2010年度版 2010年4月〜2011年3月
11年03月31日(木) 29日から合宿に来ていた神村学園が帰った。休憩時間や昼休み等、時間があればすぐパソコンに向かう慌ただしい合宿で、進藤先生の相手を充分してやれなかった。ゴメン。明日からの日々の出来事は2011年版。
11年03月28日(月) 今日のグラウンドトレ−ニングの50b走の途中でシンが右ふとももを指でツンツンと突いているのを目にした。「どうした?」と聞いたら「筋肉痛で…」とシンは言った。「違うよそれは、筋断裂初期症状だよ。このあと走るな」と言い、そのあとはシンを全てのチーム練習から除外した。するとラツが「私も…」と申告した。シンと同じ指示をした。山崎語録コーチ心得(実践編)15に「コーチは選手よりも早くコートに立て」とある。それは今日のようなことにすばやく対応するのがコーチの重要な役目なのだぞという意味だ。新しいことを教えたり、新入生にしつけをするなど、コーチがフル稼働しなければならない時もあるが、通常の練習は繰り返し学習なのでコーチがあまりしゃしゃり出ない方がいい場合もある。ではそんな時はコーチはコートに立たなくてもいいのかというとそうではなく、まばたきすることすら節約して選手の一挙一動を見守らなければなならい。それは、選手が手を抜かないように監視するためではなく、小さな異変に気付いてすばやく対処するためである。
11年03月23日(水) 相田みつをさんのことばに出会った時は衝撃を受けた。そのあとサミュエルウルマンとかドロシーローノルトさんのことばに出会った時も感動した。そして今日また、陸上部の監督(林田先生)の机の上にポンと置かれていた絵はがきに目を奪われた。ナポレオンヒルのことばだった。山崎語録もあちこちで使われているが、それは借り物のことばではなく、私の実体験に基づいたことばで、それを読む人のある時のある体験に重なるから使われるのだと思う。だから、このようなことばに出会った時はただ感動するだけでなく「この人どれだけ修行を積んだ人なのだろうか?」とか「この人どれくらいの回数の試練を乗り越えた人なんだろう?」と思い、インターネットですぐその人の生い立ちを調べたくなる。
11年03月21日(祭) 東北大震災のニュースは放送時間が少なくなってきただけではなく内容も変わってきた。被災現場の様子を知らせる内容が次第に減ってきて、人々の思いに焦点を当てた取材が増えてきた。取材の中でつらいのは「私の判断ミスで…」とか「生き残ったのが申し訳ない」など、自分を責めることばを聞かされた時だ。被災者の方々に比べればはるかにダメージは小さいが、私のコーチ人生でも数え切れないほど悔いが残る出来事に遭遇したのでその気持ちは痛いほどわかる。「俺の判断ミスで負けた」「こんなことどうして今まで気づかなかったんだ」と、自分を責め、その思いと同じ数ほど「教員をやめよう」とか「ここから飛び降りたら死ねるよなあ」と思った。が、いつの頃からかそういう思いは消え、今では(68歳)昨日よりも半歩でも10pでも前に進んでいる自分でありたいと思って生きている。私の判断ミスで負けた選手にいくら謝っても取り返しはつかない。その教訓を生かして「先生の的確な判断で勝たせて貰った」と選手に言って貰える試合を増やすしかない。
11年03月19日(土) なかなかつながらなかった携帯電話がつながるようになった。盛岡白百合の芳賀先生は大丈夫だった。本日仙台の明成高校の佐藤先生にようやく連絡がとれた。無事だったが家はかなりのダメージを受けたそうだ。そんな中、友人のS氏から電話がかかってきた。「先生、私は何をしたらいいんでしょう?何をすべきなんですかねえ?」と真剣に聞く。「義援金は寄付したの?」「それはもう」「それならすでに行動を起こしてるじゃない。ボランティア団体の活動や、物資の輸送に関わることや、避難先として自分の住まいを提供するなど、テレビで報道されるような大きなことをしなければ何もしていないとか動いていないことにはならないでしょう」としか答えられなかった。私は20年以上前から国境なき医師団に口座からの自動引き落としで毎月寄付をし続けている。それもきっとこの災害に使われていると思う。しかし、20年以上続けている私の寄付行為が今度の災害に大きく貢献しているという自覚はまったくない。
