった。まだクラッチ操作ができないので今日もバレー部のオートマ仕様車を借りていった。迷彩服を着て行ったので、ボストンでの無差別テロがあったばかりだし、尋問されたりしたらいやだなあと思って私は領事館に入らず、バスの中でマンガ本を読みながら時間を潰した。 
13年04月16日(火) 朝練の前に田口先生を含めた全員を集めて話をした。内容は昨日の競技力向上対策本部委員会の会議内容についてである。昨日の会議で、鶴鳴は平成25年度の強化校から外された。理由は純心女子高校が強化校に繰り上がったからだ。その基になったのは昨年の地区新人戦である。鶴鳴は準決勝で長崎西を破っていながら決勝戦で純心に逆転負けを喫した。それが尾を引いて県新人戦でも3位にしかなれず、強化校からも外された。強化校を外されたら強化費は貰えない。私は鶴鳴の監督を35年も勤めたが、その間部員からは部費や遠征費やユニフォーム代など一切徴収していない。それは、県や学校から貰う強化費や公式試合の経費、それに私の講演謝礼等をやりくりして運営してきたからできたことである。まもなく田口先生にバトンタッチするので、田口先生にも選手にも、勝てば裕福になるが負ければ貧乏になり、お金はやりくりしなければ貯まらないという現実の厳しさをわかってもらおうと思い、強化校を外されて丁度よい機会だったので敢えてお金のことを話した。 
13年04月15日(月) 長崎国体まであと545日。今日午後3時半からセントヒル長崎で平成25年度長崎県競技力向上対策本部委員会が開かれた。私はこの委員を9期18年務めている。今年は改選期である。私は鶴鳴を辞めたしチーム指導からも離れるのでこの職も辞そうと思って願い出たが県競技力向上対策課の安藤参事に「なりません!」と一蹴され、あと1期務めなければならなくなった。今日の会議で議長(渡辺教育長)が「どなたかご意見を…」と言われたが、18年もこの委員を務めてきた私には「策や案は出尽くした。あとは現場の指導者や選手がどれだけ本気でやるかだけだ」と言うことばしか見つからない。「県が…とか協会が…ではなく、当事者が身銭を切ってでもやれ!睡眠時間を削ってでもやれ!」と私は言いたい。
13年04月14日(日) 鶴鳴杯最終日。それぞれのチームの牽引車になった選手に賞状を与えるのが恒例になっているが、今年は今大会以前にすでに賞状を渡すと決めていた選手がいる。東長崎中の中田選手である。理由を説明する。1月14日(祭)。鶴鳴の練習はオフだったが東長崎中に大村の郡中が来て練習試合をするという情報が耳に入ったので私はフラッと出かけていった。私は試合を見ようと思って行ったのだが、結局クリニックをするハメになってしまった。クリニックが終わった後選手たちが一列に並んで挨拶に来たが、代表の選手が「わかりやすいご指導ありがとうございました!」と大きな声で言った。私は「今の言葉は先生に”こう言いなさい”と言われたのかい?」と聞いた。その子は「いいえ自分で考えました」と言った。それが中田選手だった。自分でも中学生にわかりやすく説明しようと一生懸考えながら教えたので、中田選手からそのことばが返ってきたときはとても嬉しかった。というわけで、その時に東長崎中の優秀選手は中田選手と決めていたのである。ほかの選手、ごめんね。
13年04月13日(土) 鶴鳴杯初日。田口先生走り回っていた。若いうちの苦労は買ってでもしなさい。動画1 動画2 
13年04月12日(金) 明日と明後日の2日間、第24回鶴鳴杯争奪中学生招待バスケットボール大会を実施する。今日はその準備作業をしなければならない。黙っていても選手たちがてきぱき動いて準備をするが、私は今日準備することを田口先生に細かい項目まで書き出させた。イベントで人を動かす立場に立つ者は、どのような準備をしなければならないかすべてをアタマの中に入れ、「たぶん、準備に際して生徒はこのことをうっかりするかもしれない」とか「無駄な動きや無駄な時間を少なくするには…」などをシミュレーションしておかなければならない。 田口先生にとっては自分が仕切る初めてのイベントなのでそれらのことを何度も予習しなければならないのだ。
13年04月11日(木) 臨時休刊 
13年04月10日(水) 昨日対面式があり、新年度の行事は一段落した。新入生は昨日と今日の2日間で部活動見学をし、どの部に入るかを決める。部によっては、バスケット部のように春休みから練習に参加(傷害保険に必ず加入させる)している生徒もいるが、大半は部活動見学後に入部届けを出して初めて部活生となる。今年は嬉しい事がひとつある。それはソフトテニス部に新入生が5人も入ったことだ。昨年は下級生が一人も居らず、2年生4人だけで練習していた。明るくてとても熱心な子たちだった。でも4人では団体戦を組めない。昨日、テニスコートの横を通った時「お!増えたな」と言ったら「ハーイ、増えましたあ」と元気な声が返ってきた。よかったよかった。
