2012年度版 2012年4月〜2013年3月
13年03月31日(日) 2012年度版終了。ホームページもメールアドレスもこれまで同様、当分の間そのまま継続となりました。明日からは、2013年度版をご覧下さい。これが私の鶴鳴学園からの最後の給与明細封筒です。
今日は平成9年卒のマネージャーだったスーさんと、工藤姉妹家族が茨城からやってきました。私の今後がどうなるかについては、明日からの徳島遠征終了後にこの覧で発表します。 
13年03月30日(土) 千客万来。山崎純男鶴鳴最後の日をひと目見ようと訪問客(よいうより慰問?)が多い。今日は平成21年3月卒業の選手たちが午前中に来て、午後大野慎子家族(平成9年3月卒)が東京から来た。明日は工藤姉妹(姉平成7年卒妹平成9年卒)家族が茨城からやってくる。今生の別れと思っているのか?俺はまだ死なないぞ。 
13年03月29日(金) 釣屋・木原・山下・山中・川口・森はオフ。今日は終日新入生にバスケットを教える日とした。こういう日を設けると、教えられる新入生だけでなく、教える側の上級生の質もわかる。取り上げる場面、説明に使う言葉でその子の本質が暴露されるのだ。、
13年03月28日(木) 宇部合宿最終日。2勝2敗だった。負け試合の一つは、2点勝っていて残り17秒で、とんでもない距離からのスリーポイントを決められて1点差で負けた。1勝2敗で迎えた最終試合、私はタイムアウトを取ってこう言った。「この試合、釣屋・木原・山下・山中・川口の5人は絶対に替えない。だから、いつも自分につきまとっているミスをやらかしても”私ここらで交替させられるかな?”とは思うな。”新3年生5人でクレインズの屋台骨を支えてやる”と思って戦ってこい」。試合は心身両面に渡って完璧と言っていいほどの出来だった。 
13年03月27日(水) 宇部合宿2日目。20分のセッティングゲームを5本やった。3勝2敗だった。昨日は午後のみで4本やり、3勝1敗だった。勝ち越してはいるが試合内容は不安定である。このチ−ムに関わるのもつわずかなので、なんとか平成25年度に向けて財産を少しでも多く残してやりたいと思っているが、先が見えない。コーチ歴50年にもなるのに人創りチーム創りの難しさに頭を抱える日々が続く。 
13年03月26日(火) 宇部合宿初日。研修医を引率してシカゴに行ってたDr宮本が昨日帰ってきたそうで、ムスメの美咲におみやげを持たせてくれました。ブルズのビニールバッグに入ったTシャツですが、Tシャツがおみやげなのではなく、胸に書かれた文言がおみやげだそうです。basketball never stopsのbasketballをyamasakiに置き換えて「山崎先生がこれを着て、山崎バスケは止まらない、もしくは終わらないなんて解釈したら格好いいと思っています」ですって。ありがとう。 
13年03月25日(月) 今年は近年になく新入生の春休み参加が多い。昨年は5名だったが今年は10名だ。昨年の部員総数は20名だったが今年は新入生が10名も入ってくれたので24名になる。ビッグダディじゃないけれど、家族は多い方がにぎやかでいい。さっそく傷害保険を掛けた。春休み期間にケガをすると中学は卒業し、高校にはまだ入学していないので日本スポーツ振興センターの災害共済給付金は下りない。だから見学に来るだけならいいが練習に参加するのなら保険を掛けておかなければならないのだ。
13年03月24日(日) 今日はつばさ保育園の卒園式だった。招待されたけど行けなかった。そしたら、卒園式が終わったあとアオちゃんと結子が鶴鳴まで来てくれた。アオちゃんと結子はどちらも運動能力が高くリーダーシップも備えていて互いにライバル意識がものすごく強い。運動会ではどちらが勝っても、負けた方は1日中口をきかない。しょっちゅう衝突してケンカしているくせに2人は大の仲良しなのだ。2人とも4月からは高城台小学校に入学する。たぶん、2人とも高城台小学校だけでなく、長崎を背負うリーダーになっていくと私は思う。「お世話になりました」と言って結子が私に花束をくれた。久住登山、マテ貝堀り、イルカウオッチング、サトウキビ絞りなどなど、私のマイクロバスでたくさんたくさんあちこちに連れて行ったが、これからの園行事ではこの子たちはもう私のバスに乗ってはこない。それを思うとちょっぴり寂しくなった。 
13年03月23日(土) 今日は膝の診察日。膝関節内の血腫も小さくなっていたので血を抜くのは今日も見送り。浮腫も皮下出血も面積が狭まっている。時間の経過とともに元に戻っていくのだろう。 
13年03月22日(金) 午前中は短大で今年度最後のFD(Faculty Development)研修会。そのあと中庭で幼児教育学科の仲間と記念撮影。午後からバスケットの練習で夕方は短大退職職員の送別会。やっぱり誘い出されて二次会にも顔を出した。やっぱりカラオケで2曲歌わされた。青春時代とサライだった。帰宅したのは11時30分PM。さあ、これで残された期間はわずかしかないが心おきなくバスケットに専念できる。 
13年03月21日(木) 今日研究室から完全撤退した。研究に関するものは全て処分した。OKホームセンターから材料を買ってきて作った足型測定器(ピドスコープ)に別れを告げるのは少し切なかったが叩き壊した。その他の器財も、研究結果のペーパーも、研究のために取り寄せた資料も全部捨てた。退官後研究者として生きるつもりはまったくないので、自分の身辺からバスケットボール以外は排除したいのだ。本は残した。しかし、バスケットボールの専門書や医学の専門書に比べて、マンガ本は3倍くらいの量になった。それでもマンガ本の3分の1は捨てたのだ。夕方、田口コーチ運転のマイクロバスにそれらを乗せて自宅に運んだ。バスケット部の寮生に手伝ってもらって玄関前の6畳の間に運び込んだ。2階の自室に移して整理するのは膝が治るまで出来ないだろうから、夏休みまではこのままだ。フーッ。 
13年03月20日(祭) 今日は戸町中学校が習いに来た。2度目なので少し慣れたのか初回のような緊張感はなかった。しかし、実はこの「慣れ」が怖いのだ。「何回言われても出来ていない自分を気にしろ!できていないことが気にならないヤツは何回来てもうまくはならん!」と怒鳴りつけた。 
13年03月19日(火) 今日は短大幼児教育学科で私の送別会をやってくれた。夕方6時からだった。若い頃は飲み会が嫌いで出たことはなかったが、年を重ねると「私は嫌いだから」だけで行動はできない。郷にいれば郷に従えで、他人の都合や他人の立場も考えて行動しなければならなくなる。今日は二次会にも顔を出した。実はカラオケは飲み会よりも嫌いだけど指名を受けて2曲も歌った。1曲目は森田公一とトップギャランの青春時代で2曲目は河島英伍の時代遅れだった。念のために言っておくが、2曲とも自主的に歌ったのではなく、指名を受けたので額に汗しながら歌った。備考:足によくないのでお酒は一滴も飲んでいない。 
13年03月18日(月) 午後2時から3時半まで、県競技力向上委員会成年種別強化部会(部会長=山崎)だった。この会は12日に開く予定だったが私の膝の手術が11日実施となったために流れて今日になった。委員の方々には大変迷惑をかけた。いよいよあと1年ちょっとに迫った長崎国体に向けてアイデアを出し合う会議だが、正直言って考えられる案はほとんど出し尽くしているのでこの会を仕切るのは気が重い。学校に戻って市立松戸高校の新入生の面倒をちょっとだけ見て、そのあと明日の新入生オリエンテーションの会場作成をして今日の1日が終わった。膝にはたぶんまだ40cc以上の血が溜まっていて、膝の裏から足首までの皮下出血の痕は自分でも正視したくない状態だがそれをいたわっている余裕はない。短大の研究室からの退去作業(選手に手伝って貰っている)がけっこう大仕事なのに加えて、送別会や研修会、年度末のバスケット強化事業と、息つく暇がない日々が続く。
13年03月17日(日) 昨日まで左足にはまったく体重をかけずに生活していたが、Dr米倉から「膝を曲げて体重をかけるのはダメですが、膝を伸ばした状態で軽く体重をかけるのはいいですよ」と言われたので昨日の夕方から左足の裏を着けて動いている。実は短大も高校も階段と坂道だらけなので、左足裏をまったく着けずに動きまわるのはもう限界だった。手のひらには松葉杖マメができるし、右腕の裏側の筋肉(上腕三頭筋)と右胸の筋肉(大胸筋)の筋肉痛でこのところ階段の上り下りの途中踏み外しそうになったことが何回もある。こんな大手術を3泊4日で退院できたなんて信じられない。そんな中、福岡女子商業の通山先生がチームを連れて来たし、市立松戸高校の岩本先生が選手を一人連れてきた。なのに私は、何かアドバイスしてやるにも椅子に座ったまま、ことばだけでしか対応してやれない。もどかしい。 
13年03月16日(土) 退院する日の午前中からすでに左足はむくんでいたが、昨夜服を脱いだ時に膝の裏から足首までの至る所に皮下出血があるのに気付いた。関節内では治まらず関節外に滲み出てきたのだ。退院後は極力身体を動かさず、体育館でも椅子を二つ持ち出して一方に座り一方に左足を乗せて練習を診ている。それでもこうなる。午後、楢林医院にDr米倉が出張診察に来てくれた。血は溜まっているが、パンパンではないので血だまりの圧でドリリング穴からの出血を押さえる意味で、来週土曜日まで血を抜くのを延ばした。時間の経過とともに出血量は少なくなっていくだろうが、「もう止まりましたよ」と言えるまでにはまだしばらく時間がかかりそうだ。ところで、14日に説明した模式図で、医学的に詳しくない人でもよくわかっていただけたと思っていたがそうでもなかった。医学のことを素人に説明するのは難しい。ここに示すのは14日のような模式図ではなく実際の私の膝である。@ABCとなる。 
13年03月15日(金) 昨日退院後、高校と短大でバタバタと仕事をした。短大の研究室に入ってみると落書きオンパレード。ゼミの学生たちの仕業だ。おまけにジグゾーパズルまで用意してある。忙しくて解く暇なんかない。今朝入学式が始まる前の時間になんとか解いたが、ゼミ学生全員の写真ができあがった。ところで、ゼミのキャプテンの入江は私が大学病院に入院している間に同病院の歯学部に親知らず抜きに来た。卒業式が終わったらもうひとつの親知らずを抜くと言っていた。イッタソー。 
13年03月14日(木) 昨夜9時過ぎ、Dr米倉が和人会病院勤務からわざわざ大学病院に戻ってきて説明してくれた。分かりやすく図示する。@が正常な膝でグレイの部分が軟骨である(この模式図は、直立の膝を曲げて、正面からサラとふとももの骨の隙間を撮影した画像である)。私のはAの状態なのだ(ピンクの線の内側の軟骨が全てなくなって骨が露出している)。治療はBのように骨にドリルで穴を開ける。そうするとCのように血液(骨髄液)がしみ出してくる。すると、時間の経過とともに骨随幹細胞が繊維性軟骨に変わってきてDの状態になり、最終的にEの状態になるという仕組みだ。Eの状態になるのに約4ヶ月かかるらしい。それまでは歩行以上の動きをしてはならず、階段の昇降すらそろそろしなければならないそうだ。走るなんてとんでもない。Dr米倉は自分のキャリアの中で、これほど穴を開けた治療をしたのは私が初めての患者だと言っておられた。少年期ならまだしも、私は70歳という高齢なので軟骨が再生するは難しいと思うが、リハビリを頑張る。私は「成功したら学会で論文発表してください」といった。今日午後2時に退院する。膝にはパンパンに血が溜まっているが、今週土曜日の午後Dr米倉が鶴鳴の近くの楢林整形外科医院に出張して血を抜いてくれることになった。その後は楢林医院の院長にケアしてもらう。Dr米倉にも学校やチーム関係者にもずいぶんわがままを言って迷惑をかけたが、私の気持ちはもうコートに飛んでいる。今は一刻も早くチームの状態をこの目で見たい。 
13年03月13日(水) 昨日夕方の主治医回診の時の出血は、傷口のガーゼを直径5pほど染めていただけだった。しかし、膝はパンパンに腫れている。骨に開けた40箇所の穴から関節内にどんどん出血しているのだ。腫れると内圧で膝が痛くなる。だから血を抜いてもらった。注射器2本。45ccだった。今朝もパンパンに腫れている。しかし、血が溜まったら抜けばいいというものでもない。血が溜まった内圧で穴から吹き出してくる血を押さえるという意味もあるので、血を抜けばまた穴から出血しやすくなるのだ。難しい。午後の回診では出血していなかったので包帯は外した。外側の傷の1と2が関節鏡と器具の挿入口。こんなに小さいが関節の中は大工事だ。3のふくらみが関節内血腫で、この腫れだとまた50cc近く溜まっているだろうが今日は抜かない。これまで4回やってもらった手術はでこぼこの軟骨を削って滑らかにするだけだったので出血もなく、さっさと退院してさっさと復帰したが今回のは骨に40箇所穴を開けているのでそう簡単にはいかない。そんな手術だとは知らなかったので、これまで4回の手術の経緯から私は14日に退院したいと申し出て、医師もそれをしぶしぶ了解してくれていたのだが、本当は14日退院は無理のようだ。私が14日に退院の申し出をしたのは、15日短大卒業式、16日招待強化試合、17日千葉から研修来客、18日県の競技力向上委員会、19日は短大幼児教育科の送別会、21日歯医者、22日短大職員研修、24日つばさ保育園卒園式、26日からずっと遠征と、やらなければならないことが目白押しだからだ。今日と明日で、どうするのが最善か考えなければならない。
13年03月12日(火)  昨日15:45生還。おサラの向かい側の大腿骨の軟骨がすり減っていたのがさらに広がり、差し渡し5pほどのクレーターになっていたので、そこに40箇所ドリルで穴を開け、骨髄液を滲み出させる手術をしたのと、血液サラサラのクスリを使っているので傷口からの出血が止まらない。朝、膝の包帯も布団もシーツも血だらけだった。だから今日は松葉杖歩行もトイレのみでそれ以外はベッドの上だ。ハーア。 
13年03月10日(日) 昨夜はほとんど眠れなかった。レンドルミンを1個半飲んだがそれでもだめだった。朝、点滴の針の差し込み口から血が滲んでいた。ヘパリンは血液をサラサラにするクスリだから動かしすぎると穿刺口から出血しやすくなるのだそうだ。布団やシーツにも血が付いていた。今夜9時から絶飲食で明日午後2時から手術の予定だ。全身麻酔は初めてだ。麻酔薬は点滴針から注入するというのを初めて知った。麻酔が効き始めると自呼吸も止まるのでその間挿管して人工呼吸器で呼吸を管理するのだそうだ。知らなかった。過去4回の楢林医院での手術はすべて腰椎麻酔で、さっさと手術を済ませ、さっさと退院したが、大学病院ではそう簡単にはいかないようだ。
13年03月09日(土) 午前3時に目が醒めた。昨日は5時だった。9時に寝るなんて日常生活ではあり得ないことなので早く目が醒めるのは仕方がない。そーんなに早く起きて昼間何をしているかというと、マンガを読んだりパソコンで仕事をしたりしている。病室では、マナーモードにしておけば携帯メールはできるし、モバイル端末につないだパソコンでインターネットも仕事も出来る。病室に持ち込んだパソコンで仕事をしたのは、短大研究室のデスクトップパソコンと高校体育教官室のノートパソコンにも取り込まなければならないが、今ここで仕事をした分のファイルは22個USBメモリースティックに入っている。退院したらそれを両パソコンにコピーすればよい。便利な世の中になった
13年03月08日(金) 起床6時、消灯9時。朝昼夜の検温と血圧測定時以外は必ずベッドに居なければならないということはないのだが、点滴の機器を引きずって動くのがめんどくさいからほとんど病室から動かない。だから、毎日10時半から11時半までの術前リハビリが唯一のストレス解消時間だ。リハビリのメニューは、ストレッチ・腹筋・背筋・大臀筋の強化それにバイクである。入院2日目は、自分の足を見て「ふとももが細くなったかな」と思ったが、3日目からメニューに入ったバイクをバリバリ漕ぐので太さが元に戻ったようだ。つないだ
13年03月07日(木) 入院4日目。一番大変なのが食事だ。いつも、まともに食事をするのは1日1回なのにここでは朝(8時)昼(12時)晩(6時)ときっちり3食出る。1日1800kcalだ。食べたくないのならば残せばいいのだが私にはそれができない。食材を作った人、料理をした人に申し訳ないからだ。だから、ごはんだけは残すことがあるが他は全部食べる。そのごはんも明日からは抜いて貰うことにした。このままだと入院中に太る。
13年03月06日(水) 昨夜の言動でちょっと反省している。昨日入院して初めてシャワーを浴びたが、シャワーを浴びる時には点滴の電源コードを外して点滴針はそのまま残し、点滴針周辺に防水テープを貼らなければならない。けっこうやっかいだ。シャワーが終わって看護士さんにテープを剥がしてもらい、ベッドに戻ったが針の差し込み口あたりが少し赤くなっている。夜の当番の看護士さんに「ちょっと赤くなっていると思いません?」と聞いたら「痛いですか?」と聞き返されたので「こっちはまだ少し痛いけどこっちは痛くありません」と答えた。看護士さんは交替制なのでその日その日で担当が替わる。今朝、入院時に点滴をしてくれた看護士さんが病室に来た。今日は彼女は私の当番ではない。彼女と私の会話。「山崎さん痛いですか?」「え?何が?」「点滴失敗の痕」「あ、いやいやたいしたことない大丈夫だよ」。私は昨夜の看護士さんの「痛いですか?」に対して痛さを比較するならというつもりで説明したのであって、初回の点滴失敗をとがめたつもりはまったくなかったが、看護士の引き継ぎ事項に記載されていたか昨夜の看護士さんから伝えられたのだろう。結果的に私の言葉は初回の看護士さんの点滴失敗を蒸し返すことになってしまった。申し訳ない。 
13年03月05日(火) ヘパリン点滴は、1時間とか2時間で終わりというのではなく、24時間つなぎっ放しだ。だからトイレに行くにも点滴の機器をガラガラ引っ張って行かなければならない。手首には氏名とバーコード付きのリストバンドを付けられた。リストバンドを指さして「これ、脱走防止用?患者が病院から抜け出したらビーッとどこかでブザーが鳴るの?」と聞いた。看護士さんはゲラゲラ笑いながら「万引き防止じゃあるまいし、そんなことありませんよ」 と言った。看護士が病室巡回時に、患者のリストバンドにバーコード読み取り機を当ててパソコンからカルテを呼び出し、日々の記録を書き込むのだ。病棟は明るく、薄暗くて薬臭い昔の大学病院とはだいぶ違う。
13年03月04日(月) 今日は短大の学内研究成果発表会。幼児教育学科からは私が指名されて発表した。持ち時間は15分。本当は12時30分が終了時間だが、私は午後1時に大学病院に入院することになっているので自分の発表が終わったら退席させてもらった。入院のことについて述べておきたい。私は11日の午後から左膝の3回目の手術を受ける。鏡視下で行う簡単な手術だ。前回は1泊2日で退院した。今回手術1週間前から入院するのは、血栓ができないようにするためにプラザキサというクスリを服用しているが、手術前1週間はそのクスリの服用を止め、替わりにヘパリンというクスリを点滴で入れなければならないからだ。入院期間が10日になったからといって重傷なのでも大手術なのでもない。だから見舞いは固くお断りする。 
13年03月03日(日) 明日が学年末テストの最終日なので選手は今日オフ。しかし私はオフではない。9時から11時まで東長崎中学と大村の郡中学のクリニック、11時半から2時半まで岩屋中のクリニックだった。東長崎中学と郡中学は鶴鳴でのクリニックだったが岩屋中はこっちが出かけていった。東長崎中学はマイクロバスで矢上まで迎えに行った。これは親切心でやったのではない。私は小学校や中学校の部活動が遠征や試合の度毎に当番制で保護者にクルマ出しをさせるのが嫌いなのだ。備考:今回東長崎中学はJRで来ると言っていた。
13年03月02日(土) 卒業式当日の3月1日到着指定で、ずっと前の卒業生の保護者から花束と手紙が届いていた。昨日夕方届いたのだろう、昨日の午後職員室を覗いた時には私の机上にはなかったから。冒頭の文面はこうだった「先生は息絶えるまでずっと鶴鳴学園に居て、最後は学園葬が行われるものだと信じていました」。最後に、白いバラの花言葉は「尊敬する心」です。「正座して書きました」と書いてあった。ウワ〜ッ!そこまで思って貰えるほどお世話をした覚えはないんだけど…。ありがとう。 
13年03月01日(金) 昨夜遅く、高城台ミニバスの世話人である板倉氏が私の家に来た。「こんばんわ。ハイこれ。こどもたちからです。明日が卒業式なので、夜遅いとは思ったけど持ってきました」。封筒にちゃんと○○様と書いて、中に高城台ミニバスのこどもたちが寄せ書きをした色紙が入っている。6人分だ。昨年から鶴鳴の 部活動卒業式は廃止したので、現役から卒業生へ、卒業生から現役へ、記念品をやりとりすることはなくなったが、このようなこどもたち手作りの贈り物は心が和む。いいもんだ。
13年02月28日(木) 今日は卒業式の予行練習だ。会場作りは毎年部活動の選手がやってくれる。このような作業をさせるとその部活動が強いか弱いかよくわかる。強い部活動の部員は、完成図をアタマに描き、仕事の内容と手順をしっかり把握し、ちゃんとした指揮官が居て、てきぱきと仕事をさばいていくのである。 
13年02月27日(水) 長崎南高校(高体連本部)に九州春季大会の補助金基礎資料を持っていった。郵送でよいということだっだが近いので走って持っていった。ついでに少し足をのばして田上交差点まで走ってから戻ってきたがグランドと違ってアスファルトは足に応える。特に帰り道の南高校から鶴鳴までの下り坂は左膝に応えた。Dr米倉とDr宮本には、走ったことがバレたら叱られるから内緒にしておこう。
13年02月26日(火) このところ、駆け込みクリニック申込みや駆け込み練習試合申込みが多い。私の動静を聞いたからだろう。バスケット以外でも問い合わせが頻繁にある。「4月からどこに居るんですか?旅に出るんですか?旅に出るなら高千穂に私の知り合いが居ますが…」とか。とりあえず、どんな問いに対しても今はノーコメントで通してる。 
13年02月24日(日) Torsten Loibl氏のクリニックはなかなか面白かった。内容が面白かったという意味ではなく、コーチは@伝えたいことをキチンと項目別に整理し、A項目の内容のねらいが明確に示されるドリルを考案し、Bそれを見事にやってみせる力を身につける研鑽を重ねるのがとても大切だということを再認識させてくれたという意味で面白かったのである。面白かったのはそれだけではない。Loibl氏と話している中で、埼玉の佐藤光壱先生だけでなく、会津の室井富仁先生まで共通の知り合いだということがわかって、ふたりで「エーッ!そうなの?」と盛り上がったのが面白かった。
13年02月23日(土) 今日と明日はオフ。熊本で九州エンデバーがあるので釣屋を連れて東海大附属熊本星翔高校に行った。本当は明日、Torsten Loibl氏が講師を務めるコーチ研修に参加する予定だったが、エンデバーの講師が榎本氏だと聞いて、それも見ようと思って1日早く熊本入りした。71歳の榎本氏は相変わらずエネルギッシュだった。
13年02月22日(金) 3月11日の手術のための術前検査で大学病院に行った。8時半に受け付けをして、血液検査→心電図→呼吸器の検査→麻酔科での説明→手術担当医の診察と説明→入院要領の事務的説明と、すべて終わって大学病院の玄関を出たのが1時50分だった。「そんなことわかってるって!」と言いたいようなことを各部署で各担当がていねいに説明してくれる。特に麻酔科ではビデオを見せたりして微に入り細にわたって説明してくれた。こっちとしては「もう70年も生きてきたのだから麻酔中に突然死したって文句言わないよ」と思っているけれども、何かあればすぐ訴訟を起こされる昨今。慎重の上にも慎重になるのだろう。教育現場も大変だが、医療に携わる方達はもっと大変だ。おつかれさまです。追伸:本日の診療費は10940円だった。 
13年02月21日(木) 短大は後期授業が終わり、テストも終わり、評価もカルテも提出してしまって何もすることがない。高校は間もなく学年末のテストがあるので朝練は休止だし、午後練も1時間しかしない。すると高校の練習に顔を出す以外やることがないので私は午後4時頃高校に行けばいい。家内が「何時に家を出ますか?」と聞いたので「練習が始まる前に高校に着けばいいから3時過ぎかな?」と答えた。だが、じっとしているのが辛かったのでパソコンでちょっと作業をしようと思い、12時頃に家を出る準備をした。すると家内が「あら、もう出かけるんですか?」と言うから「じっとしているのはきつい」と言ったら「でも、4月からはそうなるんでしょ?慣れなければ…」と言ったので「そうなれば1日3回ぐらい走る!」と言って家を出た。 
13年02月20日(水) 「18日はメールや電話が殺到するだろうと思って時間を置きました」と言って、昨日から今日にかけてまたメールや電話が殺到している。ずいぶん世間を騒がせているようだ。突然のリタイヤと言われるが、この時期に突然リタイヤされても後継の教員を補充するのに短大が困るのでそんなことできるわけがない。私のリタイヤは昨年の7月4日に決まっていた。それを、九州春季大会の報告文書の中で公表しただけだ。ともあれ私は、私が撒いた種で世間を騒がせているが、鶴鳴を6月の高校総体でインターハイの切符を取れるようなチームに仕立て上げることに今全力集中している。それ以外のことは今はなにも考えていない。 
13年02月19日(火) 連絡です。私のHPは3月末閉鎖されてしまうのかと心配している方が居られると思いますが、4月以降もこのまま存続します。ただし、掲載内容の一部は削除されるか、残っていても2013年度以降は更新されない内容があるかもしれません。また、私のメール通信ですが、これまで学園LANを利用していたメールアドレスは3月31日付けで消去します。私はメールアドレスをふたつ持っていまして、これまで主に使っていたのが学園LANを利用していたアドレスで、もうひとつがモバイル端末をつないで国内国外どこでもインターネットができる小さなパソコン用のアドレスです。これまで、学内LAN用のアドレスに送られてきたメールも、モバイル端末用に送られてきたメールも、両方のパソコンで見ることができましたが、3月31日以降はモバイル端末用パソコンだけの通信になります。モバイル端末用のアドレスは、アカウントは学内LAN用のパソコンアドレスと同じですが、ドメインがmopera.netに変わります。よろしくお願いします。
13年02月18日(月) 昨夜から今日にかけてメールの嵐だ。私のリタイヤはバスケットに飽きたからではなく、老いたからでもない。自分としてのケジメだ。バスケットから離れてゆったりとした人生を送るつもりは毛頭ないので、これからも身体だけは鍛え続けていこうと思う。今朝の朝練も午後練も、山中と木原に檄をとばした。
13年02月17日(日) 気が付けば50年。半世紀にわたるコーチ人生でした。お世話になりました。 
13年02月15日(金) 今日は九州春季選手権の開会式・代表者会議・現地練習だけ。試合は明日から。山中のディフェンスに手をかける時間がもっともっと欲しいと思いながらこの日が来てしまった。が、悔やんではいない。今大会までに間に合わなかったが、大会後も「これさえできれば…」という楽しみをもって山中に接することができるからだ。たぶん、それもそう遠くない時期に「できた!」という日が来ると思う。
13年02月13日(水) 今日の2限目、田口コーチ研究授業をした。よいコーチを目指すならばよい授業ができなければならない。これは必須条件だ。校長及び体育科の教員はもちろん、他の先生方も彼の授業を見に来ていた。私も指導案を見ながら彼の授業をチェックした。チェックシートにメモしたりすると授業をしている田口先生が気にするから表情も変えずメモもせず、アタマの中だけでチェックしていった。田口先生は間もなく本校に勤めて1年が経つ。新年度からは「見習い中ですから」は許されない。何をやるにもプロと見なされる。覚悟はできてるか?