11年03月18日(金) 今朝、短大に顔を出したら事務室の板倉氏から「先生、はい、これ」と言って手渡された色紙。高城台ミニバスの6年生からの贈り物だ。高城台ミニバスの立ち上げには私が関わり、正式コーチが見つかるまでということで携わってきたが、多忙な私では定期的に顔を出すことが難しくなり、昨年終息宣言をした。しかし、保護者会では火木の定期練習日にはできなくても、土日ならば山崎先生が来られる日があるかもしれないということで、クラブは存続することになった。という経緯で、活動回数は減ったが存続することになったので、私が行けない時は選手の中から数名派遣して面倒見たり、私が行ける時は行った。先月、6年生最後の練習会には4人の選手を手伝いで派遣したが私は行けなかった。6年生たちは体育館でこの色紙を直接私に手渡したかったらしい追伸:板倉氏は高城台小学校ミニバス保護者会の世話人であり、本学事務局職員でもあったが、この4月から本学を退職され、新しい仕事に就かれる。これまでのお世話に感謝
11年03月15日(水) 今日は短大の卒業式。その後12:30、県庁競技力向上対策課→15:00大村市役所→17:00短大卒業記念パーティ出席→途中で抜けて高校の練習へ。慌ただしい1日だ。ところで、一部の人には昨夜メールで通知したが今月下旬の関東遠征は中止した。本校で自分たちだけの練習をするか、招待合宿を組むか、近郊へ遠征に出かけるか、のいずれかになるだろう。4月第2週週末の鶴鳴杯は例年通り実施する。それにしても、関東・東北の方々は大変だ。…。
11年03月11日(金) 長崎の地を踏んでから4日目。少し落ち着きを取り戻してきた。昨夜のLOC会議の事後処理を済ませたらほんの少しだけ余裕ができたので1ヶ月ぶりに選手とともにグランドを走ってみた。陸上部も今日は本校グランドでの練習だったので、監督の林田先生に「途中で俺の心臓が止まったら後始末たのむね」」と言って走り出した。今のコンディションはタイムのことなど気にしながら走れるような状態ではないが、3キロ過ぎても不整脈は起きないので、いつのまにか「29分は越えたくないなあ」とか、「最後の2週はスパートしてみよう」と思いながら走っていた。私は、60歳の時に医科学測定の最大酸素摂取量測定にチャレンジした。選手に「粘れ!」とか「もう少しだ!」とハッパかけるのなら自分でもどれくらい辛いものなのか体験しなければならないと思ったからだ。死ぬ一歩手前まで頑張って走らなければ正確な値は出ない。本当に死ぬかと思った。スポーツ科学科の職員に「俺の値どうだった?」と聞いたら「60歳でやった人のデータがないので比較できません」と言われた。心臓が落ち着いて来たら70歳でもう一度挑戦してみようかな。
11年03月07日(月) 本当は昨日遅く長崎に帰ってくる予定だったが伸びた。博多泊まりだ。今朝は早く発てるはずだったが、福岡の銀行でJasonへの謝礼の円をドルに替えるのに手間取り、しかも太宰府付近が大渋滞で、長崎に着いたのが午後3時過ぎ。でもとにかく終わった。しかし今日中にFIBAASIA関連で1件、学校の仕事で1件、鶴鳴バスケット関係で2件片付けなければならない仕事がある。
追伸1:2日にJasonが鶴鳴を訪れてくれた時に披露したシュート練習用のグッズを動画で紹介する。@ A マグネット付き手首サポーターだ。
追伸2:今日は月曜日なので本当は選手と一緒にグラウンドを走る日だが、不整脈がまだ出るのと長旅の疲れと仕事が溜まっているのとで走れなかった。少しずつ遅れを取り戻したい。
11年03月04日(木) 広島でも八戒の親父がノリノリで、アフタークリニックが結構にぎやかなのだが、そんな写真ばかり載せるとほんとにクリニックやってるのか?と思われるので、広島編はまともなのを1枚。フーッ、明日と明後日が強行軍
11年03月03日(水) 1日と2日は長崎に帰った。が、FIBAASIAの仕事は捗らない。3日の午前中は学内研修会で発表しなければならないことになっていたが、その資料を作成し終わって、制限時間内に終わるためのリハを終えたのが深夜1時半。発表を12時に終わってクルマにとび乗って柳井に向かった。常連の顔ぶればかりで、クリニックの後がまた賑わう。しっかし、ことしはクリニック中もしょっちゅうメールチェックして長崎のLOCや日本協会と打合せをしなければならないし、こんな時に限ってプライベイトでもやっかいな事件が起こる。落ち着かない。