昔のエピソードを話そう。昭和57年3月の春休み。この時もバスケット部には4月に入学する新入生(まだ中学生?)が練習に参加していた。彼女たちは前年の夏の九州中学大会で優勝している。即戦力だ。が、彼女たちは4月になってすぐ退部届けを出した。「練習について行けません」が理由だった。退部届けって…まだ入学式前だろ?。結局彼女たちは部活動を続け、インターハイの3回戦まで勝ち進んだ。フーッ。
13年04月09日(火) 慎子の長男麟太郎は3歳1ヶ月。画像が届いた。動画だ。ゴールを狙う目がいいし、リリースがいい。旦那も仙台高校出身で鬼の佐藤先生に指導を受けた選手だし、慎子は鶴鳴卒業後本場アメリカの大学でプレイをした。しかし、2人とも麟太郎に抜かれる日が必ず来ると思う。そう遠くないうちに…。
13年04月08日(月) 昨日は、朝8時半から夜の8時半までぶっ通し12時間、昼食も取らせず田口先生に新年度の部活動関係事務処理のやり方を教え、作業も実際にやらせました。田口先生も大変だったでしょうが私もくたびれました。でもまだ、今週末にかけてやらなければならない仕事が9項目もあります。田口先生大変です。私は両松葉杖がとれて片松葉杖になり、動きが楽になりました。でも、昨日1日中机に向かっていたせいか今日は左足のふくらはぎから足の甲にかけてむくんでいます。体育館は、明日の対面式のために入学式の会場設営がそのままになっているのでグラウンドトレーニングにしました。新入生に5000b走(5q25分のペース走)や50bダッシュ(筋断裂がこわいのでまだまだ8割程度の力でしかやらせません)の要領を教えるのに丁度よかったです。
13年04月07日(日) 春休み遠征が終わりました。3月末にお約束した私の今後について公表します。
結論から言います。3月下旬にはすでに決まっていたことですが、県高校総体まで現体制で行くことになりました。県高校総体で負ければ6月5日以降私はクレインズバスケットボールに全く関与しませんし、勝てばインターハイまでは関与しますがインターハイで負けた時点で私はクレインズバスケットボールから永遠に離れます。
これは、本当に私が望んでいた結論ではありません。私個人のことを考えれば、待遇がよくてやりがいのあるオファーがありましたし、バスケットボール部だけのことを考えればもっとよい方策があると思いますが、いろんな立場の人のことを考えると、ここらへんが落としどころかなあという結論です。
…と、簡単に7行の文章でまとめていますが、2月以降あの人この人の立場のことを考えて悩み抜き、自分の中の葛藤と闘いながらこの結論に至りました。その経緯については時効が来たらお話しいたします。 
13年04月06日(土) 「…」 
13年04月05日(金) 1人で運転だし松葉杖だし、少し心配でしたが、午後6時45分に無事帰還しました。行きは2人の交替運転で給油及びトイレ休憩は3回。所要時間7時間40分。帰りは1人運転で給油及びトイレ休憩は2回。所要時間7時間15分。山崎純男はやっぱりタフです。感心しました。さて遠征最終日結果です。今日のプログラムは午前中で終了。3回やって2勝1敗。昨日の午後からパフォーマンスダウン。今日もその尾を引いていました。でも収穫がありました。それは、新人の宮本美咲が夏にはスタメン定着かな?と希望を持たせてくれたこと。その逆もあります。希望の逆だから失望かというと、そんなに悲観的なことではありませんが、○○と△△の2人に「将来自分のこどもに誇りをもって自分のことを語れる平成25年度にしてみなよ」と言いたい5日間でもありました。。 
13年04月04日(木) 徳島遠征4日目。2勝3敗。疲れ?甘ったれるんじゃないよ! 
13年04月03日(水) 徳島遠征3日目。4回やって3勝1敗。昨日の1敗は広島皆実。今日の1敗も広島皆実。昨日は13点差。今日は2点差。悔しいけど、昨日の学習の成果が出たということでヨシとしてやろう。愚痴をこぼしても仕方がない。 
13年04月02日(火) 徳島遠征2日目。今日はスクリメージを5回やって4勝1敗。しかしその1敗がチームの実態を暴露した負けゲームだったので後味が悪い。1人の優柔不断が負の連鎖として広がるのだ。ここまで来てまだそこから抜け出せないのかおまえら!
13年04月01日(月) 徳島遠征初日。朝7:35に出発して15:15に着きました。私のマイクロバスはマニュアル仕様なので松葉杖では運転できません。だからオートマ仕様のバレー部のマイクロバスを借りました。行きは田口先生と交替で運転できますが、帰りは職員会議のために田口先生が1日早く帰るので私が1人で7時間40分運転することになります。ワアー。