13年02月12日(火) アイタタタタ。全身が筋肉痛だ。でも戸高が今日まで長崎に残るので戸高の手直しと鶴鳴の選手の技術の見直しは今日もやらなければならない。戸高は夜9時長崎空港発の飛行機で帰ることになっている。戸高の学校は今日休みらしく、最初から今日の練習まで参加して横浜に帰ろうと思って遅い飛行機を取っていたのだ。そんな戸高に対して、筋肉痛だからといって私がギブアップするわけにはいかない 。
13年02月11日(月) 今日は12時半から2時半まで、3年生に高城台ミニバスの指導をしてもらった。その時間帯にしたのは私が鶴鳴の練習の昼休みを利用して高城台小学校に顔を出してやれるからである。今日参加したこどもは14名。久しぶりに会う男の子たちは、こども顔からおとな顔になっていた。平成20年度にクラブを立ち上げた時は74名のこどもが集まった。それをバスケットコート1面で飽きさせないようにやらなければならない。大変だった。こどもを参加させたい保護者から入会条件等を聞かれたが私が出した条件は「二足歩行が出来るようになったこどもならば誰でも可」だった。その後、私も忙しくなって平日の夕方2回の定期練習に顔を出せなくなり、土・日に体育館が確保できた時のみの指導しかできなくなったので参加者が減ってきた。今日は今年度最後の練習だったが、来年度からは人数が集まらずに休部状態になるかもしれない。寂しい。
13年02月10日(日) 朝6時13分。起きたくない。でも起きなければならない。起きようとすると背中に霜柱が立ったみたいでバリバリに痛い。筋肉痛だ。やっとの思いで起きあがったが尻の筋肉も痛い。加えて腰痛は2日前よりひどい。歳を考えずにプレイをやって見せたりするからだとはわかっているが、ことばだけでは選手に魂が届かないのだ。フーッ
13年02月09日(土) 中央大学附属横浜山手中学から今春入学する戸高がこの3連休を利用してバスケットを習いに来た。今日は、長崎県の高校1年生と中学3年生の長崎国体強化選手の練習会で古賀智子が居ないのと、校内模試で終日釣屋と川口が居ないのでスクリメージができない。だから、戸高に個人技を教えてやりながら鶴鳴の選手たちももう一度技術の見直しをする日にした。鶴鳴の選手たちは午後の練習終了後帰したが、戸高夜も手直しをした。折角横浜から高い飛行機代を使って来たのだから目一杯面倒見てあげなければもったいない。 
13年02月08日(金) 毎日疲労困憊でその日が終わる。朝起きるのも辛い。近頃グラウンドランはしないけれど、ディフェンスの強化をしているので、前に述べたように自分の身体を動かして説明することが多くなるから疲れるのだ。膝はもちろん痛いがそれに加えて昨日から腰痛が始まった。全体としては私が描いているイメージに近づきつつあるが、選手個々の理解力や意志が、私の描くイメージまでにはまだ遠い。さらに、個々の選手に染みついている悪いクセがなっかなか改善されないのがとても辛い。だが、クレインズが来年の長崎国体の牽引車になれるかどうかはこの春のチーム作りにかかっているので、足が壊れようが腰が壊れようがやり遂げなければならない。 
13年02月07日(木) 今日は短大の幼児教育学科卒業研究発表会だった。研究でもっとも大変なのがデータ集めだ。私の研究は、「幼児の足趾形態の発育発達の経年変化について」である。データはこどもたちの生身の測定データで、しかも経年変化を調べるから0歳から7歳になるまで継続して同じこどもの足型を計らなければならない。それには幼稚園保育園の園長先生や小学校の校長先生の承諾を得なければならないが、それが得られたとしても保護者の承諾書を貰わなければ先に進まない。生身のデータというのは、取られる側は「何に使うの?」「私のこどもは実験材料にされるの?」という不安に駆られる。それを安心させなければデータは貰えない。そこでモノを言うのが人脈だ。人脈と言っても偉い人との繋がりがあるというような人脈ではなく、信頼関係の上に立った人間関係による人脈だ。私がデータ集めのお願いに行く小学校の校長先生は、私が公立学校の教員だった頃からの知り合いが多い。その校長先生が「山崎先生の依頼ならば」と言って「長崎女子短大の山崎先生から協力依頼があったのですが…」と保護者に説明する。すると「山崎先生って…あのバスケットの?」と保護者が言う。校長先生は「そうです」と答える。すると、「あ、それなら」と言って協力して貰える。そんなケースが多いのだ。私は、研究者というのは研究室に閉じこもって文献を読みあさり、難しい数式を解けば良い論文が書けるのではなくて、靴をすり減らして契約を取り付けに廻る企業の営業マンと同じように足で信頼を築き挙げる努力をしたり、常々社会貢献活動にも努力をしていなければ書けないモノだということを短大に移籍してから初めて知った。70歳になってからわかっても、もう遅いけれど…。
13年02月06日(水) 建国記念日を含んだ3連休は、九州大会に向けての自チームの強化もしなければならないが、中学生が習いに来たり、ミニバスの指導に行ったり、他校から合宿の申し込みがあったり、卒業生が相談事で来校したりと忙しい(予定だった)。ところが、合宿申し込みがあった高校から急にキャンセルが入った。インフルエンザと嘔吐下痢だそうな。うちはインフルも嘔吐下痢も済ませているからもう患者は出ないだろう。あとは九州大会に向けて全力で邁進するだけだ。
追伸:九州大会前の忙しい時に中学生とかミニバスの指導を入れて大丈夫ですか?という問いに答えよう。与えるということは返ってくるということだ。暇だから見てやろうなんて上から目線では何も与えられないし何も返ってこない。忙しいからこそ無駄を省いて双方一生懸命になれるのである。
13年02月04日(月) 昨夜夢を見た。バスケットの試合の夢だ。会場も雰囲気も県内の大会ではなさそうだった。どこかのチームと決勝を争っていた。大事な場面でタイムアウトを取って話をしている途中、私はセンターの川口を殴った。川口はしゃがみ込んだ。痛そうにも悲しそうにもしていないが目はじっと私を見つめている。夢の中の出来事だけど私は懲戒免職だろうか?
13年02月03日(日) 私は3月11日に左膝の3回目の手術を受けることになっていますが、手術前で思い切り身体を動かせず,、イライラしていたので今日はグラウンドを走ってみました。今は特にディフェンスを主体に教えています。ディフェンスを教える時は自分で動いて見せて見本を示す場面が多くなります。その見本をスパッとやってみせられないのがもどかしく、それで今日はDr米倉にもDr宮本にも内緒で走ってみたのです。時速10qのペースで3q走るつもりでしたが、2q過ぎから膝が少し痛くなってペースダウンしました。新体操部の池本選手に撮って貰った画像を見るとふとももが細くなっているのがよくわかります。1月7日以来26日ぶりのランですからね。無理なのは承知の上です。2週間後の九州大会でよい試合ができるなら、人工関節になっても構いません。 
13年02月02日(土) 1月末から今日まで、岩手県陸前高田市にある高田病院へ復興支援のために派遣されたDr宮本から報告メールが届いた。高田病院の上野医師のプレゼンの一部を紹介する。「ズドーンと津波が病院にぶつかる。水位がどんどん高くなる。4階の窓ガラスが割れて病室内に濁流が入り込み、足を取られそうになる。助けるのはもう無理だと思い、部屋に残した患者に謝りながら屋上に駆け上がった」。このあと、7ヶ月間に渡る復興レポートが続くが、読み終えるまでずっと涙が止まらなかった。人が人を思う。人類が為す行為でこれ以上すばらしい行為はない。
13年02月01日(金) 山中がインフルエンザと忌引きを合わせて1週間休んだ。山中は昨日から出てきたが、替わりに今日川口が発熱で早退した。病院で診察してもらったがインフルエンザではなかったらしい。県新人戦後、オールコートディフェンスができるチームに仕立てようと思い、必死で取り組んでいる。「ヨーシヨシ。少〜しカタチになってきたぞ」と思っていると,、手をかけなければならない選手がこうして入れ替わり立ち替わり欠ける。がっかりする。しかし、がっかりしても萎えてはいけないということをコーチ生活50年の間に私は学んだ。粘って教えていたら「ヨーシ!それでいい!OK!」と木原を誉めている自分がいた。木原を誉めたのはいつ以来だろう?
13年01月31日(木) 文化や教育、平和、福祉などの分野で、本県の発展に貢献した人を顕彰する「長崎新聞文化章」の贈呈式が28日、長崎新聞社で行われた。受章者は、ロンドン五輪金メダリストの内村航平さん、県考古学会長の下川達彌さん、日本舞踊家の藤間富公衛さん=いずれも文化・教育部門と、日赤長崎原爆病院長の朝長万左男先生=平和・福祉部門の4人である。朝長先生は県バスケットボール協会の会長でもある。そこで、県バスケットボール協会は朝長先生の受章祝う会を本日夕方ホテルニューナガサキで行った。身内から表彰者が出るのは誇らしく心地よい。朝長先生は、2月にスーダンのハルツーム(カルツーム)大学で講演し、3月にはノルウェーにも講演に行かれる。一方、原爆病院の増築という大きな仕事も抱えており多忙だ。お身体ご自愛ください。…って、俺が言える立場ではないか。 
13年01月30日(水) 昨日のブログを見て、徳之島の川添裕司先生からコメントが来た。写真が3枚添付されていた。海岸風景夜の景色だ。こんなところに住んでますよというだけの意味なのか、ほかに言いたいことがあるのかよくわからない。ともあれ、ありがとう。 
13年01月29日(火) バスが故障した。平成17年6月に新車で購入して7年6ヶ月になる。これまでに修理した箇所は、2年ほど前にクラッチ板を取り替え、翌年昇降口のドアレバーの摩耗による不具合を修理した。今回はインジェクター(燃料噴射装置)の取り替えだ。これまでは中古のバスを購入して潰れるまで乗り継いできたが、新車で購入したのに中古の乗り継ぎの方が故障は少なかったような気がする。機械は当たり外れがあるから、私のバスは外れだったのかもしれない。
故障と言えば、私の膝の手術は、Dr米倉が無理してスケジュールを調整してくれて、可能性があるのが3月11日(月)だけしかない。それがアウトだともう4月以降だ。膝の手術はこれで5回目になる。右が2回、左が3回目だ。この際自分の故障履歴を思い出してみた。大きなものだけを挙げると、まず37歳の時にナットクラッカー症候群(腎静脈の狭窄)を患った。この時は4ヶ月と2日の絶対安静入院だった。52歳の時食道潰瘍を患った。治ったら再発し、都合3年間かかったがこれは服薬通院で済んだ。57歳の時マイクロバスのラジエーターを点検していて足を滑らせ、吹き出した蒸気で尻から下全部に大やけどを負い、生死の境を彷徨った。うつ伏せのままの入院でとても辛かった。60歳の時、深夜に突然の腹痛に見舞われ緊急入院した。大腸憩室炎だった。夜通し七転八倒の苦しみを味わった。66歳の時右肩腱板断裂の修復手術を受けようとしたが、麻酔科の医師から待ったがかかり、手術しないまま退院した。だから私の右肩の腱板は4p×5pの幅で断裂したままで、それに伴って棘上筋と棘下筋は千切れていて機能していないし、左右とも上腕2頭筋腱の長頭は擦り切れかかっているか擦り切れてしまっていて使い物にならない。麻酔科の医師からストップがかかった理由は、私の心電図はブルガダ症候群の疑いがあるので再検査してOKが出ないと全身麻酔ができないというのだ。それ以来、循環器の専門医からは検査しろ検査しろと言われるけれども、40歳の時から私の心電図はST上昇という心電図異常なのにそれから30年も生きているから今更検査を受ける気にはならない。でも最近は、心房細動という名前をつけて貰って血液サラサラのクスリを毎日しぶしぶ飲んでいる。というわけで、私の身体は廃車寸前だ。 
13年01月27日(日)  今朝気がついたが、短大の卒業式が3月15日だから14日に手術するのはダメだ。うっかりしていた。Dr米倉の手術予約は順番待ちが何人もいるので、3月14日にできないとすればいつになるかわからない。ウーン…
今日は朝から戸町中学校が練習に来た。外部コーチの馬場薫里(昭和60年3月卒)から要請があったのだ。単発でしか来ないチームの指導は難しい。コーチや選手の自尊心を傷つけないようにしながら「なるほど」をおみやげに持って帰さなければならないからだ。チーム査定の練習を少しやってから、3対3の動きの優先順位の理解をメインテーマにおいて指導した。私の言うことがわかったような目つきでやる選手が終盤数人出てきたのでホッとした。
13年01月26日(土) 山中はインフルエンザ、釣屋と川口は模試で終日いないので練習はオフにした。私はMRIの結果結果による今後の方針を決めるために楢林医院に行った。結果、3月14日に大学病院で手術することになった。前回の手術から3年半が経過しているので、今回手術すれば2016年9月までは保つだろう。その後は人工関節かな? 