11年03月01日(月) 2月26日から3月6日までJason Wright Clinic で関東から九州を廻る。今日と明日はJasonにOFFを与えたので、一時帰省をして溜まった仕事を処理している(23:30現在)。昨日の埼玉県上尾市でのクリニックにはJBAの弘田氏がわざわざ上尾まで足を伸ばして見学に来られた。超忙しい人なのに…。しかも、写真まで撮ってそれをメールで送ってくれた。私の本当の気持ちはクリニックどころではなく、アタマの中はFIBAASIAの大会のことで一杯だ。しかも、認識不足でJBAには迷惑ばかりかけてる。なのに、こんなことまでしてもっては一層プレッシャーがかかる。アタマが破裂しそうだ。
11年02月25日(金) 昨夜は眠くはなかったが、レンドルミンとデパスを1錠ずつ飲んで0:30に床に着いた。「俺は眠らない人間になってしまったんじゃないだろうか」と少し不安になったが、眠ることが出来たので安心した。明け方6時に足が攣って目が覚めた。走りもしていないのに攣るのは睡眠不足のせいかな?これから今日の夕方までLOC会議の資料作成をする。時間がいくらあっても足りない。
11年02月24日(木) 福岡空港を22:20にCUBEで出たものの、運転は右折左折後のレーンを間違えないように超緊張し、何度もウィンカーとワイパーの操作を取り違えたりと、免許取り立てのような気分で長崎までたどり着いた。自宅に着いたのが0:02。それから郵便物をチェックしてすぐ短大の研究室へ。短大に着いたのが0:38。それから96通溜まっていたFIBAASIA関係のメールをチェックして添付ファイルを印刷し終わったのが明け方の6:40。一睡もせず、マイクロバスに生徒を乗せて高校に向かった。10時からは大村市役所での打合せ。昼過ぎにまた高校に戻り、5日早いバスケット部卒業式。3月1日に私が長崎に居ないので繰り上げ卒業式である。それが終わると今度は県庁へ。国体成年女子強化策の打合せだ。夜は9時半から協会スタッフとの打合せが待っている。が、疲れたなどとは言ってられない。
11年02月23日(水) 22日朝、現地時間6:00(日本時間は同日21:00)にホテルを出た。雪だ。それでも高速90号線は上り線も下り線もクルマがバンバン走っている。車線を間違える度に慎子に叱られながら無事レンタカーの返却場所たどり着いた。フーッ。空港も雪。でもこんなの平気で飛ぶのだそうだ。が、今日は出発が1時間28分も遅れた。機内放送によれば翼に氷が張り付いているのでそれを落としているということだった。というわけで、成田着は少し遅れて16:05。そこからまたJL3057で福岡まで飛ばなければならない。福岡空港の到着予定は21:55。そこからは福大若葉の池田先生に預かってもらっていたCUBEで長崎までドライブの強行軍である。
11年02月21日(月) アメリカでのHP更新は土曜日でおしまいのつもりだったがアクシデントが起きたので更新することにした。慎子のこどもの麟太郎が熱を出したのだ。市内の病院へ連れて行ったら中耳炎と診断された。保険はないので自費だ。診察料とクスリ代で246ドル。予定外の出費で慎子は痛い。ところが支払いの時レジの女性が「ディスカウント」といって支払いは160ドルになっていた。なぜ値引きしてくれたのかはわからない。一旦ホテルに戻ったあと慎子は医師の処方箋を持って薬局へ薬を買いに行かなければならない。寒いので麟太郎はホテルの部屋に置いていく。私は麟太郎の子守だ。じっとしていると泣くので私は燐太郎を抱いてホテルの廊下を10周した。廊下の窓から下界を見ると雪になっている。クルマが行き交う路面以外は真っ白だ。明日の朝オヘア空港までのレンタカー運転が心配だ。と、こっちはそんな心配をしているのに、買ってきた薬を麟太郎に飲ませたら少し熱が下がったので慎子は、「先生、シカゴ最後の夜だから夕食は絶対ウノですよね」と言う。ウノというのは日本の名前のようだが宇野でもなんでもなく、英語でUNOと書くシカゴでは超有名なピザレストランだ。ホテルから歩いて3ブロックくらいの距離だが今日のシカゴは寒い。歩きながら耳たぶが凍りつくようだった。道端に表示してある気温計は華氏28度を示していた。摂氏に直せば零下2度だ。なのにUNOには半そでのTシャツでピザを食べに来ていた人がいた。バッカじゃないの?