13年01月25日(金) 前回MRI(2009.06.30)との比較。PF(膝蓋大腿)関節内側〜正中部の関節軟骨の、不整・菲薄化・信号上昇や欠損がやや上昇している。FT(大腿脛骨)関節の内側区画主体にも関節軟骨に比較的広範囲に菲薄化〜欠損、軽度の辺縁部骨棘(きょく=とげ)の形成が見られるが、これらは前回と大差ない。内側半月板の中節〜後節に変性、水平断裂があり、後節の遊離縁に垂直断裂が疑われる。これらの損傷はやや増強している。外側半月板は不完全型の円板状半月板のようだが、変性のみのようである。MCL(内側側副靱帯)の大腿骨側に信号上昇があり、OA(変形性関節症)などに伴う変性が考えやすい。明らかな完全断裂はない。そのほかの靱帯に明らかな断裂はない。有意な関節液の増加はないが、Baker嚢胞(膝窩嚢胞=膝の裏の窪みにできた袋)が前回より増大している。明らかな関節遊離体はない。米倉先生・宮本先生、私の身体は献体します。ご自由にお使いください。
13年01月24日(木) 田中正明先生が亡くなられた。78歳だった。田中先生は、長崎北高校の校長を定年退職され、その後県立美術博物館長として務められていたが平成10年4月に長崎女子高校の校長として赴任された。以来高校の校長、高校の校長と短大の学長兼任、最後は短大の学長専任で9年間鶴鳴学園に在籍されたが平成20年3月末に退職された。田中先生にはまだまだたくさん習いたいことがあった。ご冥福を祈る。 
13年01月23日(水) 今日も生徒は入試処理のため自宅学習で、練習は午後からである。昨日風邪を引いたので昨夜は早く寝て今朝はゆっくり起きて休養を取るつもりだったが6時には目が覚めた。目が覚めてもずっと布団の中に居たが、その間ずっと今日からの練習内容のことや選手の顔が次々と浮かんできて、結局眠らないまま10時に布団から出た。風邪を引いたときは、翌朝鼻から喉に進行し、次の日気管に到達するというパターンをとるが、今朝は鼻の奥にとどまったままである。私の白血球はなかなか頑張ってくれている。私も頑張らなければ…。 
13年01月22日(火) 今日は入試処理のため生徒は自宅学習で全部活動練習は禁止。試合で疲れた選手達にはよい休養日となった。が、私は忙しかった。9時に歯医者へ行き、その後循環器科に行き、学校に戻ってからは九州大会参加申し込み手続き等の事務作業であっという間に時間が過ぎた。そして、午後4時には予約してあった膝のMRIを撮るために大学病院に行った。疲れていたのだろう、MRIを撮る間爆睡していた。しかし、少し眠って安心したせいか、MRIを撮って大学病院を出た5時10分に風邪を引いた。今日は早く寝る。 
13年01月21日(月) 県新人戦最終日。結果報告はGames & Scheduleに掲載していますが、今回の大会は「人を育てる」「人を動かす」「チームを創る」難しさをいやというほど痛感させられました。指導者歴50年にもなるのに…。
13年01月20日(日) クレインズのスタメンを張る釣屋・木原・山下・山中・川口の5人は、それぞれ大改修しなければならない箇所を持っている。その改修工事は、指導というより闘いである。少し改善されたと思っていたら、ちょっとしたことでまた弱点を露呈する。そんな事の繰り返しなので、県新人戦(今日が2日目)の不調の原因を「こいつらひょっとしたら体調不良?」という視点で見てやることができず、「まーた小さな事件にアタフタしやがって」という偏見でしかとらえることができなかった。監督失格である。実は、16日に嘔吐下痢症になった釣屋に続いて、翌日以降山中・木原・山下も嘔吐下痢症になっていたのである。当人達は大切な試合と重なったので申告せず、バレないようにしていたらしい。山下と木原は、下痢による脱水症状改善のため試合後病院で点滴を受けさせた。
13年01月19日(土) 県新人戦1日目。佐世保市で開催される時は宿泊してよいのだが、学校の経費を節約するために数年前から通いにしている。気になったのが天気。週末は大荒れという天気予報だったので心配していたが今日は晴れ。ホッとした。が、武雄ジャンクションから佐世保に至る西九州自動車道は道端に昨日の雪があちこちに残っている。「昨日が大会初日だったらアウトだったな」と思いながら走った。佐世保商業高校に到着したらこれまた同じ状態。佐世保商業高校は北向きの丘の中腹にあるのだ。ギリギリセーフ。ギリギリセーフと言えば、大会直前に嘔吐下痢症で学校を休んだ釣屋(4番)がぶっつけ本番で戦列復帰。今日は9分しか出なかったが明日はそうはいかない。さてどんな出来になるのだろう。明日は朝6時半に出発だ。 
13年01月17日(木) 今日と明日、釣屋は学校を休ませます。嘔吐下痢症の疑いがあったので昨夜7時過ぎに田上病院に行かせました。夜間だったので詳しい検査は出来ませんでしたが、医師の診断によれば嘔吐下痢症だろうということでした。寮では2人部屋に1人で住んでいるので、部屋を移して隔離はせず。自室で静かに過ごさせます。クスリは貰ってきているので、その服用と手洗いの励行を心がけながら安静にしておく以外ありません。週末の試合はどうなるかわかりません。釣屋が出られないならそれでやれる試合運びをさせますし、出られるならどの程度動けるかを観察しながら試合を進めます。 
13年01月16日(水) 今日は推薦入試。 中央大学附属横浜山手中学からバスケット特待生で受験する戸高朱里が、長崎駅でテレビ局の取材を受けた。今日から長崎駅で受験生にお守りを配布して絵馬をかける場所を設けたようで、戸高がその第一号だったようだ。昼頃と夕方放送されるらしいがどこの局かはわからない。
13年01月15日(火) 一昨日のことがあったので、昨日の夜から学校に行くのが少し怖かった。自分で「俺、鬱病になったかな?」と思った。練習が始まってもじっと見ているだけでことばが出ない。が、スクリメージの途中で、このところずっと川上からやられ続けている川口に「川上に対してまともに張り合わせるより、こんな技術を身につけさせたらどうだろう?」というアイデアが湧いた。スクリメージの休息時間に川口を呼んでその要領を説明し「スクリメージの残り本数すべてをそのことだけに集中してやってみろ」と言った。この、川口との会話で、コートに立つ恐怖感がスーッと薄れ、いつもの自分に戻った。川口は残りのスクリメージで2度それを成功させた。
13年01月14日(祭) 東長崎中学校(私の自宅からクルマで5分)に大村市の郡中学校が来て練習試合をするという情報を得たので観に行った。 東長崎中学校には高城台小学校のミニバス立ち上げに関わった時の生徒が数人いることと、郡中学校の飯田先生は喜々津中学校監督時代から頻繁に鶴鳴に通って勉強している先生なので、ちょっとのぞいてみようと思ったのだ。不意打ちだったので両監督とも驚いていた。8分のスクリメージを2本終わったところで両監督の要請によりクリニックをやることになってしまった。それにしても、昨日の夕方まではオフの日の今日はゆっくり休んでアタマの中を空っぽにしようと思っていたのに、朝になればこうしてバスケットボールの臭いがするところに足が向いてしまう。やっぱり私はマグロの生まれかわりなのだ。
13年01月13日(日) 私の思いが選手に伝わらないし、心に響かないのが悲しくて辛くて、練習終了30分前に体育館を飛び出してしまった。用事があったわけでもないのに選手を置き去りにして練習を放棄するのは、指導者として卑怯な行為であるとわかってはいたが、自分自身が切羽詰まってしまってどうしようもなかった。明日はオフである。オフ開けの火曜日までには自分を立ち直らせなければならない。 
13年01月12日(土) 森塚の見舞いに行ってきた。米倉医師からの報告によれば、前十字靱帯断裂、内側側副靱帯損傷、外側半月板断裂の複合損傷だそうである。前十字靱帯は二重束再建術(ハムストリング使用)、半月板は損傷部位を切除、内側側副靱帯は保存療法。退院は21日。最近のACL再建術は傷口も小さいし退院も復帰も早くなった。先日NBAの録画を見たが、昨シーズンACL断裂で途中から欠場したリッキー・ルビオが術後9ヶ月であんなに激しく動くNBAの試合に復帰していた。医学の進歩はすごい。
13年01月11日(金) ここ数日、大阪桜宮高校バスケットボール部員の自殺についての報道が加熱している。悲しい出来事だ。私は現役選手及び指導者として53年間スポーツ現場に関わっているから、彼のような事例は氷山の一角で、彼と同じように苦しんでいる選手がたくさん居ることを知っている。また、自分の地位を笠に着て、お金のことや、セクハラ(対女性とは限らない)や、暴力等による理不尽を、選手や保護者に押しつけている指導者がたくさん居ることも知っている。これを機に、そんなことがスポーツ現場から一掃されることを望む。が、それより気になるのは、本当に熱心で選手思いの指導者がこのような報道によって腰を引いてしまうことだ。本当に熱心な指導者はコーチというより教育者である。よい選手である前に立派な人間であることを生徒に求める。それには厳しい躾が必要だ。厳しさを暴力でしか表現できない指導者はそれを改めて欲しいが、生徒をしつける厳しさを指導者がゆるめてしまっては日本のスポーツ界だけでなく、日本自体が滅びると私は思っている。なぜなら、スポーツ活動こそがこどもたちに人としての躾をしてやれる最後の砦だと思うからである。自分は熱心で生徒思いだと自負している指導者諸君、このような事件にひるまず自分の信念を貫いてもらいたい。
13年01月10日(木) 胃カメラを飲んできました。以前患った食道潰瘍の再発か逆流性食道炎かどちらかだと思い、それを確かめるために飲んだのですが、結果は両方なし。ただし、私の胃は初回の胃カメラ(9年前)の時も胃壁が赤く、でこぼこが多くて慢性胃炎だと言われました。その時生検もしましたが癌はありませんでした。今回も同じで胃壁は赤く、たこつぼびらんがありましたが、潰瘍でも癌でもないのでこれまで通りでよさそうです。
13年01月09日(水) 昨日楢林医院で膝の水を抜いてきました。31ccでした。茶色に濁っているかなと思いましたがべっ甲色だったので少しホッとしました。私の膝の軟骨は左右ともボロボロで、内視鏡で見ると月面クレーター状態です。本当は走ってはいけない膝なのですが、前回の手術後3年間も走り続けてきたのが今回の水腫の原因だと思います。水を抜く前に大学病院でMRIの申込みをしたので来週にでも3年間のダメージがどれくらいのものか判明するでしょう。明日は諫早の宮本外科(消化器外科の専門医)に胃カメラを飲みに行きます。最近ずっと物を飲み込んだりゲップをしたあと食道にイヤーな感じが残るので逆流性食道炎かもしれないと思い、それを確かめに行くのです。私は以前胃の噴門のすぐ上にできた食道潰瘍を2回治療したことがありますのでその再発かもしれません。いずれにしろ、今月は身体のメンテナンスでちょっと忙しいです。 
13年01月08日(火) これは、今朝の朝練の時にホワイトボードに書いたことばです。それは、スポーツに限らず人生においても仕事においても家庭においても、ヒトならば誰もが陥りやすいことです。年長者は若者がそうならないように教え導きます。若者は年長者に教えられた「なるほど」を積みあげて行きます。でも、年長者が教えるのをめんどくさがったり、若者が「なるほど」を積みあげていかなければ、その人たちはいつか人生の落伍者になります。
13年01月07日(月) 合宿4日目に審判している時、左膝が張っている感じがしました。それが日を追う毎にひどくなり、今日は膝を伸ばしきることができません。皆さんから見ても腫れているのがわかりますよね。私の膝は左右とも2回ずつ手術をしていますが、そろそろ膝の内部の掃除をしなければならない時期が来たのかもしれません。前回の手術は2009年8月7日でした。米倉先生、宮本先生、たのみますよ。
13年01月06日(日) 最終日、午前中の創成との試合の途中で木原が目を突かれたかコンタクトレンズが外れて落ちたような様子だったので、2分休憩の時に「コンタクトが落ちたのか?」と聞きました。すると木原は「ハイ」と言いました。それを聞いて真っ先に床に這いつくばって捜そうとしたのが釣屋を始め試合に出ていた選手達。1試合目の慶誠戦もその時戦っていた創成戦も渾身の力を振り絞って戦っていたのでみんな肩で息をしています。その選手達が床に這いつくばってコンタクトレンズを探し、試合に出なくてベンチにすわっている選手がボケーッとしていました。それを見て私は「きさまらどこまでバカか−−−−っ!」と怒鳴りつけました。まだまだ半人前のチームです。
追伸:北海道に帰ったあと勉強合宿に向かう旭川北。初参加の仁愛。本当にお疲れ様でした。 
13年01月05日(土) 合宿4日目が終わりました。参加チームは、初日に来てすでに帰ったり、途中から来て最終日まで残ったりと様々ですが、ホスト校の鶴鳴は初日から最終日までずっとやらなければなりません。加えてホスト校には、試合のオフィシャルはもちろんのこと、宿泊や弁当の世話以外にも目に見えない雑用が山のようにあります。突発的な出来事例えば、選手がケガをしたり熱を出したので休日当番医に連れて行くなどです。スタメンの5人の気力体力の消耗も半端じゃありませんが、それらを支える3年生の気苦労も大変です。でも、それもあと1日で終わります。鶴鳴の総力をあげてみなさんに「長崎に行ってよかった」という合宿にするため頑張りましょう。
13年01月03日(木) 合宿2日目です。今日までにドタキャン3チーム。いずれも出発直前にアクシデント。慶進1名帯状疱疹。慶誠1名感染性胃腸炎。旭川北1名(マネージャー)インフルエンザ疑い。旭川北のマネージャーは結局インフルエンザではなかったそうで、その旨監督の遠山先生に深夜本人から電話があったのですが、その電話の内容がすごいんです。
本人「インフルエンザじゃなかったので今から長崎に行っていいですか?」
遠山「航空チケットはキャンセルしたからダメだよ」
本人「今から自分で手配して取ります」
遠山「早割じゃないから高いぞ」
本人「お年玉を貰ったのでそれから出します」
遠山「だめだ。無理。今回は仕方ないから5日からの勉強合宿に参加しろ」
本人「みんなが長崎合宿で頑張っているのに私だけ勉強合宿に行くのはイヤです」
旭川北高校といえば超進学校。でも、バスケット部は長崎合宿があるので校長の特別の計らいにより勉強合宿は最初の2日間免除してもらい、6日は長崎合宿から旭川の青年の家に直行して勉強合宿に参加するのだそうです。それにしても、置き去りにされたからといって、お年玉で飛行機を手配してあとから追いついて長崎合宿に参加したいという気持ちがすごいと思いませんか? 
13年01月02日(水) 今朝10:20、食道癌で入院していた兄が死んだ。75歳だった。チームを創るにも書いたが、私たち家族は満州からの引き揚げ者である。当時、私たちは父と母それに男の子4人の6人家族だったが、昭和21年7月の引き揚げに際し、弟2人が死に、2年後に父が死んだ。それから私と兄を女手ひとつで育てた母も、2年前に92歳で死んだ。そして今日兄が死んだ。山崎家で生き残っているのは私だけになった。
13年01月01日(火) あけましておめでとうございます。今日は雪ではありませんが冷たい小雨がずっと降っていたので外は走れず、ランニングマシーンで走りました。途中心臓が止まりそうになり、3q手前の400bほどを時速9qに落として調整しましたが、それ以外は時速10qで5qを完走できました。ふともももふくらはぎもバリバリの筋肉痛で、完走できるかどうか心配でしたが、自分が自分と交わした約束を果たせてホッとしています。私は自分で勝手に区切った人生の第4章に入ったばかりですが、第4章完となった時「山崎純男は生涯手を抜かなかったぞ」という終わり方をしたいと思います。
12年12月31日(月) 今日は雪。路上に積もるほどではありませんが木々は白く薄化粧です。路面は濡れているので外は走れません。ですからトレーニング室のランニングマシーンで走りました。ランニングマシーンで走る時は8qではなく5qにします。マシーンで8q走るのは退屈でやってられません。でも今日は、その5qですら走りたくありませんでした。ベルトの上を走り始めても私の気持ちはずっと「走りたくな〜い。走りたくな〜い」でした。しかし、3q過ぎると、「ここまでやって記録なしで終わるのはバカらしいよな」に変わりました。そして、5q走り終わったところでスピードを落とし、時速8qのスローペースで1q流しました。時速8qのペースというのは、身体の感じとしては一昨日心臓が止まりかけた時に落としたスピードがこれくらいだったようです。 
12年12月30日(日) 昨日は途中2回ほど心臓が止まりそうになったので超スローペースで息を整えましたが、今日は何事もなし。でも、今日は気温が低く北風ビュービュー。しかも最後の上り坂の2qは北風に真向かいでとても走り辛かったです。走る前から昨日の疲労感も筋肉痛も残っており、特に最後の上り坂では太ももの裏側が攣る寸前でした。でもこれは、市村先生寄贈のアンダーガーメントの効果がなかったのではなく、単に歳のせいだと思います。
12年12月29日(土) 今日から元旦まで4日間オフ。2日からの招待合宿に備えてオフの4日間は走ろうと思っていましたが、5月15日以降は毎日走るのではなく、気が向いた時しか走っていなかったので「ヨシ!やるぞ!」という気持ちにはなれませんでした。と、そこへ昨日,、茨城の市村先生からアンダーガーメントの上下が送られてきたのです。電話で、「ありがと」と御礼を言った後「でもこれ着てまだまだ走れってことかこの年寄りに?」と聞いたら、「いえいえ、それを着て走ったら疲れないような出来になってるんだそうですよ。先生の身体を気遣って送りました」という返事。そうまで言われれば「ヨシ!やるぞ!」と思わなくても走らないわけにはいかない。さっそく上下着用して家の周囲の8qコースを走りましたが、ビッチビチで窮屈なことこの上なし。「スケートの選手ってこんな窮屈な思いをしながら滑っているんだろうか」と思いました。市村先生が言うように、これを着用して走ると疲れないのかどうかは明日になって見なければわかりません。明日疲れや筋肉痛が残っていなかったら市村先生にあらためて御礼を言いますが、疲れや筋肉痛が残っていたら文句を言おうと思います。
12年12月27日(木) こどもの頃に「この子はおとなしくて恥ずかしがり屋なんですよ」と言われるのはその子の弱点として認識されません。ですが、それがおとなになると「あいつは優柔不断で決断力がないから」という弱点となって表面に出る場合があります。こどもには責任という文字がついて回らないけどおとなにはついて回るからです。スポーツでも同じです、こどもの頃のレクレーションスポーツでは本人に弱点はあっても表面には出ません。それが真剣勝負のスポーツをやりだすと表面に出てきます。楽しかったはずのスポーツが嫌いになるのはこの頃です。練習が辛いからではありません。自分でも気付かなかった自分自身の中身、たとえば「私ってこんなに向上心のない人間だったのか」とか「私ってこんなに自己中心的な人間だったのか」などと向かい合わなければならなくなるからです。認めたくないが現実に認めざるを得ない。それが辛いのです。それに打ちのめされるのです。そんな自分を素直に認めることから始めれば、半年ぐらいで打ちのめされたショックから立ち直り前へ進むことができるのですが、それがなかなか難しい。そんな子におとなとしてどう関わってやるかはもっと難しい。フーッ。
12年12月26日(水) 空はカラッと晴れており、風もない日ですが今朝の冷え込みは尋常じゃなかったです。短大の附属幼稚園の玄関前の水たまりには今年初めての氷が張りました。体育館の温度計は、練習開始時点で6.2℃。ウワー。
試しに、別の温度計を体育教官室の冷蔵庫の中にしばらく置いておいて取り出してみましたが4.8℃でした。体育館の室温は冷蔵庫の中に比べればましで、凍死するほどではないようです。 
12年12月25日(火) 23日から今日まで鹿屋遠征でした。鹿屋体大には選手は数人行ってますが、チームを連れて合宿に行ったことはありませんでした。今回お世話になった理由は、木葉先生(福岡修猷館高校→筑波大大学院→日立那珂コーチ→スリランカナショナルチームコーチ→大東文化大コーチなどなど。国際公認審判)が9月から鹿屋体大に準教授として赴任された(退職された清水先生の後任)のでご挨拶したいと思い、常連校の間に割り込ませてもらったのです。木葉先生のオフィスにはアメリカから取り寄せたDVDが山のようにありました。大学院出なので当然と言えば当然ですがなかなかの勉強家です。DVDの中に川添先生(鹿児島清水中で全国中学大会準優勝後徳之島へ転勤。U16スタッフ)そっくりの人がいましたが、まさか親戚じゃないですよね? 
12年12月21日(金) 今日で学校の2学期が終わった。3学期は1月7日から始まる。しかし、バスケットの3学期は今日が始まりだ。チームは今よりも夏の方が強い。選手1人ひとりの表情もパフォーマンスも夏の方が数段光っていた。たぶん、夏以降の私の、途切れることのない追求に参っているのだと思う。私から指摘される自分の愚かさが現実の出来事として次々と現れる。認めたくないが認めざるを得ない。それが、スポーツ大好きで明るい少女だった自分自身を思い切り打ちのめす。そんな状態なのだろう。それで潰れるなら所詮それだけの器の人間でしかないのだ。その程度の自分でありたくないなら、今の自分を素直に認め、プレイだけでなく日常生活の全てにおいて自分で自分を褒めてやれる出来事をひとつでも多く自分が作り出し、自分で自分を励まし続けるしかない。私のムチは明日からさらに厳しくなる。さあ来い!
12年12月20日(木) 火曜日の夜は冷え込みました。火曜日の夜は成年女子やシニアのチームが本校で練習する日ですが、子連れで来る選手がいるので、こどもに風邪を引かせないように私が体育教官室で使っている電気ストーブを出させました。それを出したのがD。昨日、そのストーブは体育教官室に戻されてはいたものの元の場所ではありません。DではなくEが片付けたからです。昨日私はこのことについて全員に話をしました。『Eはストーブを片付けたものの、Dにどこにあったか尋ねなかった。Dは自分が出したストーブが片付けられていたが誰が片付けたのか、また元の場所にちゃんと戻されたかどうか確かめもしなかった。だからこんなことが起きるんだ。なぜこのことを、当事者D・Eだけでなく全員を集めて話すかというと、これがD・Eだけのことではなく、チーム全員に当てはまる問題だからだ』。今朝、学校に来るとストーブは昨日の場所にそのままありました。私は朝練の前に全員を集めて、TOP→中間管理職(A・B・C)→当事者(この場合はD・E)という図式をホワイトボードに書き、『昨日俺が話をした後、D・Eは互いに確かめてないし、A・B・Cの中でDやEに「先生から言われたこと、あの後ちゃんとやった?」とチェックしたやつはいないだろ?こんなのは組織とは言わない。烏合の衆という。悲しいけどこれが現実だ』と言いました。昔はこんなことは入学して半年もすれば言わなくて済むようになったけど、今は半年では済まない。しかしそれが現実なら、1年でダメなら2年、2年でもダメなら3年、それが浸透するまで根気強く言い続けなければなりませんよね。指導者という肩書きを持っているなら。文責:小言幸兵衛
12年12月18日(火) 昨日夜7時半頃帰宅途中、ゴッゴッとクルマの前後輪が何かに乗り上げた衝撃がありました。私は一瞬「エッ人?酔っぱらいが道に寝てた?まさかそんな大きなものじゃなかったよな。イヌかネコかの動物?」と、ドキドキしながらクルマを左側に寄せ、音がした現場に歩いて戻りました。戻る途中数台のクルマがゴッゴッと同じ音をさせて通り過ぎました。「何を踏んだか止まって確かめろよ!」と思いながら音がした暗がりに近づくとこんな物が道の真ん中に転がっていました。私には自動車の部品に見えますが何でしょう?誰かこの画像を見て正体がわかる人は教えてください。今朝学校で重さを量ってみたら2.2sありました。こんな固いものを踏んだのだからパンクしていないか確かめましたがパンクはしていませんでした。まったくはた迷惑な。
追伸:長崎市田手原町で自動車修理業を営む上戸さんから11:48にさっそくメールがありました。
先程家内が「山崎先生がぁーっ…画像を見てっ!」と言って大騒ぎしながら来たのでおそるおそるパソコンを見ると、それは車両を上昇させ下廻りを整備する時に用いるリフトの一部で、一般の方にはまず解らないだろうと思う代物でした。ゴムの部分を車両の左右下端ステップ部に合わせ4か所で車両を上げる構造の機械です。たぶんどこかの工場で上げた車に食い込んだまま走行し途中で落下しものと推測します。タイヤやホイールに損傷(曲がり)が無ければいいですが』だそうです。上戸さんありがとうございました。ちなみに上戸さんのこどもさんは、息子さんが南高1年バスケ部、娘さんが愛宕小6年バスケ部だそうです。
12年12月17日(月) 今日は本学附属幼稚園のクリスマス会。私の役目は恒例になったサンタさん。プレゼントを渡すとみんな大きな声で「ありがとう」と言うのですが、ひとりだけ口ごもっていて「ありがとう」が出ません。ヒトと話すのが苦手な子かな?と思っていたら「Thank you very much」と大きな声で言いました。きっと、ありがとうは英語で言おうと思って何度も何度も練習してきたんでしょうね。 
12年12月16日(日) 国体成年女子やシニア男子は毎週火曜日に鶴鳴で練習しています。シニア男子は先般北海道で行われた全国大会で優勝しました。この大会は山形県の八幡町が町興し事業として始めたもので、大会名称は八幡カップといいます。長崎のシニア男子は4年前の岡山大会に次いで2度目の優勝です。この大会は日本協会主催ではないものの全国大会に変わりはなく、日頃からちゃんとしたバスケットをやっていなければ全国優勝はできません。私もDVDを見せて貰いましたが、高校生バスケ少年達に「これはみんな40歳以上のおじさん達だぞ。態度もプレイもひたむきだろ?見習え」と言いたくなります。昨夜そのシニアチームの忘年会に呼ばれ、二次会までつきあいました。私はあまり夜の町を遊び歩くことは好きではありませんが、二次会までつきあったということはこの連中と一緒に居ることが心地よかったんでしょうねえ。忘年会の場所はキッチンせいじという店で、長崎東高校バスケ部OBの安達先輩がやっています。市電が店に突っ込んできたのをそのままにしています。
12年12月15日(土) 体育館の床工事は昨日終わったが、アクリル塗装が乾燥するまで体育館に入ることはできない。その解禁日が明日だ。明日からはようやくまた体育館で練習ができる。というわけで、このところずっとグラウンドランだったが昨日は濃い霧雨でそれもできず、しかも今日はスケジュール通りのOFFなので、選手にとっては2日間連休になってしまった。明日からの1週間で23日からの鹿屋遠征の準備をしなければならないし、森塚の穴埋めの見極めもしなければならない。選手諸君、明日からの1週間は1秒も無駄にはできないぞ! 
12年12月10日(月) 昨日の続きです。これは山中のランニングですが、着地やケリの足の使い方が悪いとか、姿勢が悪いとか、直さなければならなところは何もありません。走りだけではなく、大腿四頭筋が強いのでジャンプ力もすごいのです。でも、ストップ動作と動き出し動作だけがああなるんです。追伸:今日のグラウンドランでは途中で靴ひもが解けた選手がいました。いい記録を出そうと思っているなら決して起きてはならないことです。
12年12月09日(日) 12月01日付けのこの欄に森塚が前十字靱帯を切ったことを書きましたが、その時山中もその傾向があると書きました。それがこの画像です。この夏からずっと矯正してますが、実戦になるとこうなります。山中(黄色のシャツ)がパスカットを失敗して着地した時の右脚と床の角度、ブロックショットを失敗したあとに着地した両脚と床の角度に注目してください。スローモーションで見るとよくわかります。すごい雑音は床工事の機械の音です。みなさんのチームにもこんなクセのある選手いませんか?もしいたら根気強く矯正してくださいよ。
備考:山中は足の速さはチームで1・2を争うし、X脚でもありません。ただ、動作の始めと終わりにこうなるクセがあるだけなのです。 
12年12月08日(土) 今日は練習が午後からだったので、午前中は飯盛コミセンで行われたつばさ保育園の発表会を見に行った。結子最後の発表会だ。このような行事に限らず、幼稚園や保育園の先生方の働きはすごいといつも思う。声も動きも表情も、常に自分の全てを出し切ってこどもに接しようとしている。@ A B C D 
12年12月07日(金) 1年生と3年生の期末テストが昨日終わった。今日の昼2年生が修学旅行から帰ってきた。11月25日からずっと、全員が揃った練習ができなかったがこれでみんな揃った。でも、体育館は白アリ駆除と床の張り替え工事で今は体育館の半分しか使えない。半分使えるのは通常バレーボール部が練習しているステージ側で、今日はそこをバスケット部が使える。半分しか使えないフロアをバレー部と交替で使うのだ。それが来週週末まで続く。冬休みに入ればすぐ遠征を計画しているし、正月には招待合宿も計画している。それを充実したものにするための準備期間に充分練習できないのは辛いが仕方がない。問題はそれだけではない。ACL断裂の森塚は来年10月までは使えないだろうから彼女が抜けた穴も塞がなければならず、そのメドを冬休みに入る前にはつけなければならないのである。この2週間は1秒も無駄にはできない。フーッ。
12年12月04日(火) この前の土曜日、寮生をクルマに乗せて高校まで送りましたが、クルマから降りた寮生はサッサと体育館に向かいました。鶴鳴の生徒は、登校途中に目につくゴミが放置されていたらそれを拾って登校し、学校に備えてあるクズかごに捨てることになっています。真心運動と名付けています。それをその日の寮生はやらなかったわけです。寮生の送迎は最近田口先生に任せて私はやっていなかったので、その間寮生はずるずると真心運動をやらなくなってしまい、久しぶりに私が送ったその日は最近の行いがそのまま出てしまったのだと思います。
もうひとつ、金曜日にグラウンドランに行く途中、第二体育館の暖房用ファンが回っていたので、誰が暖房を使っているのかを確かめに行ったところ、ある部活生が1人食堂の暖房をつけてテレビを見ながら試験勉強をしていました。「お前1人で暖房使っているのか?東日本大震災以来日本中で節電節電って言われていること知っているよな」と言って暖房を消させました。ところが今日、同じ部員が同じ事をまたやっているではありませんか。「きさまみたいなヤツは鶴鳴の恥さらしじゃ。部活なんかやめてしまえ!」と怒鳴りつけました。監視されていればやるけど監視されていなければ手を抜くというような部活生は、コートでいくら汗を流して戦って見せても、観る人に感動を与えることはできませんよね。
最近私は、古今亭志ん生の落語に出てくる”小言幸兵衛”みたいに、うるさい爺さんになってきています。
12年12月01日(土) 1年生の森塚麗が膝をケガしました。左コーナーからドリブルストップジャンプショットをして着地した瞬間に膝崩れを起こしたのです。非接触の自損事故です。応急処置はしましたがおそらく前十字靱帯を切ったと思います。森塚はディフェンスが悪く、それは姿勢と足捌きに問題があるからだわかっていたので矯正中でした。山中も同じ傾向にあるので、この2人の矯正と特訓のためにディフェンス練習の特別メニューを作り、選抜予選以降毎日それに時間を割いていた矢先の出来事でした。森塚も山中も、ディフェンスの急な動きだしと急なストップの場面で、このように足幅が広くなり、膝と足首を結ぶ線が床に対してハの字になるクセがあります。この動作は動きが遅くなるだけでなく、前十字靱帯損傷が最も起こりやすい姿勢なのです。着地やストップの姿勢は、どんなに急激な動きであってもこのように膝と足首を結ぶ線が床と垂直(スピードがついていれば床とは斜めになるが、下腿は互いに平行を保つ)にならなければなりません。ウーン。残念無念! 
12年11月30日(金) 理子すごい!(第61回長崎市民美術展ジュニア絵画の部 於:県立美術館) 
12年11月28日(水) 3週続けて、2年後に迫った長崎がんばらんば国体についての会議があった。先々週は第69回国民体育大会競技力向上推進会議(委員長は田中桂之助副知事で委員数は58名)。先週は強化助成専門部会(委員長は横瀬昭幸スポーツドクターで委員数は12名)。今週は成年選手強化専門部会(委員長は山崎純男で委員数は12名)。私は県の競技力向上対策本部委員なので3つとも顔を出さなければならない。特に今週の成年選手強化専門部会は私が部会長なので会議の議長を務めなければならず、荷が重い会議だった。私は、県の競技力向上対策本部はやるべきことを精一杯やっていると思っている。あとは各競技団体の組織力がどこまで高まるかがカギだ。具体的に言えば、各競技団体の会長とか理事長が一生懸命旗を振っても、最前線で戦う連隊長とか兵士までその思いが伝わらなければ組織力があるとは言えない。各競技団体の最高指揮官から最前線の一兵卒まですべてが当事者意識を持って国体に臨む競技団体が組織力がある団体だと言えるし、すべての競技団体がそうなることが2年後の国体を成功させる重要な要因になると私は思う。
12年11月25日(日) 地区新人戦の報告書や19日付けのブログに「眠れない」と書いていたのを読んでいたJXマネージャーの成井が、徳島で「はい先生におみやげ」と言って私に渡したものがコレ。開けると中には1個ずつ袋に入ったアイマスクが入っている。仕組みはホッカイロと同じだ。封を切って時間が経つとだんだん暖かくなってくる。ヘーッこんなものがあるんだ、と思ったと同時に、ここまで気配りする成井の感性に参った。 
12年11月23日(祭) 昨日練習終了後クルマで長崎を発ち、徳島に行きました。中1になって本格的にバスケットをやり始めた綾ちゃんがJXの試合を観たいと言っていたのですが、一番近いところであるのが徳島だったのでそれに行こうということになったのです。布志木3姉妹と友達の青木姉弟の5人をワゴンに乗せて行きました。ラッキーなことに、私たちのクルマを止めた駐車場のすぐ横がJXの泊まっているホテルだったので、運よく写真まで撮らせてもらいました。興味を持ち始めた頃の体験というのはその子の将来を大きく左右します。そのためなら私は、身内とか知り合いに限らずできることは何でもやってやりたいと思います。明日は年少組へのサービスで、スペースワールドやround1などに寄って帰ろうと思います。
追伸:このブログはフェリーの中で書いています。電波が悪いのでUPは24日の朝になるかもしれません。 
12年11月20日(火) 昨日も今日も、キャプテン釣屋を練習から外してコートサイドに立たせた。コーチの目で選手や練習を見させるためだ。釣屋を中間管理職として育てるのは、この時期を逃せばもうない。
昨日は、練習が終わったあと、自宅に持って帰る荷物を体育館から駐車場まで選手に運んでもらったが、それを受け取るのを忘れてクルマを発進させてしまった。途中で気がついて引っ返したら学校の駐車場には私の荷物を持った林田が待っていた。
今朝は、学校に向かう途中信号が青になったのに気付かず、うしろのクルマからクラクションを鳴らされた。学校到着間近になって今度は道を間違えた。曲がらなければならないところをまっすぐ走ってしまったのだ。昨日の荷物置き去りも今朝のうっかりもすべて考え事をしていたからだった。学校間近で道を間違えたのは、丁度その時山中のでディフェンスの足の構えの悪さを矯正する方法を思いつき、それをアタマの中で練っているときだった。最近こんなことばかりだ。 
12年11月19日(月) 昨日の明け方もよく眠れていないのに今朝も4時に目が覚めてしまった。それからはもう寝付けない。昨日の決勝戦の様相が蘇ってくるのだ。登場したのは、@A選手がやられたディフェンスの2本とA選手が失敗したオフェンスの3本。A煩わしい事件を避けて通ろうとするB選手の顔。B勝負を左右するような重要な場面で時々それを静観しているキャプテン釣屋の顔。この3つだ。このうち、A選手がやられた2本のディフェンスは個人の訓練を積めば解消される。本人もそれは自覚している。A選手の3本のオフェンスミスは、本人の問題というよりも、釣屋がちょっとからんでやれば防げたことだ。B選手が、煩わしい事件を避けないようになるには彼女の人生観にまで踏み込んで私が相当関わってやらなければならない。それも、いくら精神論を説いてもダメだ。プレイを仕掛ける場面や仕掛けるプレイの種類を教えながら成功体験を積ませなければならない。 でも、ここに挙げたいくつかのことも、釣屋が中間管理職としてコートに立てるようになれば解決のスピードが上がる。中間管理職を育てるのがこれから2ヶ月間の私の重要な仕事だ。あっという間に夜が明けた。
12年11月16日(金) 今春採用になった田口コーチは今週末の長崎地区新人戦の審判に割り当てられていますが、この審判が県公認A級の審査対象になるのだそうです。なので私は、スクリメージの審判を一緒にしてやりました。10分のスクリメージを8セット。それで気がついたことは「俺の動体視力は落ちたなあ」です。際どいライン際の競り合いのラストタッチを見極めきれないケースが2回ありました。私は、遠征合宿や招待合宿でいつも一緒になる仲間たちからこんなワッペンを作ってもらっています。でも、これはもう返上しなければならないと思いました。 
12年11月15日(木) 今朝早く、ウチの嫁と、ウチの嫁の姉と、ウチの嫁の姉の息子の嫁の3人が宮崎まで出かけました。ダンロップフェニックスゴルフトーナメントに出場する石川遼君を観るためです。トーナメントは15日〜17日の3日間だそうです。ずっと前、ウチの嫁を含めて70歳代の女性3人で福岡までスマップのコンサートを観に行ったというお話しをしました。今回の3人の中には40歳代の姉の息子の嫁が1人加わっているので合計200歳は越えませんが、最近の年配のご婦人方の趣味とか娯楽はハイカラになってきましたねえ。というわけで、この3日間独り身の私は昨夜から研究室泊まりです。18日(日)まで泊まり込みで学生の卒業研究のまとめや短大内や高校内の仕事を、この際一気に先に進めようと思います。
12年11月14日(水) これまで何度も述べてきたが、選手に技術を教え、それを習得させるのは難しくない。しかし、習得した技術を試してみたいとか、それを武器となるまで高めたいという選手の思いとか意志を引き出すのが難しい。今年でコーチ生活が50年になるが、未だにこの壁に突き当たって悩む。思いとか意志のレベルが低い選手は、向上心や闘争心、追求心や忍耐力などが足りないのであるが、それをひとまとめにして「あいつはやる気がないから」で片付けてしまうのはコーチの責任放棄だ。10月30日付のこの欄で述べたが、私の会社に課長がいないのならば会長の私が現場に下りるしかない。そして自ら身体を動かして教える。それでも私の思いが選手の心に響かないのはやっぱり年齢の差がありすぎるからなのか?
12年11月12日(月) 土曜日から期外収縮と頻脈の出現回数が増えた。怒りが蓄積しているのが原因の一つだと思う。今の私は10年前より遙かにアンテナの本数が多い。だから、気になるプレイは見逃さず指摘して選手に意識を持たせる。しかし、大声で怒鳴りつけたり手を出したりはしない。それが怒りを蓄積させる素になっているのかもしれない。 
12年11月10日(土) 試合とかクリニックがなかったら、土日のどちらかはオフにしている。本当は土曜日のAMに練習して日曜日がオフというのが理想だが、今週は今日(土)がオフである。理由は、今日短大の推薦入試があり、私はその面接官なのでコートに立てないからである。面接官は2人ひと組でやる。今日私はT先生と組んだ。面接開始が近づいてきたらT先生が「ドキドキする」と言った。「面接される方ではなく、面接する方がドキドキしてどうするんですか!」と気合いを入れたらT先生は「ちょっと散歩してきます」と言って部屋を出て行った。T先生は今年4月に採用になった新人である。志望動機を問う質問にはみんなマニュアルで練習してきているのでスラスラと答える。が、こちらの質問の意図を理解する、自分の思いを述べる、それをわかりやすく表現するなどの能力が必要になる質問をされると差がつく。それは部活動でも同じだ。私はプレイを止めて「コラーッ!それは○○だろう、△△じゃないだろう!」とは言わない。プレイを止めて選手に「今のプレイについての感想は?」と聞く。すると未熟な選手はいつも自分が叱られるいくつかのパターンの中のどれかを引っ張り出してきて「今のは××でした」と答える場合が多い。そのレベルの選手は大事な試合にはまだ使えない。少し訓練を積んでくると止められた時に、叱られるいくつかのパターンではなく、止められた場面を頭の中でリプレイして「あ、今のは○○のプレイを選ぶべきでした」と答えられるようになる。そのような選手は大事な試合に使っても大丈夫だ。
12年11月06日(火) 今年の県下高校駅伝には釣屋と山下の2人が助っ人で出場した。本当は3年生の舩津がバスケット部では一番速いのだが彼女は大学入試直前なので3番手の山下が繰り上げ出場となった。私が毎年思うことは「駅伝に参加するバスケット部の選手の走りはとても重そうに見える」だ。原因はだぶだぶの短パンである。それでも鶴鳴のバスケット部はバスケット界では短い。長い短パンは走り回るには邪魔だから、私は裾が膝下になるような短パンは履かせないのである。。バスケットの選手の間で長い短パンが流行し始めたのはマイケルジョーダンが当時としては少し裾が長い短パンをはき始めてからだ。チームとしてはプエルトリコのチームが裾がふくらはぎまであるトレパンか短パンか区別がつかないようなパンツを履いて国際大会に出た頃から爆発的に流行したと記憶している。今ではNBAのチームには1人も膝のお皿が隠れるような短パンを履いている選手はいないし、シャツがウェストから出てオープンシャツになっている選手もいない。それは、だらしない格好をさせないために服装を規制するルールをNBAが制定したからだ。さらに言えば、NBAの選手は会場入りするのにGパンなどカジュアルな格好ではなく、フォーマルな服装で入場しなければならないというきまりも作った。なのに、日本の高校生バスケ選手の中には膝下はおろかそれをさらに下げパンにして試合をしている選手さえいる。日本の少年たちよ、NBAの選手の真似をするなら@自分を追い込む厳しさA自己管理B基本技の練習を怠らない、などを真似した方がいい。
12年11月02日(金) つばさ保育園の5歳児6歳児約50名を立山の金比羅山に遠足に連れて行った。頂上の展望台に登ったあとは少し下の広場で昼食を取り、そのあと鬼ごっこをした。こどもは元気だ。1日中バスケットのことばかり考え、アタマを抱える日々が続く中で、園児たちとの交流は一服の清涼剤になる。さ、元気を出すぞ。
12年10月30日(火) 3日前、私の思いが選手に浸み込んでいくという実感が湧かないと書いたがその理由を考えてみた。おそらくそれは、チームの中に中間管理職がいないからだと思う。会社組織であれば70歳の私は会長といったところか。その下に社長・専務・常務・部長・課長・係長・主任などの役職がある。たぶん風軍団の頃(平成8年)は私が元気な社長で工藤雅子が優秀な課長だったのだ。だから組織が機能した。私はまだ元気だし知恵も情熱もあるが、会社組織で言えば年齢からして社長ではなく会長クラスだ。雲の上の存在の会長が直接平社員に檄を飛ばしても、内容は同じであっても社長や部長の檄に比べて響かないのかもしれない。
12年10月29日(月) 昨日(日曜日)は午前中練習。午後から例のこどもたちをどこかに遊びに連れて行くことがなければ何もすることがない。練習後ちょこっと仕事をしたが学校を出たのが午後4時。早すぎる。昨年までは日が高いうちに帰るどころか研究や協会の仕事のために研究室に泊まり込むことが多かったがもうそんなこともなくなった。早く帰り着いたので丁度良い機会だからずっと前に測定していた我が家の団地の周囲をランニングしてみた。家の前のバス停を出発して矢上方面に向かい、ジャスコの前を通って矢上大橋を渡り、戸石小学校前の交差点を左折して出発地点のバス停に戻ってくるコースだ。丁度8qある。最後の戸石小学校から出発地点までの約2qはずっと登り坂だ。「ここが走りきれるかな?」と思って走ったが難なくクリアした。実は土曜日にも学校から白木バス停まで7q走ったばかりだったのでちょっと心配だったのだがなんとかなった。ホッ。
12年10月28日(日) 夢を見た。リバウンドボールを取られた場面でプレイを止めて選手を叱りつけている夢だ。目が覚めると5時45分だった。目は醒めたが夢の続きを見る。あの選手この選手の顔が次々と登場し、場面対応を教える。7時半にベッドから起きあがるまでそれが続いた。フーッ。 
12年10月27日(土) 今日の練習はオフ。でも私はオフではない。月曜日の授業が行事やら祭日代休やらで欠けるので今日はその補講をしなければならないからだ。朝から3コマ連続である。通常の月曜日は授業が終わるとすっとんで高校に行き、コートに立つのだが今日はそれがない。でも、コートに立たないからと言ってリラックスできるかというとそうではない。コートに立たない時間や、授業の合間や、パソコン作業の手が止まった時や、マンガを読んでいない時の私のアタマの中は、コートを動き回る選手達のイメージで占領される。特に浮かんでくるのは選手の動きではなく選手の顔である。表情である。私の、熱意でもことばでも怖さでも何でもいいのだが、それが選手に浸みこんでいくという実感が湧かない。このことで頭を抱える日々が続いている。 
12年10月23日(火) 試合翌日はオフだったので昨日が選抜予選明けの初練習だった。月曜日は短大の授業が満杯なので練習には少し遅れる。高校に到着したらスクリメージの2本目が始まっていた。シュンとしている。4本目が終わったところでみんなを集めて感想を述べた。「大差で負けたからこの雰囲気なのか?お前達は夏以降強くなっていないのか?長崎西戦はがんばったんじゃないのか?それでも相手がそれ以上強かったというだけだろ。ならば、次の地区新人戦に向けて今日は張り切って練習しなければならないんじゃないのか?なぜならお前達だけが他のチームと違ってメンバーの入れ替えがなく、このまま戦えるのだから」。私のことばが選手たちの心にどこまで響いたかわからないが、私はそんな気持ちでコートに立つ。 