追伸:華氏32度が摂氏の0度で華氏212度が摂氏100度。華氏の温度はそれを180等分にして表示する。
11年02月19日(土) 今日はWisconsin Green Bayの試合を観た後慎子の同窓会をした。それが今回の旅行の最大の目的だ。同窓会をするために、シャイラとアリソンはクルマで8時間もかけてミネソタ北部の町から駆けつけてくれ、ヘッドコーチはミルウオ−キーに残ってくれた。本来なら選手達と共にグリーンベイに帰るはずだ。知らない人達のためにWisconsin Green Bayのヘッドコーチを紹介する。Matt Bollant 40歳。10年前慎子がエバンズビル大学に在学していた時にそこのアシスタントコーチをしていた。Wisconsin Green Bayのヘッドコーチ就任4年目。普通のチームだったWisconsin Green Bayen Bayを全米大学ランキング12〜14位の強豪チームに仕立て上げた。同窓会の席で「山崎コーチ、夏休みを利用してチームを連れて是非私の大学に来てください。私がどこに居たとしても…」とMattは言った。「どこに居たとしても」と、わざわざ付け加えたのはおそらく、来シーズンはグリーンベイに居ないかもしれないことを意味している。なぜなら、彼は弱小チームだったグリーンベイを就任4年目で全米ランキング20位以内に引き上げた。アメリカという国はそんな優秀なコーチにはすぐオファーがかかる。義理とか人情よりもビジネスが優先されるのがアメリカ社会だ。だから、他のチームからオファーがかかったら「自分が募集してきた選手を残して移籍するのは…」などとは考えない。ランキングが高くて給料が良いところからオファーがあったら何の未練もなく移籍する。アメリカとはそんな国だ。そのかわり、結果が出なかったらすぐ契約解除になる国でもある。ところで、NBA1試合、カレッジ女子2試合、カレッジ男子1試合の計4試合観戦したが、今回の観戦はいつもと興味が違った。長崎ではアジア大会の準備をしているので、動線や警備のことがとても気になってそっちに目が行ってしまったし、長崎のみんなもその準備で忙しいのに留守をしていて申し訳ない気持ちが常にどこかにある。さて、明日はシカゴに移動するけど、もうバスケット関係の出来事はないので、アメリカでのHP更新は本日分でおしまい。ただし、メールチェックはシカゴのホテルチェックアウトまで続ける。日本時間で23日の夜長崎着だ。しかし1日置いて25日からまた茨城から福岡までクリニックで回らなければならない。みなさんすみません。
11年02月18日(金) 今日はシカゴからミルウオーキーに移動するだけ。高速道路も一般道もExitを何回も間違えてずいぶん遠回りをした。車線がたくさんあって、右折専用車線やExsit専用車線に乗り損ねて流れに持って行かれるのだ。
11年02月17日(木) 午後3時にStevenson High Schoolを訪問。4400人の生徒がいるマンモス公立高校だ。受付のホールだけでも超豪華ホテルなみ。そこで厳しいセキュリティチェックを受けて中に入った。広すぎて迷子になりそう。廊下をいくつか曲がってアスレチックディレクターのTrish Betthauserのオフィスに案内された。それから学校内を見せて貰ったが、一番驚いたのがでっかい室内競技場で陸上部とバスケット部が練習していることだった。外周がトラックでその内側にバスケットコートがあった。ここで練習しているバスケット部は1年生だけだそうだ。次に驚いたのが、上級生専用のジムで見たシューティング練習用のマシーンだった。やっぱり何をするにも先立つものはお金だ。