12年10月20日(土) 手も足も出ない試合で長崎西にやられた。鶴鳴の試合ぶりにも試合中の顔つきにも不満はない。鶴鳴も強くなったけど長崎西が強すぎただけだ。協会HPの勝ち上がり表が24日午後12時時点でUPされないので、それがUPされてから私のHPに結果を載せ、各位にメールする。
12年10月18日(木) 明日がオフなので、今日は土曜日の選抜予選最終日に向けての最後の練習です。選手の疲労は回復しているし、気の緩みもありませんが、メインメニューであるBチーム相手のスクリメージは最悪の出来でした。発端は、A選手の軽率プレイと独りよがりプレイの2連発でした。本人も他の選手も軌道修正をしようと努力しますが、微妙な食い違いが負の連鎖を起こして広がり、収集がつかなくなりました。私は口を出さず、じっと練習を観察していましたがそのまま練習終了時間が来てしまいました。だからと言って明日のオフはキャンセルして練習するというようなことはしません。明日は予定通り休養させて疲労の超回復(トレーニング用語です)を狙います。本番で今日のような展開になれば私が選手交代やタイムアウトや動きの指示により軌道修正をしてやればよいことで、選手は夏以降の自分を思い出し、精一杯はじけてくれればいいのです。
12年10月17日(水) 昨日の練習を始める前にみんなを集め「明日は休み。木曜日は通常通り練習するが金曜日は休み。そして本番の土曜日を迎える」と通知した。本当は火木を休んで水金に練習した方が良いのだが、火曜日はずっと前から他チームと練習試合をすることにしていたのでドタキャンはできない。そこで、火曜日は1試合だけサッと済ませて短時間で切り上げ、水金は休むことにしたのだ。そういう処置をとったのは、月曜日の練習がとても重かったからである。日曜日の試合で終始激しい動きをしたので疲れが残っているのだ。だから、本番までは1日置きの練習にした方がよいと判断した。田口コーチが「エッ!」という顔をした。「試合の前日に練習しなくていいのですか?」と書いてある。改善したい点はまだある。しかし、それが気になるからといって練習でチェックしてもあと3日間でそれが大幅に改善されることはない。それより、日曜日の立派な試合を再現させるべく、リフレッシュして本番を迎えさせた方がよいと思った。それが吉と出るか凶と出るかはわからない。が、日曜日の試合中の選手たちの目からは、本番前に休んだからといって緩みが出る要素は見当たらない。それを信じるのみだ。 
12年10月16日(火) 月曜日は短大の1年生の体育実技の授業が3コマ連続あります。終わったらぐったりします。夏過ぎてから特に、練習コートに立つこと以外はとてもおっくうです。もちろん、70歳を過ぎたので体力が落ちたということも理由のひとつではあると思いますが、11日のこの欄にも述べているとおり、練習に費やすエネルギーが近頃尋常じゃないのだと思います。
12年10月15日(月) 研究室の本棚からあだち充の作品のタッチが全巻なくなっていることは数年前から知っていました。たぶん学生が借りていってそのままになっているのでしょう。ところが先週、島耕作の係長編・課長編・部長編もすっぽり無いことに気がつきました。タッチは取り寄せなくてもいいのですが、島耕作はすべて揃っていなければ気が済みません。本屋に注文して週末に届いたのでまた読み始めました。島耕作シリーズはすべて読んでしまっているのですがもう一度読みたいのです。 
12年10月13日(土) 10月6日に「流れる星は生きている」(藤原てい著)を一気に読んでしまったが、末っ子の咲子さんのその後がとても気になった。理由は、引き揚げの時舞鶴上陸後すぐ死んだ私の弟の文雄(このことについてはチームを創る第1章41頁23行から42頁にかけて詳細を記している)と咲子さんの状況がまったく同じだったからだ。私は「流れる星は生きている」を読んだ後すぐインターネットで藤原咲子を検索した。すると、咲子さん自身が60歳(2005年=平成17年)の時に書いた「母への詫び状」という本があることを知った。すぐ書店に注文して取り寄せ、昨日一気に読んでしまった。栄養失調の後遺症は幼少期を過ぎたら治まったが、精神的ダメージがずいぶん長い間咲子さんを悩ませたようだ。幼少期の体験は、良くも悪くもその人の一生を左右する。こわい。
12年10月11日(木) テスト明けで通常練習に戻った昨日。私を激怒させる出来事が起きた。練習終了時間まであと30分ほど残っていたが、「お前がやった事はとてつもなく大変な事なんだぞ。わかるか?」と本人を睨み据えながら低い声でそう言って、そこで練習を打ち切った。大声も出さず、ビンタもしなかったが私の身体はいつまでも怒りで震えていた。その出来事は、どこのチームの練習でも見かけるありふれた風景の中のちょっとした出来事だったが私の中では絶対に許せない行為だった。このことはその日のブログに書こうと思ったが1日置いて今日書いた。理由は当日書けば怒りの余韻が残っていて感情にまかせて書きそうだったのでアタマを冷やすために時間を置いたのだ。今の私は、桜馬場中学校を指導していた頃(24歳〜31歳)と同じ気持ちでコートに立っている。今月下旬に行われる選抜予選で、クレインズの過去現在を知る多くの方々から「今年度最高の出来だったね」と言って貰える試合がしたいからだ。それを、一時の感情を押さえきれずにぶち壊したくはない。
12年10月09日(火) トップ(旧姓中野=JXACだった)家族が長崎のお宮日を観に来た。家族旅行の他にもう一つ目的があった。それは、こどもの未来ちゃんに私の盃を受けさせるためだった。トップ・ムー(熊本商→JX→鶴屋)・ドル(熊本尚絅高校→共石→慶誠高校コーチ)の3人は勝手に山崎組組員を名乗っている。トップは自分の子に2代目を継がせたいのだ。長崎駅で記念写真を撮ったがシャッターを切った直後に大泣きしたので盃は保留だ。 
12年10月08日(祭) 明日から中間テストが始まるので今日の練習はOFFだ。昨年までは、幼児の足趾形態の発育発達の研究、県協会理事長、県協会副会長、アジア大会運営本部長などの仕事があり、寝る時間がないくらい忙しかったが、それらがすべて片付いた。しかも、8月20日付けで出した長崎少年女子のヘッドコーチ辞任願いが9月20日に受理され、自分のチームの練習がない今日みたいな日はな〜んにもすることがないのだ。目が回るほど忙しいのもきついが、暇すぎるのもきつい。また回顧録でも書こうかなあ
12年10月06日(土) 台風で延期になっていた附属幼稚園の運動会が今日行われた。今日は創立記念日(月曜日)で潰れた授業の補講を実施しなければならない日だったが、幼稚園の運動会が 雨天時は体育館で実施する事になっていたので補講は金曜日の午後に回された。というわけで時間が空いたので、藤原ていさん(新田次郎の奥さん)が書いた「流れる星は生きている」の文庫本(幼稚園園長の鈴木先生からいただいた)を読んだ。この本の内容は、終戦後夫藤原寛人(後:新田次郎)さんを捕虜に取られ、1人で5歳2歳0歳のこどもを連れて、新京(現長春)→北朝鮮→釜山→博多港→故郷の長野県諏訪市と決死のソ連軍からの逃避行を成し遂げた藤原さんの実録である。藤原さんは2年前に92歳で死んだ私の母と同じ歳だ。そして、引き揚げてきたのが藤原さん親子が昭和21年9月12日(博多港)で、私たち家族が昭和21年7月1日(舞鶴港)と同時期で、家族構成も山崎家は父が家族と一緒に帰って来られたという以外ほとんど状況が似ている。藤原さんの末っ子咲子さんは栄養失調のため途中で生死の境をさまよったが引き上げ後一命を取り留めた。山崎家は、私の弟2人(1歳半と0歳)が相次いで死に、父は引き揚げ後2年目に死んだ。藤原さんの苦労が他人事と思えず、一気に読んでしまった。
12年10月04日(木) 昨日は自宅を6:40に出て7時過ぎには高校に着いた。朝練は7:45に始めるが、早い選手は7時過ぎには体育館に来ている。が、昨日はガラーンとして誰も居ない。朝練がないのだ。9日(火)と10日(水)が中間テストで、テスト前1週間は午後練は1時間しかしないし、その期間は朝練もしない。それを忘れていた。以前のように朝短大の寮に寄って選手たちをマイクロバスで送るのならば朝練がないことを忘れはしないのだが、最近その役目は新任の田口コーチがやっているので私は短大に寄らずにまっすぐ高校に向かう。ということは、短大の授業もなく高校の朝練もなければ私は午後3時過ぎに高校に行けばよいのだ。そんな楽な生活をしていいのかしら…。が、やっぱり習慣とは恐ろしいもので、今日も朝9時には研究室に行ってパソコンを開いた。
12年10月01日(月) 今日は鶴鳴学園創立記念日。116回目だ。今日講演で呼んだのは五日市剛さん。演題は”ツキを呼ぶ魔法のことば”いやな時こそ「ありがとう」未来の自分に「感謝します」だった。このようなことばは講演や書き物ではよく聞くありきたりのことばだ。だが、五日市さんはこの演題で日本はおろか海外でも講演依頼が殺到する人だ。ことばはありきたりでも五日市さん本人が醸し出すオーラが他の人と違うのだろう。ちなみに、山崎語録選手の部47番目に私は「怒りは進歩の原動力」と書いている。五日市さんのことばとは正反対だ。山崎語録もあちこちで引用されているが、山崎語録による講演依頼は五日市さんに比べれば天地の差だ。人間としてのオーラが違うのだろう。
12年09月30日(日) 午前の練習が終わった後つばさ保育園の運動会を観に出かけた。今年の年長さん(月組)は、0歳児の時からずっと足型測定の被検児として協力してもらったこどもたちである。0歳から6年間も関わっていれば、血はつながっていないが気持ちの中では孫だ。でも、この子たちは来年からはここにはもういない。写真を撮りながらちょっぴり寂しくなった。 
12年09月29日(土) ミスはだれでもするが、ミスしたお前からは自分に対する腹立たしさや怒りではなく、「また叱られる」「また睨まれる」しか俺には伝わってこない。それが悲しい。 
12年09月27日(木) 昨日、宇部遠征の前日(14日)に走ったきりやっていなかったグラウンドランをやりました。5q完走したものの死にそうでした。70歳(5月15日)になってからは毎日ではなく、気が向いた時に走ろうと思っていましたが、気が向いたときといっても最低でも週2回、普通週3回は走るだろうと思っていました。でも、今回は疲れが抜けず走る気になりませんでした。4日前の日曜日には、午前中で練習を終わってから午後走るつもりでしたがなかなかその気になりません。「走ろうかやめようか」と、結局3時間ぐらい体育教官室で考え続けた挙げ句、走らずに家に帰りました。「これではいかん!」と思って昨日走ってみたわけです。今日も走りました。しかし今日は昨日のランの乳酸除去のための軽いジョギングです。また徐々に戻していこうと思います。ところで、なぜこんなに身体がきついのかというとやっぱり夏休みからずっと続いている練習のせいだと思います。口で教えるのではなく身体で教えているので身体的疲労が抜けないのです。ということは、夏休み以前は口先だけで教えていたということになりますね。反省、ゴン(→自分のアタマをゲンコツで殴った音です)。 
12年09月24日(月) 短大1年生の後期授業が始まった。2ヶ月も間が空くと顔と名前を思い出すまでに時間がかかる。「センセー!ヒッサッシッブッリ」と言われて「おっ!元気だったか?」と返事を返すものの、実は1班の学生だったか2班の学生だったか思い出せない場合が多い。いろいろ話していると「あれ、先生私の名前を忘れてる」ということがバレるのであまり長話はしない。授業が終わって採点をしながら学生1人ひとりの顔写真を印刷してあるペーパーに何度も目を通して名前と顔を一致させる作業をした。これからしばらくこんなことが続く。コートやグラウンドではあまり感じないがこんな時はやはり歳を感じる。クソ!
12年09月20日(木) 山口遠征から帰ってきた翌日(18日)、釣屋・川口・山下・山中・木原の5人は朝練も午後練もオフにした。昨日からその5人が戻って全員揃っての練習になったがディフェンスが悪い。もう何年も、ディフェンスに重点を置いた練習はしていなかった。というより必要ないと思っていた。ディフェンスはオフェンスのダミーをやっているだけで巧くなるからだ。だが、鶴鳴の選手たちからはダミーから学習するという習慣がいつの間にか無くなっていた。それに気付いたのが今年の夏だ。うかつだった。気付くのが遅れたがまだ手遅れではない。頑張らなきゃ。
追伸:ディフェンス重点の練習といってもディフェンス強化のメニューやフットワークが増えるわけではありません。これまで通りのメニューで視点をディフェンスに向けるだけです。
12年09月17日(祭) たくましくなったのは事実だが、今日はそのかけらが少し見えただけだった。もちろん原因は疲労だ。それも、A選手は頑張っているが他の4人が呼応してくれないとか、B選手がもつれ合いの中で踏ん張ろうとしているが、誰も助けてくれない。というような場面が続くのである。全員頑張れとは言わない。だれか1人頑張ってる時にあと1人でいいからそこに絡んでくれと言いたいのだ。それができれば試合の様相がガラリと変わるのだが…。ま、それも実力のうちとわかってはいるけど。そんなわけで今日は1勝2敗だった。長崎には台風が過ぎ去ってから帰ったが、まだ吹き返しが残っており、特に大村湾沿いは横風がひどくて時速70qぐらいで走った。腕に筋が出るほどハンドルをしっかり握って運転した。
追伸:徳島城北の富田先生から宇部でおみやげをもらった。高そうなお酒だ。インターネットで調べたら7000円ぐらいするらしい。俺ウィスキーなんて飲めないから5000円で譲ります。どなたか要りませんかあ? 
12年09月16日(日) 九州地方は台風で大変らしい。特に明日の明け方から午前中にかけてがピークのようだ。状況によっては明日の台風を避けて今日中に帰ろうかと思っていたが、却って台風が過ぎ去った後の明日夕方帰った方がよさそうなので帰崎を遅らせた。さて、今日は合宿2日目だが、さすがに8人での強化試合はきつい。勝てる試合を二つ落として最終的には2勝3敗1引き分けだった。でも逞しくなったのは認めてやりたい。
12年09月15日(土) 台風から逃げて宇部に脱出して3日間強化試合をします。オープンスクールと重なったので、14人学校に置いて8人のメンバーで参加します。メンバーは木原(2年)川口(2年)釣屋(2年)山下(2年)山中(2年)古賀(1年)森塚(1年)森(1年)です。午前移動で午後のみ試合。4つやりましたが全敗でした。こうして強いチームとやると巧い選手よりも身体が強い選手が役に立ちます。というわけで、学校で練習する時はBチームに入れている木原はフルタイムスタメンで使いました。明日も同じだと思います。
12年09月12日(水) 1ヶ月以上延期になっていたつばさ保育園イルカウオッチング本日実現。大人社会のごたごたが昨日ようやく片付いたものの、心の中にはまだもやもやが残っていました。それが、こどもたちの顔を見ていたら一気に吹っ飛んでしまいました。やっぱこどもって天使ですわ。
12年09月09日(日) 心配された天候も保ち、無事体育祭ができました。昨年のアジア大会を経験してから大きなイベントであれ小さなイベントであれ、イベントの出来映えよりもそこまで持ってくる段取りと裏方の仕事の方に私は目が行ってしまいます。裏方といえば、短大では日曜日なのに用務員さん総出(3人+助っ人1)で校内の清掃作業をなさっていました。明後日(11日)から2日間、第3者評価委員が本学に来学され、大学運営が適正になされているかどうかの査察があるのでそのための環境整備なのです。大学は高校と違って放課後に学生が掃除をするということがなく、すべて用務員さんの手でなされます。普段からこまめにまったく手を抜かずに校内の手入れをされている姿にはいつも頭が下がります。今回、日曜日なのに出てきて作業をしなければならなくなったのは、本来ならば9月24日の後期授業開始に間に合えばいいのですが、上記の理由で作業が急がれたことと、最近用務員さんの1人が辞められて、夏休みの間に行う廊下や教室のワックスがけが手間取り、草取り等外回りの作業に手が回らなかったからだそうです。用務員さんたち、本当にお疲れ様です。そしてありがとうございます。
12年09月08日(土) 今日は体育祭本番でしたが、昨日の昼の段階で8日は中止し9日に順延と決定していました。なので今日は練習実施。結果は一昨日と同じで不可。チーム全体が不可なのではなく個人個人が不揃いなので不可なのです。みんな成長しました。でも厳しい目で1人ひとりを見てみるとまだまだなんですよ。ボール遊びとしてのバスケットならばみんな成長してるんですが、仕事としてのバスケットという基準で見れば甘い日があったり、甘いヤツがいたりするのです。仕事人を造り上げることこそがコーチの責務ですから、手を変え品を買え指導するのですが一朝一夕にはまいりません。フー。
12年09月06日(木) 夏休み明けの練習の第1節が終わりました。出来は不可。人がやることですから結果の出来不出来が日によって差があるのは仕方がありません。でも、思いは日によって差があってはいけません。 選手達の思いのレベルがバージョンアップするには、選手達が私から「指導を受けている」という感覚ではダメで、私に「共感する」でなければならないのです。そのために、事象の取り上げ方やことばの使い方には毎日腐心します。明日は体育祭準備、明後日は体育祭本番。この2日間は練習はしません。9日(日)が夏休み明け第2節の始まりです。
追伸:背中のブツブツが治ってきたので走ってみました。高校から短大まで、行きはずっと登り坂で帰りはずっと下り坂の合計6.4q。8月17日に沖縄で道に迷ってから20日ぶり。あまりにも間が空きすぎたので、沖縄で道に迷った時よりも辛いランニングになりました。
12年09月04日(火) 8月の終わり頃から背中にブツブツができて痒いです。皮膚科に行ってマイザー軟膏を貰って塗っていますが高血圧治療剤のディオバンの薬疹かもしれないので次回診察はまだ先のことですが、今日馬場医院に行って相談したいと思っています。歳をとればいろんなことがありますね。
……2時間後馬場院長「ウーン???」しばらく様子を見ることになりました。
……5時間後、8月28日付けの状態が再発しましたが、今日は練習を途中でやめませんでした。選手1人ひとりを見ても「成長した」と感じる選手がほとんどですし、チームとしても「強くなった」と思います。ですが、「そんなバカな!」という日が時々あるのです。今のスタメンは釣屋(2年)・山下(2年)・山中(2年)・川口(2年)・森塚(1年)です。これは、3年生を棄てて来年の強化を目指しているからそうなったのではなく、3年生も含めたチームで10月の選抜予選を目指してやっているのですが力量的にそうなってしまっているのです。ですから「そんなバカな!」という現象は「若いからさ」という一言で片付けられそうですが、若かろうがベテランであろうが、スタメンを張っているならヤバイ状態になったら「ヤバイ!」と感じろよ!と私は言いたいわけです。クソ腹立つッ! 
12年09月02日(日) 心房細動と診断されたし、沖縄でのジョギングで道に迷って大変な目に遭ったので、オキシメーターを買いました。指先に挟んで電源ボタンを押せば数値が現れます。上段の数字が血中酸素濃度。これは98%〜96%が最適。下段は1分間の脈拍数。左側のバーは脈拍に合わせて上下に動きます。これがこうなっていたら死んでいるということです。死んでるか生きてるかを確認するための機器ではありませんが参考までに…
12年08月31日(金) 今週の午後の授業はすべて9月8日(土)に行われる体育祭の練習だ。色別に分かれて応援合戦や団体競技の練習をする。毎年のことだが体育祭の練習は生徒全員が一糸乱れぬ連帯意識で動く。通常の授業もこんなに熱心に受けてくれればいいのだが…。 
12年08月28日(火) 6時17分。「今日はヤメ!」。怒りでコメカミをピクピクさせながら低い声でやっとそれだけ言いました。3時40分に始まった練習が5時過ぎ、山中の不出来が全体に波及してなかなか回復しないのです。出来不出来は誰にでもあるのでそれはたいしたことではないのですが、出来の悪い状態が約1時間も続いているのに、選手たちの間に焦りや苛立ちや怒りが広がりません。そのことに我慢できませんでした。選手たちは決して手を抜いているわけではないし、やる気がないわけでもないのですが、焦りも苛立ちも怒りも表現できません。このまま練習を続ければ血の雨が降ると思って練習をやめました。
12年08月25日(土) 選手達はOFFですが私はOFFではありません。夏休み最後の高城台小学校ミニバスの指導に出かけました。7人の選手に手伝ってもらいましたが、この選手たちは今日出勤する代わりに昨日OFFにしています。私は、腰・尻・太もも・ふくらはぎすべての筋肉が痛く、加えて股関節も痛くて軽快に身体を動かすことはできませんでした。この夏特にディフェンスの見本を示した回数が多かったのが影響しているようです。歳をとるとダメージも長引きます。今日は若竹寮最後の宿直ですが、9時半の点呼を済ませたらサッサと寝ます。
追伸:嫁のことを少し話します。昨夜は夜10時半頃帰ってきました。福岡で行われたKBCAUGUSTAに出場した石川遼選手を見に行ったんだそうです。明日26日はまた福岡に行くそうです。帰りは深夜になるそうです。ヤフードームで行われるスマップのコンサートを観に行くんだそうです。メンバーは私の嫁を含めて全員70歳代のおばさん3人です。日本中のおじさんたち、「亭主元気で留守がいい」というのはホントですよ。
12年08月24日(金) 地獄の夏休みが終わりました。地獄というのは選手にとっての地獄ではなく私にとっての地獄です。晩年になってからこれほどまでに神経と体力をすり減らした練習はありません。針の穴よりも小さな出来事を見逃さず、何かあればすっとんで現場に行き、 問題点を指摘し、檄を飛ばし、見本を示すという繰り返し。成り行きやできばえを観察するということはない。すべてのことに介入し追求する。そんな1ヶ月間でした。中でも心血を注いだのが山中あかりの大改造です。ビフォーアフターを披露できるほどではありませんが成果ありです。27日から2学期が始まります。2部練はできず、放課後の3時間だけの通常練習に戻りますがまだまだ地獄は続きます。追伸:夏休み最後の3日間は神村学園を招待しての強化練習でした。部活動の監督といえば、選手をアゴで使い、威張り散らしているというイメージ(日本では)がありますが、それはごく一部の人たちです。これは進藤先生に内緒でパチリと撮った画像ですが、昼休みに彼はこうして校務分掌の仕事をパソコンでやっていました。これが現実です。遠征合宿中だというのに…。
12年08月21日(火) 午前9時開始の練習が、ドヨーンと重くてメリハリがありません。夏休みの練習でもっとも過酷だった第1節を見事に乗り切ったチームとは思えない動きと表情。警告3回目で「今日の練習は終わり」と告げました。午前10時でした。今日は午前午後の2部練だったのですが、そんなわけで時間が空いてしまったので9月末締切の短大学内業務と高校の選抜大会予選申込みなどの事務作業をチャチャッと片付けました。それでも時間が余ったので夕方グラウンドラン(5q)をしました。沖縄で道に迷ったジョギングのダメージが抜けておらず、最後は歩いているのか走っているのか分からないようなペース。32分もかかってしまいました。今日はもう何もせず漫画を読んで寝ます。明日、チームが第1節に戻っていることを期待しながら…。 
12年08月20日(月) 本当は今日の夜遅く帰ってくる予定でしたが1日早く帰れたので練習に顔を出すことができました。が、午後2時から職員のAED操作の研修が体育館で行われることになっていたので午後の練習は中止しました。私はクスリが今日の分でなくなるので午後から馬場医院に行きました。診察では洞調律だったのですが、沖縄に向かう飛行機の中で不整脈が起きたと報告したら、院長は「ウーン」と言って首を捻っていましたが、「頻脈を押さえるクスリも加えましょうか」と言ってカルテにクスリのなまえを書いていましたが「やっぱりやめとこ」と言ってまた消しました。頻繁に起こる症状ではないのでもうしばらく様子を見るらしいです。血圧を下げるクスリは、今回はまじめにきちんと服用したからなのか「お、血圧は下がっていますねえ」と言われました。血圧を下げるクスリなんて信用してませんでしたが、まじめに服用すれば効くんですね。今日は質問しませんでしたが血圧が下がるメカニズムを4週間後の診察の時に院長に聞こうと思います。
12年08月18日(土) 今日の試合は、大分には80-51で勝ちましたが福岡に96-59で負け、予選リーグ2位でした。明日の決勝リーグにコマを進めることができなかったので、旅程を1日早く切り上げて明日朝沖縄を発ちます。長崎チームは、横山(長崎西170p)と江口(長崎商173p)のターゲットエイジ2人をエントリーしましたが、同学年選手を比較すると福岡県と沖縄県の層が近年になく厚く、2年後の国体開催年は開催地出場枠で長崎は本国体に出場できますが、かなりの強化をしなければ本国体の得点獲得は厳しいと思われます。
12年08月17日(金) 今沖縄にいます。昨日沖縄入りしました。九州国体参加のためです。本当は今日の夕方代表者会議で試合は明日からなので今日沖縄入りする予定でしたが、航空会社から航空便を指定され、昨日福岡を発って20日の便で福岡に戻らなければならない旅程になりました。昨日は沖縄にだんだん近づくにつれ飛行機の中でまた不整脈が出始めました。たぶん私が沖縄を嫌いだからだろうと思います。沖縄の人が嫌いだというのではなく、沖縄という土地柄が嫌いなのでもないのですが、これまでの沖縄でのバスケットの試合すべてが相手チームではなく、暑さとの戦いで苦しんだので、そのトラウマが張り付いているのだと思います。ところが今回は飛行機から降りたら長崎より涼しいではありませんか。期待はずれでした。でもまだ不整脈は続いています。昨日は夕方6時過ぎに到着したので移動だけで終了。沖縄滞在期間中は沖縄大学の宮本先生に送迎をお世話してもらいますので、昨夜は宮本先生への御礼を込めて地元沖縄民謡ライブバーで食事会。今日は沖縄大学で練習をさせてもらい、明日からの戦いに備えました。
追伸:代表者会議には山崎壽郎コーチと尾崎雅史コーチに出席してもらいますので私はその間ジョギングをしました。ホテルコスタビスタから国道329号線までの往復。行きはほとんど下りなので13分。帰りは15〜17分ぐらいかかるかなと思って走りましたが、折り返してから40分走ってもホテルらしき建物が見えません。道を間違えたらしいのです。携帯も持っていないしお金も持っていない。持っているのは短パンのポケットに入れたルームキーだけ。道端に座り込んで流しのタクシーを待つこと20分余り。やっと捕まえたタクシーの運転手さんにルームキーを見せ、「長崎から来たんですがジョギング途中に道を間違えたみたい。ホテルに着いてからお金払うから乗せてって」と言って送ってもらいました。料金は860円。基本料金が500円なので6区間も見当違いの方角に走っていたわけです。ホント、熱中症で倒れるかと思いました。 
12年08月15日(水) 最初に8月2日付けのこの欄の補足説明をします。ペナルティを科すというのは、スリーメンブレイクとLMUの練習で、シュートを1本落とせば1往復増えるというペナルティが増えただけで、できが悪かったから練習時間を延長するとか、休養日を取り上げて練習させるというようなペナルティではありません。さて、過酷な13日連続AMPMが続いた後の夏休み最初の休養日明けの12日。ドキドキしながら練習を見守っていましたが確実にバージョンアップしていました。ホッ。今日は休養日明けの第2節目開始から4日目。ちょっと中だるみ状態だったので”喝!”。少し時間がかかりましたが選手たちは目を醒まし、無事今日の練習を終えました。脱落者が徐々に復帰し、川口もフルコートランのメニュー以外は参加できるようになりました。明日で第2節目の練習が終わり、3日間のオフに入りますが、20日の第3節開始日のさらなるバージョンアップを予見させる終わり方をしたいと思います。
追伸:練習後寮に帰る路上はまだ5時前だというのにもう爆竹の音がにぎやかでした。今日は早く帰らないと街中は交通規制と人の波で身動きがとれなくなります。
12年08月11日(土) 深夜から明け方にかけて久住地方はカミナリを伴った雨。よって登山は断念し、日田市中津江村の鯛生(たいお)金山の地底博物館を見学して長崎に帰りました。こどもたちを乗せる時は必ずクルマ酔いする子がいるので、バウンドさせたり急ハンドルを切ったりしないよういつも気をつけて運転するんですが、今回は昨日の岳切渓谷への道も今日の鯛生金山への道も曲がりくねった一般道だったのでこれまでの運転の中で最も気を使いました。ぐったり。
12年08月10日(金) 今日と明日は、選手にとってはこの夏もっとも待ち遠しかったOFF。私にはOFFはなく、学童クラブつめくさの久住登山の運転手と添乗。今日は大分県院内町の岳切(たっきり)渓谷で川遊びをして明日早朝久住に登ります。こどもたちは何をしでかすかわからないので目が離せませんが、いつも元気を貰います。
12年08月08日(水) 徳島城北の富田先生が来崎されました。広島皆実高校で合宿後一旦徳島に帰ってからの来崎です。皆実での合宿中にみんなから還暦のお祝いをしてもらったと、嬉しそうに言ってました。今回の来崎は、85歳になられるお父さんが長崎市出身で、そのお父さんが9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参加されるため、その付き添いで来崎されたのだそうです。夜、一緒に食事をしましたが落ち着くところは食べ物の話でも観光の話でもなく、結局バスケットの話。合わせて130歳になるのに…。 
12年08月07日(火) 夏休みの練習の中で最も過酷なのが7月28日から8月9日までの13日間。今日まで不休で持ち堪えてきたのが釣屋・山中・森塚の3人。鶴鳴の主力として働かなければならない8人のうち、この3人を除く5名の選手は病気・ケガ・インターンシップ・大学のオープンスクール参加などなど、それぞれ理由はあるものの全員揃って練習できた日がありません。大事な時に仕事をすべきヤツがコートに居ない。そんな状況に歯ぎしりしながら踏ん張ってきた釣屋と山中が今日の午後遂にパフォーマンスダウン。短大の体育館は風通しが悪く、35℃以上。こんな状況の中、13日間パフォーマンスを維持するのは至難の技です。私も昼休みにロードを5q走りましたが、外気温はアスファルトの照り返しもあって36℃(あとでわかったんですが、そのまま測定を続ければもっと温度は上がったみたいです)。茹で上がりました。釣屋・山中の奮闘を無に帰させることは絶対にできないので「この夏を乗り切れば大きな財産が残る」と信じて鬼になります。 
12年08月06日(月) 心房細動と診断されてから2週間目。再び馬場内科医院に行きました。きちんと服用し続けたディオバン(血圧を下げる)とプラザキサ(血栓をつくらない)が切れたからです。馬場院長は私の脈を取りながら「あれっ、心房細動が治まって洞調律に戻っている」と言われました。「発作性の心房細動と洞調律を行ったり来たりしてるんだなあ」ということでした。引き続きこの薬を服用しながら様子を見ることになりましたが、最後に「激しい運動はダメですよと言われると困るんですが」と私が言うと、「うーん、これが普通の患者さんならそう言うんですが、先生はこの心電図で30年間も走り続けて居るんですからねえ」が院長の答えでした。
12年08月02日(木) 山崎語録コーチ心得「実践編」の16に”練習内容を報復手段に使うな”というのがあります。練習の出来が悪かったからとか、試合に負けたからという理由でお仕置きやペナルティを科すなという意味です。練習というものは「上手くなりたい」「強くなりたい」という気持ちでやるものであって、「ペナルティを逃れたい」とか「このお仕置きから早く解放されたい」という気持ちでやるものではないというのがその理由です。しかし、6月の高校総体以降、ペナルティを科す練習が続いています。私の本意ではありません。選手が自分で自分を追い込むことが期待できないので仕方がないのです。さらに悲しいことは、そんな練習を続けているとたくましくなっていくどころか脱落者が増えていくという実情です。中には、表向きはケガや病気による脱落ですが、真の理由は心が練習から逃げているという選手もいます。ですが、今年の夏の練習は私のコーチ生命をかけた勝負ですから脱落者が出たからと言って引くことはできません。ここで言う勝負とは、試合の勝ち負けではなく、山崎純男の手にかかれば若者の人間性は改造されるのか、山崎純男にはもうそんな力は残っていないのかという意味の勝負です。備考:今日午前の部の終了時点の体育館内温度は33℃でした。フーッ。
12年08月01日(水) 基本的に、月水金の朝はグラウンドトレーニングとしています。今朝のトレーニングで、5000bを走ったあとの50bダッシュ9本目のゴール直前で川口が左足ハムストリングスに筋断裂を起こしました。ウサイン・ボルトが2005年にヘルシンキで行われた世界選手権でハムストリングスの筋断裂を起こしましたが、それ以後肉体改造に取り組み、次々と世界記録を生み出しています。筋断裂は筋肉をほどほどに使っていては起きません。そういう意味では「川口も筋肉をそこまで激しく使えるようになったか」という目で見てやろうと思います。しばらくお休みです。
12年07月31日(火) 昼過ぎ、林優梨亜(2010年7月31日没)の三回忌に行ってきました。林はマネージャー志望でしたが、入部後すぐに体調を崩して入院。そして部活には戻ってこないまま天国に旅立ったのです。ご両親の心の中にはまだまだしっかりユリアが生き続けていました。
12年07月29日(日) 朝、パソコンを立ち上げてファイルを訂正し、USBに保存しようとしてペンケースをバッグから取り出したがその中にUSBがない。「エッ?もしや!」と思って洗濯機を見に行ったが洗濯槽にはない。乾燥機を開け、洗濯物を取り出した。カランカランという音がして衣類の中から転がり落ちた物体。やはりUSBだった。昨日短パンのポケットに入れたまま取り出すのを忘れて洗濯機に放り込んでしまったのだ。つい先日、ハンズフリーイヤホンを洗濯したばかりなのに。イヤホンは洗濯機で洗うと充電機能がダメになる。USBは…?。おそるおそるパソコンに差し込んでみるとちゃんと開いてデータもみんな無事。ホッ。それにしても俺はバカすぎる。 
12年07月27日(金) 昨日、つばさ保育園の年長児21名の久住登山のお手伝いをしました。お手伝いをし始めて5年目になりますが、毎年園児から力を貰います。今年も落伍者なし。帰路、アフリカンサファリで動物と触れ合いましたが、こどもの回復力はすごいです。下山の途中「つま先が痛い」と言っていた子もサファリではケロッとしていました。
12年07月25日(水) 今日の午前はグラウンドトレーニング。時速9qぐらいの超ゆっくりペースで5q走ってみましたが、この程度では腹も心臓もおとなしくしていて暴れませんでした。他人に迷惑をかけたくはないので、無理しない程度に走りながら、ディオバンとプラザキサは欠かさずキチンと飲み続けようと思います。 
12年07月24日(火) 昨日は最終授業までちゃんとやりましたが、夜9時頃身体の具合がおかしいので熱を計ったら37.9度でした。またカロナールを飲んで寝ました。今朝は2回下痢しました。そこで今日はまず銅座のまさき内科医院に行って診察してもらいました。22日がウィルス性胃腸炎、1日おいて細菌性胃腸炎に罹ったんだろうということで薬をもらいました。そのあとついでに、梅香崎の馬場内科医院にも行きました。馬場院長は循環器専門の医師です。九州国体が終わったらすぐ原爆病院で私の不整脈を診てもらう予定にしてましたが、それを早めて馬場先生に診てもらうことにしたのです。不整脈の原因は心房細動でした。心臓がパタッと止まって死ぬのはいつでもいいのですが、血栓が脳血管に詰まって脳梗塞になるのは周りに迷惑をかけるので、そうならない処置だけはしておかなければなりません。両方合わせて5種類のくすりをもらいました。生きるって難しいですね。
12年07月23日(月) 夜中の2時にロキソニンを1錠飲みました。朝8時にカロナールを2錠飲みました。9時半に起きて熱を計りましたが平熱に戻っていました。目がおかしいので鏡で見るとが腫れています。麦粒腫ではなさそうです。こんなものが高熱の原因ではないはずだし、熱の原因がさっぱりわからないのが悔しいです。
今日は10時40分から午後4時10分まで3コマ連続の講義です。しかも前期最終講義で授業アンケートも取らなければならないので絶対休めません。また熱が上がらないか気にしながら授業をしましたが、午前中は無事切り抜けました。この分だと午後も大丈夫みたいです。お騒がせしました。
12年07月22日(日) 午後の練習を中止にして轟の滝へ納涼に行きました。でも、納涼どころか凍え死にそうでした。このところの雨続きで水量が増しているのと日が差さない日がずっと続いていたので水温がとても冷たいのです。いつもなら滝壺のこちら側から滝の裏側まで泳いで行くことができるのですが、今日は途中で滝の勢いに押し戻されてたどり着けませんでした。挑戦をあきらめて岸に上がりましたがあまりの冷たさに私の手も足もしわしわになりタクアン状態。そのまま上げって着替え、マイクロバスの暖房をつけて暖をとり、再び滝壺に様子を見に行きました。通常ならアザラシ娘たちもこうして日差しで暖まった石の上で身体を温め、また滝壺へ飛び込むことができるのですが、今日は滝に居る間ずっと雨で石も暖まりません。本当は1時間半ぐらい遊んで帰るつもりでしたが45分で切り上げました。ところで、私は帰りのバスの中ではずっとフシブシが痛く、熱っぽい感じでした。今日は身体中が痛くなるほど泳いでもいないし、なんなんだろうと思いながら学校に着いて熱を計ったら38.5℃。風邪症状もなし。強いて言えば少し腹がゆるいかなというぐらい。とりあえずロキソニンを飲んで寝ますが、明日の私はどうなっているのでしょう?
12年07月20日(金) 16日(祭)。高校1年生のターゲットエイジクリニックをやりました。総員21名。まだ絞り込んではいません。鶴鳴の選手の指導ならばもっと手軽なんですが、ターゲットエイジは要点も要領もわからい選手が多いので、見本を細かく丁寧にやって見せなければなりません。しかも1回や2回ではわかってくれないので繰り返し繰り返しやります。午前中だけのクリニックでしたが、終わるまでに汗でびっしょりになったシャツを3回着替えました。翌17日の鶴鳴の練習はグランド日。身体はきついし心臓は3回ぐらい止まるしで、2kmでギブアップしました。18日は少し疲れぎみながらも普通に鶴鳴の練習の指導をしました。19日はまたグラウンド日。5km 完走はできましたが、途中心臓が1回止まったので調整のために歩きました。だから、ゴールタイムが予定より20秒遅れました。ゴールした時は疲れて倒れ込みました。20日(今日)の朝、起きると身体がギシギシ言います。背中・臀部・足すべてが筋肉痛なのです。これでやっとわかりました。今週身体が不調なのは、16日のターゲットエイジクリニックで見本を示し過ぎた後遺症でした。歳をとると筋肉痛も忘れたころにやってくるんですね。フーッ。
12年07月17日(火) 1992年(平成4年)の夏は終業式から夏休み終わりまでの43日間のうち、休養日の17日間を除くすべての日にグラウンドを走った。計26回だ。前年のインターハイでは優勝したがこの年は県総体の決勝で純心に負け、インターハイにすら出られなかったからだ。何か特別なことをやり抜くことで次の選抜予選に向けての機運を高めたかった。その時は、真夏の炎天下で走らせていても熱中症のことなどまったく気にならなかった。
今年、県総体後の練習は基本的に月水金はグラウンドトレーニングを取り入れることにしている。それは、夏休みに入っても続けるが夏休みは午前の部の最初にやろうかと思っている。午後だと気温が高くなるので熱中症の心配をしなければならないからだ。そんな心配をすること自体が最近勝てない原因かなあ。
12年07月14日(土) バイクで長崎駅に行ったがカモメ6号は運行停止。運行再開のメドは立たないとのこと。しかも、新鳥栖でえ乗り換える予定だった九州新幹線のさくら409号も運行見合わせ中だという。通常ならこの時点で「やめた」となるところですが、今日はJRを直ちにキャンセルして学校に戻りCUBEに乗り換えました。こうなりゃ高速道路を走ろうというわけです。そうまでして鹿児島まで行こうとした理由を説明しますね。今日の午後と明日の午前中、川内アリーナでJBA主催のコーチ研修会が開かれるのです。コーチライセンスを持っている人は義務研修です。その、義務研修であるということはどうでもいいのですが、今回の講師が私のもっとも尊敬している佐藤先生(宮城明成)と星澤先生(神奈川金沢総合)のお二人であるということと、開催地が、いつもお世話になっている鮫島先生や進藤先生の地元鹿児島であるという2点が、私をそうまでさせた理由です。
ところが…。長崎を発ってすぐ、高速道路の電光掲示板に「嬉野→鳥栖大雨のため通行止め」という表示が出ました。私はすぐ、進藤先生に携帯(ハンズフリーイヤホンですご心配なく)で連絡をとり「こりゃ行けないぞ、俺長崎に戻るから」と言いました。そして、大村インターで降りて長崎に戻るつもりでした。するとすぐまた「新鳥栖から鹿児島までの九州新幹線は運行再開されたそうです」 と、進藤先生から連絡が入りました。それを聞いて私は、「嬉野で降りて国道を走っても、新鳥栖から新幹線に乗れば行けそうだな」と思い、大村で降りずに嬉野まで走り、そこで降りて国道34号線を走りました。しかし国道34号線も大雨のため武雄で通行止め。迂回路の国道207号線は冠水で片側通行の場所があり、ノロノロ運転どころかピタッと止まって動かない。正午過ぎてもまだ佐賀県の白石町を抜けられず、イライラしているところに同じクリニックに出席するため一足先に鹿児島に向かっていた沖島先生から携帯メールが入りました。「山崎先生が新幹線で鹿児島に向かうという話を聞きました。私は今新鳥栖駅に居ますが新幹線は11時以降運転を見合わせていていつ再開されるかわからないそうです」。私はそのメールを見たとたんにUターンして長崎に向かいました。帰り道、鳥栖方面行きの反対車線は大渋滞。長崎に帰り着いたのは午後3時半頃でしたが、午後4時頃ラジオで高速道路の規制解除という放送があったそうです。今更手遅れだよ!
12年07月13日(金) 昨日の練習終了時点で、体育館の壁に取り付けてある温度計と湿度計の表示は、気温27℃で湿度84%でした。汗がしたたり落ちるので練習をとめて長話などできませんでした。やむなく集合をかけるときはコートのラインの外に選手を立たせて私がコート内から話をしました。今日は午前10時半時点ですでに気温27℃湿度85%です。結露ですべってケガをさせないように気を配らなければなりません。それと、明日鹿児島行きの新幹線が運行されるかどうかも気がかりです。ウーン。 
12年07月11日(水) 山中は2日間休場して今日の朝練から復帰しました。1ヶ月の休場は覚悟していましたが2日で復帰しました。だからといって嬉しくもなんともありません。要観察に変わりはありませんから。おそらく山中の足首痛は、短期間で特定の部位に集中的に負荷がかかった一過性の使い過ぎ症候群だったのでしょう。使い過ぎ症候群ということばは、踵骨骨端症・足底筋膜炎・疲労骨折(足の甲・スネの骨)・オスグッドシュラッテルなどなど、長期に渡ってその部分に無理な負荷をかけ続けた時に起こる症状に使うものです。だから山中の場合は「一過性」ということばをアタマに付けました。本当はこんなことばはないはずです。山中に限らず、少し無理をしたり壁に突き当たったりした時に壊れてしまうガラス製品が多いチームですが、ガラスを鉄に変えることはできないので、せめて芯入りガラスぐらいにはするつもりでしっかり観察しながら鍛え続けていこうと思います。
12年07月10日(火) 4日付けのこの欄に山中のレイアップシュートの特訓のことを書きましたよね。でも、スピードドライブになるとダメなので、朝練やフリー練習の時間帯にスピードドライブを練習させました。どういうふうにダメなのかというと、山中はスピードドライブになると、ボールをそこらへんに放り投げるのです。具体的にいうと、ボールを手のひらにちゃんと乗せてリングまたはバックボールドにていねいに置いてくるという過程ができないのです。その特訓の結果、5日目にして足首痛になり昨日のグラウンドトレーニングを休場しました。明らかに使い過ぎ症候群です。コーチのみなさん、練習というものはやり溜めができるものではなく、毎日、選手にしっかりした目的意識を持たせ、自己評価をさせながら、時間つぶしではなく無理もしていないという訓練を積み重ねていくことが重要だということを常に念頭に置いて選手を鍛えてください。70歳、コーチ歴46年、「スポーツ医学についてはかなり勉強してるぞ」と自負している(思い上がりかもしれませんね)私でもこんな失敗をするのですから。
12年07月06日(金) FIBAASIA大会報告書がやっとできあがった。それを持って今日は御礼廻りだ。範囲は諫早市の丸高商事から長崎市深堀の三菱長崎機工まで計23件。5時間かかった。最後が長崎市繁華街の長崎経済新聞と小柳スポーツの2社。それが終わって街中の100円(30分)パーキングからクルマを出そうとして精算機の数字をピッピッピッ。そして確認ボタンを押したら500円と表示された。「高っ!街中ってこんなに高いのか」と思いながら500円玉を投入。すると隣りのクルマのストッパーがギギーッと下がるではないか。10番を押したつもりが11番を押していたのだ。500円と表示された瞬間に「おかしい」と思い、よく調べて訂正ボタンを押せばいいのに何か考え事をしていた私は「高い!」と思っただけですなおに500円投入してしまったのだ。「バカかお前は!」と自分のアタマを殴りたくなった。しかも、その時財布には1万円札と小銭が35円しか残っていない。アーケード街の電気屋に行って買わなくてもいい電池を買っておつりを貰い、パーキングに向かった。クソむかつく!
12年07月04日(水) これは山中のレイアップシュート特別練習の画像である。ミニバスよりも低いリングを使ってリリースの練習をさせているところだ。山中は何をやらせてもうまい。が、鋭いドライブのあとのレイアップシュートをしばしば落とすことがある。私は、山中がうまい選手であるだけにこれを「たまたま手がすべったんだろう」という軽い見方をしてしまっていた。山中が技術的に未熟な選手であれば見過ごさなかっただろうと思う。思い込みというのは怖い。山中のレイアップシュートを解剖してみたら、ボールをしっかり手に乗せてリングまたはバックボールドに置いてくるリリースではなく、最後の瞬間手のひらのむきが横を向いているので、ボールを置いてくるシュートではなく、ボールが手からこぼれ落ちるシュートになっているのだ。こんなことを1年以上も気が付かないままだったなんて…。悔しい!
12年07月01日(日) 昨夜は西澤教授からいただいたリサーチメソッドに研究室で目を通して復習をしていたら、いつのまにか居眠りをしてしまってそのまま研究室のソファベッドで寝てしまいました。というわけでオリンピック最終予選の韓国戦は見られませんでした(研究室ではBS放送は見られない)。 今朝起きたのは10:10。昨夜の就寝が遅かったわけではありません。こんなに遅くまで寝ていたのは久しぶりです。金土日は走っていないのですが、身体が相当疲れているようです。
12年06月29日(金) 洗濯機に放り込んだ後、インターネットで同一機種の購入申込みをしていたハンズフリーイヤホンが午前中配達の宅急便で届きました。同一機種にしたのは、電源アダプターや耳かけフックなど、失くしたり壊したりした時にスペアとして使えるからです。洗濯機に放り込んだヤツは、当初使用不能だったのですが翌日使えるようになりました。ですが、スタンバイ時間8日間、連続通話時間6時間の機能がダメになり、スタンバイが半日保たなくなってしまいました。でも、棄てるのはもったいないので予備に取っておこうと思います。
備考:只今期末試験まっただ中。明日と明後日は2日続けてOFFです。 
12年06月25日(月) 6日前のこの欄に、富山国体の決勝戦のスコアだけが記入漏れで残っていないと書いたが、それを見た富山の林五月様から封書で公式スコアが送られてきた。「ひょっとしてこれですか?これであってほしい」というコメント付きで。ドンピシャ。この資料だ。さっそくPDFファイルにしてGames & Schedule-archives-2000-boxに取り込んだ。林五月さんには富山国体の長崎少年女子チームを担当してもらった。大変お世話になったので、帰り際に帽子と国体ジャージの上下を脱いでその場で記念にプレゼントし、私はフツーのトレーニングウエアを着て富山を発った。林さんありがとう。スコアを送ってもらったことも嬉しいが、私のホームページをずっとチェックしてくれていることがまた嬉しかった。
追伸:浦町には翌年の宮城国体の帰りにも立ち寄ってご挨拶した。また、私はマンガが大好きで、中でも原秀則氏の作品はすべて持っている。その中に“ほしのふるまち”というタイトルの切ないラブスイトーリーマンガがあるが、この作品の舞台が富山県の氷見市である。登場人物やストーリーだけでなく、コマの中の背景や登場人物の富山弁がとても懐かしく、故郷に帰ったような気持ちでこのマンガを読んだ。 
12年06月24日(日) 久しぶりにやってしまった。携帯電話のハンズフリーイヤホンを短パンのポケットに入れたまま洗濯機に放り込んでしまったのだ。ハッと気がついて洗濯機を止め、短パンのポケットからイヤホンを取り出し、ドライヤーで乾かしてみたが手遅れ。もう使えはしない。ア〜ア。 
12年06月23日(土) つばさ保育園の結子ちゃんが「かかとが痛い」と言い出してから約1週間。昨日結子ちゃんの踵を触ってみたがどうも踵骨骨端症のようだ。そこで今日、楢林整形外科医院に連れて行き、Dr米倉に診てもらった。予想通り踵骨骨端症だった。運動好きの小学生の男の子にこの症状が出ることがあるが、保育園児のしかも6歳の女の子に出るのは珍しい。もっとも保育園児と言っても結子ちゃんは体格も動きも小学生並みだし、女の子と呼ぶにはたくましすぎるこどもではあるが…。ボールで遊ぶ結子ちゃんの動きに、「エッ?この子6歳?女の子?」と思わせられることがある。彼女はまちがいなく10年後にはナデシコ入りして全日本女子サッカー界で活躍できる素質を持っていると思う。全日本と言えば、昨年の9月23日付けのこのブログに次のようなことを書いた。
久しぶりの高城台ミニバス。女の子は常連の4人だけだったが男の子が増えていた。みんなたくましくなっていた。ちいさな男の子が見学に来ていた。名前は寺島慧(けい)くん。3歳だそうだ。これは逸材だ。12年後には田伏を抜くスターになること間違いなし。
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この2人が大きくなるまで元気でいて、全日本チームで活躍する姿を是非見てみたいと思う。
備考:踵骨骨端症について説明します。まずこれがおとなの踵のX線画像。これがこどもの踵のX線画像。こどもの踵の骨は、本体から離れた骨片がありますね。これと本体との隙間は軟骨で埋められ、そこから新しい骨が次々と造られていきます。踵に限らず、手首にも足首にも、こどもの骨の端っこにはこのような隙間があります。軟骨はX線に映らないので骨片と本体が離れているように見えるのです。この骨片みたいなのを骨端核と言い、これが運動によって繰り返し上下に引っ張られることによって痛みが起こるのを踵骨骨端症といいます。治療は、過度な運動を控えるしかありません。ま、アキレス腱のストレッチングはいくらか進行を食い止めるには効くでしょう。
12年06月22日(金) 今日は卒業アルバム用幼児教育ゼミの写真撮影。山崎ゼミは3番目で13:45。この7人で、これまでの研究にMKS幼児運動能力検査を加えて「幼児の運動能力と環境の影響」について調べます。 
12年06月20日(水) 午後1時半から県立総合体育館で長崎国体の全競技スタッフ研修会。それが5時半まで。6時半からは場所を変えて懇親会。それは8時半まで。昨年の国体開催地山口県の体協参事佐竹氏を招いて講演もしてもらった。分科会や全大会でいろいろ意見が出たが、肝心なのは現場が具体的に動くかどうかだ。ターゲットエイジ諸君!140万県民の夢を背負う気概はあるか? 
12年06月19日(火) パソコンの中身を整理していたら、エクセルファイルばかりを保存しているフォルダの中にHP未掲載のファイルが残っているのを見つけた。それは、1999年(H11)から2003年(H15)までの公式試合のボックススコアだった。さっそく年度ごとにPDFファイルにして掲載した。富山国体の記録は、書式は用意してあるがスコアが入力されておらず、空白セルのままだ。決勝で地元富山に1ごゴール差で負けたが、なかなか頑張った試合だった。だから記録に残しておきたかったが…。残念。archivesの2000年のUに富山国体の報告は掲載しているが、それには書いていない決勝戦の裏話がある。富山国体の長崎少年女子の宿舎は砺波郡福野町の浦町公民館だった。決勝戦は富山との対戦だから当然観衆はすべて富山応援団である。しかし、長崎ベンチ前の一角だけは長崎がナイスプレイをすると長崎県のマークが入った小旗を振り、声援を送ってくれる。それは浦町の町内会の人たちだった。ハーフタイムに私はベンチの向かい側の観客席に行き、「ありがとう。でも、そんなことしてたら国体が終われば村八分にあうよ」と言った。そしたら世話人の方が「そんときゃ浦町住民は町民税払いませんから」と言って「ガハハハ」と笑った。
12年06月15日(金) 一昨日、県外の某高校のY監督から相談の電話があった。Y監督は今春赴任したばかりで、しかも引き継いだチームはインターハイ出場はほぼ大丈夫。だが、決勝で当たると予想されるのが全国トップレベルのチームでそこに4月と6月の地区大会で2回勝っているから本番のインターハイ予選(6月21−24)でも絶対勝ちたいのだ。電話の内容は、本大会を前にして地区大会以後のチームのもって行き方をどうすればよいかという質問である。私はチームを創る初版の第3章「練習は隔日1時間半」に書いたことを話した。これは39年前の私の考え方だが今でも変わってはいない。
 全国大会は八月の中旬過ぎに行なわれる。九州大会から約三週間後だ。その三週間の練習は1日おきにしかしなかった。しかも1日の練習は1時間半で終わった。練習内容は大半がディフェンスの練習である。それも、練習の出来がよくても悪くても1時間半でピタッとやめる。終わってから個人練習をするのは一切禁止だ。猛暑の中での練習だから翌日まで疲労を残さないようにするためである。過去の実績からして九州は全国的にもレベルが高い地区だ。だから九州大会に続いて全国大会でも優勝したいと思っていた。そう思っていながら練習時間を減らすのである。本音を言えば多少不安ではあった。「もう少し練習した方がいいかな」とも思ったが、過去のチーム創りで、この「もう少し…」で何度も失敗している。それが強く心に残っているから思い切ってこの方針を押し通した。 私は溺愛タイプのコーチである。しかし、このころの私は、溺愛から脱皮しなければならないと自分に言い聞かせていた。だから、選手の顔を見ない日は寂しかったが練習時間の1時間半以外は一切選手の顔を見ないようにした。遊びに連れていく事もなく電話をかける事もない。1日おきの休みの日には選手がどんな生活をしているのかも知らなかった。 練習は、一通りの事をやり遂げたのであとはコンディションを整えるだけだというものではなく、ディフェンスの課題が山ほど残っている。選手も九州大会でこの事はよくわかっているから1時間半の練習は真剣だ。そして、私が何も言わなくても練習の出来がよいのか悪いのかがわかる選手たちばかりだったから、私が注意してやるのは選手たちだけではわからない技術のポイントだけで、精神面の事で注意しなければならないような場面はまったく無かった。
補足:上記内容は説明不足なので付け加える。オフェンスは心理的な要素が多く含まれるので試合前は気になることがあってもいじりすぎるな。ディフェンスはひたむきに頑張れば結果が出ることが多いので、試合前でもガンガンやれ。別の言い方をすれば、試合前はあれこれ考える知的な練習はするな。ワーッと元気よくやってサッと終われということを言いたいのである。
12年06月10日(日) 体育教官室の模様替えをしていたら数枚のペーパーが見つかりました。それは、平成3年(1991年)の夏、鶴鳴が中国遠征した時の日中親善大会のスコアシートでした。試合の案内報告をHPに掲載するようにしたのは平成16年から。それ以前の案内報告は紙資料で郵送していました。アジア大会の後始末も一段落して時間にゆとりができたので、3月下旬に平成15年以前の紙資料をPDFファイルにしてパソコンに取り込み、Games & ScheduleのArchivesの項に各年度毎の報告をまとめて掲載することにしたのですが、その時日中親善のスコアシートを紛失してしまったのです。それが今日見つかったのでHPに掲載しました。1991年(H03)のTをクリックすると34頁から36頁に表示されます。小磯(旧姓濱口)も「ウワーなつかしい〜」と言って見てました。ついでに言えば、親善とは名ばかりで審判ぐるみで日本には絶対勝たせないムード真っ只中での試合でした。試合終了後の鶴鳴の選手たちは青あざと引っかき傷だらけでした。
追伸:同資料33頁の日程表の27日と28日の欄に登場する「共同訓練」というのは、中国チームのヘッドコーチと私が1時間ずつ受け持って双方の選手達を指導するクリニックのことです。また、27日に登場する裁判長という名称は審判長のことです 
12年06月09日(土) 今日から3日間長崎市中総体が開催される。本校は今日と明日の2日間試合会場だ。昨日は練習を少し早く切り上げて会場作成をした。中体連からは会場貸与以外の、例えばオフィシャルや駐車場係や接待係など一切頼まれてはいない。が、「会場をつくりましたよ」で中体連に協力していると思ってはならない。オフィシャルは中学生が当番制でやるが、不慣れな生徒たちはタイマー操作など間違うだろうということが予想される。観客の中には「2階からの降り口」という標示があるのにそこから昇っていく者がいる。土足禁止区域に土足で入る者も出てくる。そのようなことが予想される箇所に人員を配置して「あ、タイマー今流れたから5秒戻して」とか「そこ、降り口ですから2階へはあちらの階段からお上がりください」とか「ここ、土足禁止になっているのでこのスリッパお使いください」などという処置ができなければ協力したとは言えない。また、このようなことが誰からも指示を受けずに自分たちの判断でできるようにならなければ一流チームにはなれない。クレインズは何流だろう?
追伸:「ここ土足禁止です」というだけでは言われた方はムカッとする。それに加えて「このスリッパお使いください」と言われれば「あ、俺悪いことしたな」と素直になれる。人というのはそういう生き物なのである。
12年06月07日(木) 昨日は総体代休で練習もOFF。今日から練習再開だ。朝練から内容を変えた。午後練は久々のグラウンドだ。4月にちょっとだけやってあとはずっとやらなかったが、それには二つ理由がある。@4月のグラウンドトレーニング後、肉離れ疑いの選手が数人出た(3月にも同じ事があった)こと。Aバスケットボールを理解させることに手間取り、グラウンドトレーニングに手が回らなかったこと。の二つである。バスケットボールが理解できたわけではないが、試合中に何度もあるドラウトは心配機能と筋持久力が原因のひとつではないかと考えてみたわけである。5000bは19分台なら合格。20分台なら「まあいいか」。21分台から22分台は「ウーン…」。23分台から24分台は「それでは県代表にすらなれんぞ」。25分台からあとは「話にならん!」 
12年06月05日(火) 後半の一時期、「長崎商業2連覇か」という試合の様相になった。そこから盛り返して勝利をもぎ取った長崎西の粘りもすばらしいが、長崎商業のしたたかさもまた見事だった。両者に」拍手。 
12年06月04日(月) 久松がACLを切った。手術するならば受傷後6週間経過しなければならないし、復帰はリハビリをきちんとやったとして最短で術後8ヶ月。久松のケガは、MCL(内側側副靱帯)とACL(前十字靱帯)の複合損傷の可能性があるので、12ヶ月は必要だと覚悟しなければならない。これは、久松には酷な言い方だが「君の高校バスケット生活は終わったよ」と宣告されたことと同じだ。試合後コートの隅に両親を呼んで事の子細を説明した。久松は私の話を聞きながら泣いていた。それを見て私は父親の前で「バカヤロー!ここで嘆き悲しんでも何も前には進まん!大切なのは、今この瞬間から今後の生活設計をシミュレーションすることだろうが!」と怒鳴りつけた。平成17年6月、唐津で行われた九州大会で鶴鳴の主将高岡がACLを切った。彼女は3年生だったので手術をさせないで筋トレを続け、12月末のウィンターカップに出場した後手術をして大学に進学した。
平成18年の県総体では二人同時にACLを切った。一人は鶴鳴のエース浜本(2年)である。彼女は手術をして翌年復帰し、現在熊本の実業団でポイントゲッターとして活躍している。もう一人は長崎西のエース兼頭(かねとう3年)である。二人とも長崎大学病院のDr米倉に診て貰ったが、私はDr米倉に「浜本は来年もあるので手術して早く復帰させたいが、兼頭は3年生だし10月の兵庫国体に出してやらなければならないので、手術は国体後でなければダメだ」と言った。
高岡はウィンターカップの試合中に何度も膝崩れ(giving way)を起こした。その度に関節軟骨を傷めたはずだ。兼頭は2回戦まで怖くて使えなかったが、3回戦で出してやらなければもう出す機会はないと思い、出したり引っ込めたりしながら使った。幸い兼頭は、膝崩れも起こさず22分の出場時間でスリーポイントを2本決めた。
高岡と兼頭からは本人のみならず両親からも感謝されたが、私は今でもこのことを「本当にあれでよかったのだろうか」と時々自問自答する。
久松は来週月曜日にMRIを撮るので、その時詳しいことがわかるだろう。その結果をもって「この夏手術する」のか「手術は10月のウィンターカップ予選が終わってからしたい」のか、本人と家族が決めるだろうが、早く手術して高校卒業後のバスケット人生に賭けるのが久松の将来にとって最善ではないかと私は思う。
追伸:ACL断裂の手術のことについては「○○県の△△病院の☆☆医師に手術してもらえば、4ヶ月でバンバン走れるようになるらしいよ」などという情報が飛び交う。リハビリがうまくいって稀にそんな実例もあるかもしれないが、1人でもそんな事例が出れば、あたかも☆☆医師の手にかかれば全員4ヶ月で復帰できるかのような情報として広がるのが恐ろしい。生き物の傷ついた細胞が元に戻るのは生物学的な修復のメカニズムに因るもので、どんな名医にかかってもそのメカニズムを短縮することはできないのだが…。
12年06月03日(日) 明日からは試合に出してやる機会がないだろうと思われる選手は今日出し切ってしまわなければならない。出してやるからには時間つぶしではなく、「戦ってこい!」という出し方をしなければならない。その気配りはけっこうしんどい。
12年06月02日(土) 今日から高校総体が始まった。毎日のように選手に悪態をつき罵声を浴びせてきた私は、今日から4日間だけは選手たちの召使いに徹する。
12年05月31日(木) 昨日は終日本学附属幼稚園で実施したMKS幼児運動能力検査のデータ処理をした。が、それも教育実習に入ったゼミの学生が6月15日(金)に戻ってくるまでそれから先には進まない。そうなると6月14日(木)までは授業が入っている月曜日を除く火〜金は、朝練のあと午後の部活動が始まるまでは何もすることがない。今日は先日入荷した黒執事Mを途中まで読んだが、不思議なもので毎日忙しくて寝る暇もなかった昨年は何とかマンガを読む時間を作り出して読んだが、今年のようにいつでも読めるとなるとむさぼり読もうとはしない。黒執事を読んでしまえば6月1日に王様のホームタウンBが入荷するので時間潰しに困ることはなさそうだ。アジア大会の仕事で忙殺されていた昨年とは雲泥の差だ。このまま堕落してしまわないように気をつけなければ…。
追伸:黒執事の作者の名(枢やな)を知らない人は棺(ひつぎ)やなと呼んでしまうらしい。枢(とぼそ)が正しい。
12年05月30日(水) 高校総体3日前なのに練習の出来は最低で、スクリメージではAチームがBチームに負けてしまいました。原因は選手間の「思いを渡す」「思いを引き継ぐ」という作業にわずかずつズレが生じ、その波紋が広がるのを食い止めることができなかったからです。でも、私がミスプレイを咎めたり、優柔不断なプレイに怒ったりしても総体本番に向けての解決策としては何の効果も得られません。今日の練習の間私がずっと思っていたのは、「こんな様相になったら アイツとコイツを交替させた方がいいな」とか「こういう時は選手にあれこれ考えさせる時間を与えず、ゾーンプレスを仕掛けたりして乱戦に持ち込んだ方がいいな」などなど、本番の采配のことでした。
12年05月29日(火) 先週水曜日から短縮授業だが月火は6校時までなので短縮ではなく普通の授業である。しかし、部活生はホームルーム免除なので練習はいつもより早く始められる。昨日は3時25分練習開始で終了は6時15分だった。総体が目の前に迫った練習であーじゃこーじゃ言っても仕方がないので、悪いプレイには目をつぶり、いいプレイを見つけて「ヨシ!」の声かけをするよう心がけている。
ところで、第4章のランは気が向いた時に郊外を走ることにしたのでバイクで候補コースの距離を測ってみた。高校から短大までは片道3.6qだ。土曜日に走った上戸町病院までは片道3.9qだった。今日は新しく測定した白木バス停まで走った。距離は片道3.7qだ。どれも急な坂道があるコースだが、今日走った白木バス停までが上記3つの中では一番走りやすい。
12年05月26日(土) 15日以降は気が向いた時に走ることにしている。それも、グラウンドではなく外を走る。1回に走る距離はおおむね7qkから8qだ。今日は戸町方面に向かい、上戸町病院の先の信号を折り返した。距離は長くなるし、長崎の町はどこを走ってもアップダウンが激しいが、黙々と同じところを走るグラウンドランに比べれば、景色が変わるので疲れを感じない。さて、次はいつ、どこまでを走ろうか。  
12年05月24日(木) 昨日から、水木金は通常より各時限5分の短縮授業になった。水木金は7校時授業で練習開始が遅くなるので少しでも余裕を持って部活生が練習できるようにという学校側の配慮である。部活生はこれから高総体までの期間は帰りのHRの時間も免除される。だが、これを私は「これで、練習時間を増やせるぞ」ではなく「部活が早く始まるので早く終わって早く帰せるぞ」と解釈する。部活生はほとんど毎日時間的にも精神的にも追い込まれた生活を送っている。それに追い打ちをかけるようなことをしても部活生が高総体で力を発揮できるとは思わない。中には、7時に練習を終わっても家に帰り着くのが9時近くになるという選手も居る。そんな生徒に「この期間ぐらいは家族揃って夕食が取れる時間に帰してあげよう」が、この短縮授業の真の意味だと私は思う。 
12年05月21日(月) 今日は短大幼教1年の体育実技前期最終日。来週の月曜日から夏休みまでは体育講義となる。本来なら、講義で基礎知識を学んでから実技に移るというのが常道だが、私は逆にする。それは、6月から7月にかけて暑さがとんどん増す中で体育実技をやるのは、汗で化粧は落ちるし着替えも大変だから、暑い時は冷房が効いた教室で講義をやった方がいいと思うからである。1コマでA4プリント1枚を制圧。みなさんも解いてみますか?
12年05月16日(水) 毎日走らなくてもいい第4章が始まった。走ることから解放されるのがこんなにも心をなごませるものだとは思わなかった。自分の身体にごくろうさまと言いたくて、昼は浜町に回転寿司を食いに降りた。でもそれも今日だけだ。義務ランから健康ランに切り替えたのだから食い過ぎに気をつけないと…。 
12年05月15日(火) アジア大会の仕事で不規則な生活になり、体重が8s増えたので昨年の9月からダイエットとランを始めた。体重は11月中旬には元に戻ったがランは続けた。70歳の誕生日までをひとつの目標にして、自分を追い込み続けたという自分史を刻みたかったのだ。年が明けてすぐインフルエンザに罹り、その後不整脈に悩まされ続けて苦しかったがとりあえずやり遂げた。自分の人生を昭和48年の全国中学大会優勝までを第1章とし、平成3年のインターハイ優勝まどを第2章とするならば、その後全国優勝はないが、70歳の誕生日までを第3章としたい。明日から第4章が始まる。第1章完が31歳、第2章完が49歳、第3章完は70歳なので、それからすると第4章完は90歳が目安ということになるが、そんなに長く生きられるわけがないし、たとえ長生きしたとしても、ただ生き延びているだけの老人ではありたくない。生きるならあくまで現役であり続けたい。そう思うので、71歳の誕生日に「この1年はこんなことを勉強しましたよ」とか、72歳になった時に「今年はこんな発見がありました」というような1年々々を送っていきたいと思う。そんな人生が送れるなら第4章完が72歳であっても悔いはない。
追伸1:今後のランは無理せず週3回程度(記録はUPしない)にする。
追伸2:夕方短大の研究室に戻ると誰かが侵入した気配!誰だ? 部屋に入るとデコレーションだらけ A BC D フムフム侵入者はゼミの学生達か。 ナニナニ? ダンボールを探せ? どこだ? あった! ブラインドの外の出窓に。中身は何だ?バナナの抱き枕か!ソファーでくつろぐ時に使えというわけだな。ありがと。
12年05月12日(土) 小磯典子(旧姓浜口)が4月1日付けで県のスポーツ専門員として採用され、本校に配属された。勤務日は日火木金土で月と水は休みだ。でも、勤務日はいつも本校に居るわけではなく、依頼されてクリニックに出かけたりすることもある。拠点は長崎女子に置くが、県全体のバスケットの普及活動と長崎国体に向けての自身のトレーニングが主たる任務である。火曜の夜は本校でクラブチームの練習に参加しているが、その他の平日は本校のバスケット部の練習に参加するのはなかなか出来ない。赤ちゃんの保育所の迎え時間と重なるからだ。が、土日に高校の遠征や試合がなくて練習がある日はこうして練習に参加し、自身のビルドアップを図っている。体育教官室には彼女のデスクもある。パソコンを持ってきて報告書を作成したりしている。両方の画像ともにやらせではないことを付け加えておく。午後はPTA総会で講演もした。顔が菩薩に近づいてきた。 
12年05月11日(金) 幼児体育の卒研の足型測定は昨年度で終了し、今年からはテーマは同じでもデスクワークが主体となる。そのデスクワークで数字をいじくって立派な統計処理ができたとしても実際にこどもたちに触れ、こどもたちと同じ生活体験をしなければ論文にまとめるイメージが湧いてこない。そこで今日は、ゼミの学生をつばさ保育園に連れて行った。こどもたちはお昼寝の時間帯なので園舎の外しか回れなかったが、まずは先日園児たちが植えたばかりの夏野菜畑を見て回り、それからつばさっこの森でヤギの小太郎と遊び、そのあと里山に入った。里山では大ブランコに乗ったがさすがに立って揺らせる者はいなかった。さらに里山のジャングルに分け入り、タケノコも引っこ抜いた。最後に園庭に入れて貰い、ロッククライミング体験で終了。お昼寝真っ最中の園児たちには会えなかったが、こどもたちの顔を思い描きながら散策した今日の体験は、論文の文言を書くときに必ず役に立つと思う。
12年05月08日(火) 倉敷遠征の最終日、釣屋の動きがまったく冴えないので「体調悪いのか?」と聞いたら「風邪をひきました」という答えが返ってきました。当然試合には出しません。翌6日はオフ。昨日から練習再開ですが、短大の授業を終えて高校に降りたら人数がえらく少ない。「どした?」と聞いたら「釣屋・山中・木原・森塚とマネージャーの桃子は早退しました」と主将の中村。「さては脱走か?」と思いましたが、しばらくして木原と山中から早退の経緯についてのメールが来ました。2人とも病院に行ったらインフルエンザB型感染と診断されたようです。いずれにしろ脱走したのではありませんでした。寮生の釣屋と森塚を陸上部の監督の林田先生の奥さん(田上病院の看護師)に世話をしてもらって田上病院の夜間診療で診てもらいましたがこっちは普通の風邪でした。ともあれ、スタメン5人(木原と川口は相手次第でどちらかがスタメン)のうち、コートで動いているのは久松だけ。これではチーム練習にならないので、この数日間は1年生のクリニックみたいな練習になると思います。 
12年05月07日(月) さて世間は今日から通常モードに戻ります。バスケットは遠征明けの昨日はオフ。私も昨日午前中はぐったりしていましたが、午後青木パパと相談して退屈しているこどもたちを釣りに連れていきました。勇歩君は経験者。理子ちゃん結子ちゃんは初心者。釣果は、勇歩君が超小型のメジナを1匹釣りましたが初心者2人はゼロ。でもこどもってすぐコツをつかみます。次のバスケットオフの日はまた釣りに連れて行くことを約束させられました 
12年05月05日(土) 倉敷合宿が終わった。参加チームは常連ばかりだが、福井商業は前任の林先生から石田先生に監督が替わった。札幌創成も前任の三上先生から吉田先生に替わった。石田先生の前任校は足羽高校。福井県の強化部長でもある。吉田先生は5年間中学校の教師を勤めた後スペインのマドリードポリテクニカ大学大学院修士課程を修了し、札幌に戻ってきた後縁あって創成高校の教師になられた方だ。スペイン語はペラペラ。最終日の今日、「来年は、アメリカではなく吉田先生に世話して貰ってスペイン遠征しましょう」というはなしになった。
12年05月02日(水) 遠足の目的地である市民の森が昨夜の雨でぬかるんでいたため、途中まで縦走して学校に戻り、市民の森のグランドで行うつもりだったドッジボール大会を体育館でやりました。そのあと、市民の森で食べるつもりだった弁当を体育館で食べて解散。おかげで遠征の出発時間が早くなり、こっちは助かりました。
追伸:田口裕也先生は昨日マイクロバスの運転免許を取り、今日が初運転。まだ高速道路のみ許可ですが…
12年04月30日(月) 
先生、お元気ですか?五年前の教え子がアジア大陸予選で金。ロンドンへの権利取ってきてくれました画像。と昨夜遅く、ボートの福本温子選手の師匠の松永弘之先生からメールが入りました。とっても嬉しそうでした。福本選手と松永先生のことについては、2年前(2010年)の9月13日のこのブログで紹介しています。
松永先生は大学卒業後鶴鳴で非常勤講師を務め、佐賀総体の強化のためにスカウトされて唐津商業高校に移った人です。たぶん、前回報告を受けた時は、福本選手は高校1年の時はバレーボールか何か他の競技をしていたはず。それを口説き落としてボートに転向させたと記憶しています。松永先生、執念が実り悲願達成ですね。おめでとう。
関連ニュース:ボートのロンドン五輪アジア予選最終日は29日、韓国の忠州で各種目の決勝を行い、女子軽量級ダブルスカルで福本温子(あつみ 唐津商高−明治安田生命)・岩本亜希子(アイリスオーヤマ)組が1位となり、五輪出場を決めた。23歳の福本は初の五輪出場、佐賀県勢としても同競技では初の快挙。 福本は唐津市厳木町出身。高校時代、2006年の近畿総体シングルスカルで優勝。07年から実業団強豪の明治安田生命(東京)で腕を磨いてきた。岩本と組んだ10年11月のアジア大会では同種目で2位に入るなど、実績を残してきた。
12年04月29日(日) 招待合宿2日目。午前の練習が終わる直前、第2体育館で練習しているバドミントン部監督の小川先生から内線電話がかかりました。「選手が膝を痛めたんですが…」と悲壮な声。私はベンチ采配を田口先生に頼み、第2体育館に走りましたが、倒れている選手を見た瞬間前十字靭帯断裂と判断しました。おまけにその選手が過呼吸症候群に陥りパニック状態。それで小川先生も周囲の選手も少し慌てたようです。しばらく安静を保たせた後父親を呼び、本人と小川監督の3者にケガの状況と今後のことについて説明をして落ち着かせました。その後、大学病院のDr宮本に電話して診察依頼をし、処置をすませましたが、Dr宮本との会話の中でこんなことを言われました。「先生、不整脈大丈夫ですか?ブログにあんな非科学的なこと書かないでくださいよ」。27日のブログの内容を指摘されたわけです(もちろんDr宮本も冗談半分ですが)。私も医学的なことについては勉強しているつもりですから神様のいじめなんて思っていません。ずっと前にもこのブログに書きましたが、私の不整脈の正体が、@自律神経系のトラブルなのかA心筋そのものの異常なのかB電気系統の問題なのかC冠状動脈の異変なのか、いずれ検査をしなければならないと思っています。おとといのブログは、深刻そうに書けば皆さんに心配をかけるので、冗談っぽく書いた方がいいかなと思ってあのような表現の仕方になったわけです。お騒がせしました。
12年04月27日(金) 4月に入ってから毎日続いている不整脈が今日はことのほかひどく、朝から数十秒置きに期外収縮が起きていました。5月15日までは1日も休まず走ろうと思ってずっと走ってきましたが,、今日はさすがに無理かなあと思いいました。それでも一応グランドには足を運びました。すると、それまで数十秒置きに出ていた期外収縮がピタッと治まってしまったではありませんか。走っている間も2回しか出ませんでした。これはひょっとしたら神様のいたずらかもしれません。今日は無理だと思って私が走るのをやめたら神様はずっと不整脈を続けて私をいじめるつもりだったのでしょう。ところが、私がグランドに足を運んだので「お前がそこまで本気ならいじめるのはこれぐらいにしといてやろう」と言って不整脈を止めたのだと思います。
12年04月25日(水) 好文堂書店から係長島耕作Aが入荷したという連絡が入ったので受け取りに行った。それを受け取って帰ろうとした時、壁に貼ってあるポスターが目に入った。出島の医学という本の紹介ポスターだった。私は再びレジに戻り、「壁のポスターの本を注文したいんですが…」と言ったら「ちょっと待ってください」と言って、レジの女性店員が内線電話で担当部署に電話をしてくれた。「在庫があるそうです」。というわけで今日は運良く2冊の本を手に入れることができた。私は幕末明治の歴史裏話を調べるのが大好きである。当然政治家や侍が数多く登場するがしばしば登場する政治家でも侍でもない人物が登場する。松本良順。幕府御典医で将軍の侍医だ。私が出島の医学という本を手に入れたかったのは、私が知りえていない松本良順の一面を知ることができるかもしれないと思ったのがその理由のひとつである。参考までに、長崎大学医学部構内にある良順会館とポンペ会館という建物の名前は、長崎大学医学部の創始者(1857年11月12日 安政4年)である松本良順とポンペの名前から付けられたものである。備考:良順は明治4年に順と改名している。あ、知ったかぶりだったかな?
12年04月24日(火) 渋谷西村総本店の小野寿幸さんからファックスが届きました。小野さんは渋谷センター街の理事長さんです。http://center-gai.jp/info/index.asp ファックスには宛名も何もななかったので事務室の女性が「これ先生宛てですか?」 と言って持ってきましたがまさしく私あてのものでした。すぐ小野さんには電話してお礼を言いました。昨夜は読売テレビの”グッと地球便”の録画を見ました。辻隆太君のアメリカバスケットボール留学(ユタ州ソルトレイクシティ ワン・ディエゴ・カトリック・ハイスクール)のドキュメンタリー番組です。いずれにしても、バスケットボールの文字があちこちで躍るのはうれしいです。バスケットボールをなんとかメジャーにしたいです。
小野さんありがとうございました。
追伸1:なんとなんと、県ミニバス連盟理事長の中尾善蔵先生から2枚の画像夕方6時に送られてきました。3月下旬に全国ミニバス大会に行った時に渋谷でこの看板を見て「おっ!」と思い、携帯で撮った写真だそうです。私のブログを見てすぐ送ったのだそうです。どうにかしてカラーの画像を手に入れられないかなあと思っていたのでナイスタイミングでした。
追伸2:小野さんから26日の昼、カラープリントした画像が届きました。
12年04月20日(金) 一昨日の夜、長崎県バスケットボール協会の常任理事会が開かれた。そこで、私が長年申し入れていた副会長職の辞任が認められ、昨日からフリーの身となった。私が教員になったのは1966年(昭和41年)。その頃の協会の仕事は木下先生(佐賀高校→東京教育大→長崎東高校教員→活水大学)がなんでもかんでもやっておられた。それを教員になった私が手伝うようになり、登録は総務の仕事、大会準備や運営は競技の仕事というように数年がかりで仕事内容の区分けをして今の組織の原型を作った。その後私は1977年(昭和52年)に鶴鳴学園に移籍し、その年から強化委員長をやることになった。それから14年間強化委員長を務めたが1992年(平成4年)3月に思うところがあって協会の一切の役職を辞し、2006年(平成16年)3月まで協会の役職は何も持たなかった。が、2006年4月の組織改革で、長崎国体に向けて若返った協会の舵取りを依頼され、理事長として引っ張り出された。1期2年だけという約束でそれを引き受けたが、さらに1期引き伸ばされた。2期務めたあとは理事長職をバトンタッチすることができたが引き続き副会長として協会に留まることを依頼され今日に至っていた。アジア大会が終われば今度こそ本当に辞めると言い続けてきたがそれがようやく受理された。協会の仕事がきついわけでもめんどくさいわけでもなく、バスケットに対するの情熱が薄れたわけでもない。長老がいつまでも役付きで居座り続けている組織は発展しないのだ。
12年04月19日(木) 昨日に引き続きつばさ保育園に行ってきた。今日は畑とジャングルで屋外活動をするのだ。まず最初は。みんな軍手をして、松尾のおじちゃんに植え方を習い、月組・星組・虹組と別れて夏野菜を植える。そのあとは、お母さん手作りのお弁当を里山の芝生の上で食べて少し遊んで、それからジャングルでタケノコ掘りだ。引き上げる時はみんな土だらけ。でも、こんなにいい顔をして元気に遊んだあとの汚れ物の洗濯ならお母さんは喜んでやってくれるよね。 
12年04月18日(水) 今日は開学記念日で短大学生は休み。そこで昼過ぎ、足型測定でお世話になっているつばさ保育園の里山を見に行ってきた。昨年、園の向かいの山を買い取って手を入れ、園児が遊べるジャングルに改造したのだ。面積は1万3千u。今はちょうどタケノコのシーズンで、地面のあちこちにタケノコが頭を出していた。ジャングルの木によじ登ったり、額に汗を浮かべてタケノコを掘り起こしている園児たちのたくましい顔が目に浮かんだ。
12年04月17日(火) 昨夜配信した春季選手権大会の報告書の最後の4行に私は次のような文章を書きました。
訓練は、@もともと持っているものを磨く。A新しいものを取り込む。の二つから成り立っています。その成果が、選手のプレイや目つきや態度などを通して私に「こいつ少しわかってきたようだ」とか「この子はほぼ把握したな」という感じで伝わってくればいいのですが、誰からもそんな感じは伝わってきません。ですから、セイフティリードでも射程距離ビハインドでも、「勝てる」とか「追いつける」と思えないのです。フーッ
こんな状態でこのままこれまでの練習を続けていっても、あるいは何か新しい練習メニューを取り入れても、何も変わりはしません。今一番彼女たちが欲しいのは安心と希望。私は昨夜ずっと、どうしたら彼女たちに安心と希望を与えられるか考え続け、一つの結論に達しました。それを今日の朝練で説明し、少しだけ実際に動かしてみました。要点は、第1エースを森塚、第2エースを久松にして、その2人がシュートを打ちやすいような動きの仕組みを作るというものです。これは、私の本「チームを作る」に書いてあることと同じやり方です。このHPでは、第1章54頁「価千金」に書いてます。当時の私は特発性腎出血の治療で長期入院して復帰したばかりでした。当然有能な選手は集まっていません。ですからガチガチのフォーメーションバスケットで大神と浜崎にシュートを打たせる動きで攻撃を組み立てたのです。彼女たちは私が作ったロボットでした。今の選手たちは当時の選手に比べたら能力が高いのでガチガチのフォーメーションは得策ではありませんが、拠り所が欲しいという点については同じです。久松は得点を稼ぎますが頼りない一面があります。そこにもう一枚点取り屋(点取らせ屋)が加わればまず久松が心細い思いをしなくて済む。そこから安心と希望がチームに広がると私は考えたのです。1ヶ月や2ヶ月の短期間で結果が出るほど簡単ではありませんが、根気強く取り組みます。
追伸:このように、チームの状態やケガ人が出たことなど、外部には秘しておいた方がよいのではないかと思われることまで私は公にします。それは、指導者としての終点が近づいている私は、情報や知識の出し惜しみして自分の中に閉じこめておくよりも、公にした方が若いコーチの勉強材料になると思うからです。その方がバスケットの普及発展に繋がると思うからです。
12年04月16日(月) この3日間で長崎〜島原間を3往復した。途中、グリーンロードのガードレールにロープをから畑を横断してズラーッと鯉のぼりを張ってる家があった。歳をとったせいか、こどもそのものを見るのはもちろん、こどもを祝うこんなものを見ると嬉しくなる。
12年04月13日(金)  新年度ゼミ2回目。初回は古賀智子が忌引き欠席だったが今日は全員揃った。そこで今日は研究室で食事会をしてから情報処理室に移動することにした。ご飯は私が自宅から米をもってきて電気釜で炊いた。おかずは日本一うまいメンチカツ(肉のタニガワ)。それに五島名産のアゴだしワカメスープ。デザートはハーゲンダッツだ。研究内容は、幼児の足型は一旦終了して幼児の運動能力をテーマにする。さあ、全員そろったので本格的に動き出すぞ。 
12年04月11日(水) 新年度当初は何かと行事が多い。今日から個人面談が始まった。また本日5時半から寮では消防署から指導に来て貰って避難訓練が行われた。今回は女性消防士が来て指導してくれた。たぶん女性消防士による指導は今回が初めてだと思う。それを見ながらふと思った。消防士は普段ランニングをしたり体力トレーニングをしたりして有事に備えているが、この女性消防士も男性消防士と同じようなトレーニングを日頃しているのかしら?
12年04月10日(火) 短大では2日の入学式からすでに新年度が始まっているのだが、まだ授業を受け持つ学生とは顔を合わせていなかったので新年度気分ではなかった。それが、先週金曜日の2年生のゼミに引き続き昨日の1年生体育実技で私が受け持つ学生全員と顔合わせをしたのでようやく新年度気分になった。高校では昨日始業式と入学式が行われ、今日は対面式だ。対面式のあと部活動紹介が4時頃まで続けられたが、これで一切の新年度行事は終了。短大高校ともに、授業も部活動も本格的に動き始める。さて、どんな1年になるのだろう。
12年04月06日(金) 昨日のブログを見てJXのトップ(中野→山口)が「私の子も見てください!」と、画像を送ってきた。未来ちゃん。4月4日で6ヶ月。トップと鶴屋を引退した村上(結婚した新しい名前は知らない)と慶誠の豊田は勝手に「我ら3人山崎組」と名乗っている。今年の秋、トップ親子は長崎のお祭りに合わせて里帰りするそうだが、トップはその時未来ちゃんにも俺のさかづきを貰わせたいらしい。やつらはとうとう俺をヤクザの親分にしやがった。 
12年04月05日(木) 今日はAM練習で、午後空いたので佐世保に行ってきた。遠藤由紀(旧姓松山 S62卒 42歳 ニックネームはジョージ)ベイビーのお祝いだ。3月15日に生まれた。40週ではなく、36週で生まれた(というより陣痛促進剤で医師が早く生ませた)ので未熟児扱いである。生まれた時の体重も2200gと少し小さかったがすくすく育っている。生まれたという連絡はもらっていたが、42歳の初産なので当然帝王切開だと思っていた。正常分娩だったそうだ。偉い!帰る前に抱かせてもらったが、私の手の中の居心地がいいのか寝てしまった。 
12年04月03日(火) 今日と明日はバレー部の招待合宿で体育館を明け渡しているので外でしか練習ができない。5000b・50b・筋トレを新入生に教えるにはちょうど良い機会だ。上級生も頑健だとは言えない選手ばかりだが、新入生は話にならないくらいひょろひょろしている。1年前もこんなもんだったかなあ…
12年04月02日(月) 3月28日付けで、グリーンベイのヘッドコーチのマットがイリノイ大学に移籍しました。もちろんディビジョン1の名門校です。というより、スポーツだけでなく学問でも全米屈指の大学で学生数は約3万4千人。イリノイ大学は、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校とシカゴ校とスプリングフィールド校の3つありますが、普通イリノイ大学と言えばアーバナ・シャンペーン校のことを指します。位置はイリノイ州の中ほどインディアナ州よりのところにあり、アーバナ市とシャンペーン市にまたがって設置されているのでこのような呼び名になっています。でっかい学校で、学校内に飛行場があります。昨年マットから「ボクがどこにいたとしても山崎コーチのチームを連れて是非きてください」と言われているので、チャンスがあったら行きたいと思います。ここ数年、マットは他校から毎年勧誘されていたので、自分はグリーンベイに長く居ないだろうと思い、「ボクがどこにいても…」という言い方になったのだと思います。幸運にもそんなすごいコーチと知り合いになれた自分に鳥肌がたちます。http://espn.go.com/chicago/story/_/id/7746786/illinois-fighting-illini-hire-matt-bollant-women-coach
12年04月01日(日) 昨夜は8時半に寝て今朝は7時半に目が覚めました。疲れが溜まっているのかもしれません。でも、「疲れたから休養」などと悠長なことは言ってられません。あと2年半、長崎国体まで頑張ります。