夕方Trish Betthauserが急に「ノースウェスタンとアイオワの試合があるけど見に行く?」と聞いた。もちろん二つ返事でOKだ。途中でTrish Betthauserが「銀行でお金引き出さなきゃ」と行って銀行に立ち寄った。と言っても窓口ではない。ドライブスルーだ。カードを差し込み、数字を打つとお金が出てきた。びっくりした。ノースウェスタンのオフェンスはとても参考になった。プリンストン大学とほとんど同じスタイルだった。学業優秀な大学なので素質のある選手をリクルートできない。だからそんなチームはどうしても個人技ではなくシステムオフェンスで対抗しなければならない。今日はホテルではなくTrishの家に泊まった。眠い。
11年02月16日(水) 今日はDekalbへ。田舎道を約1時間走ってNIU Convocation Centerに着いた。今日は慎子をスカウトしてくれたCoach Bennettがヘッドコーチを務めるNorthern Illinoisの試合観戦だ。Will Callでチケットを受け取って入場するとすぐ「Are you Shinko Ono?」と、慎子が男性に呼びかけられた。慎子が「そうです」と返事すると早速ミーティングルームへ案内された。声をかけてきたのはアシスタントコ−チだった。普通、試合前のミーティングルームには部外者は誰も入れない。しかし私たちは特別ゲストで招待され、Coach Bennettの試合前の訓辞を聞き、みんなで手をつないで気合いを入れるところまで居させてもらった。私たちの観戦席はベンチの真後ろ。タイムアウトの時選手に話しながら時々コーチベネットの視線が私にとばされる。あとで感想を聞くメールが来るかもしれない。
11年02月15日(火) シカゴ15日23:50。天気がよくてホッとしたのはいいが、レンタカーでユナイテッドセンターに行くまでが大変。ダウンタウン近くになるとフリーウェイは大渋滞。おまけに90号線に入らなければならないのに、クルマの流れに押し流されて直進。グルッと回ってユナイテッドセンターにたどりついた時はブルズ対ボブキャッツの試合が始まっていた。ボブキャッツのベンチにはジョーダンとピッペンが座っている。彼らはブルズのデレクローズがナイスプレイをすると大拍手。「いくら古巣といっても今は敵だろ?」と思ったけれど、ボブキャッツのベンチもブルズベンチも観客もそれは当たり前という感じ。初日はこんな感じでした。
11年02月13日(日) 昨日深夜11:30長崎に到着。福岡を夕方5:00に出発して6時間半かかりました。原因は太宰府インターが雪で通行止めになり、みんなが国道3号線に下りてきて大渋滞が起きたからです。自宅が遠い選手たちはセミナ−ハウスに泊めました。今朝は、九州大会で初日に負けたら松浦市で講習会をするということになっていたので、朝5時半二起きて長崎を発ち、松浦に向かいました。二日間に渡る長時間の運転と、講習会での指導で身体はボロ雑巾の様。眠いです。FIBAASIA関係のメール処理をして九州大会の報告書を作っていますが、勝ち上がり表が福岡協会の頁に乗っていませんので、この仕事は明日に回します。Zzzzzzzzz..................
11年02月11日(金) 一昨日の協会の会議以降、私が日本協会とのHUB役を務めることになりました。二日間とも寝るのは3時頃です。その日の練習は久しぶりに練習開始に間に合ったので選手と一緒に走ってみました。12月24日以来1ヶ月半ぶりです。2500b走ったところで不整脈出現。あとはジョックに切り替えました。今日はもう治まっています。単にストレスだけじゃないみたい。俺の心臓ひょっとしたら天皇陛下と同じかも知れない。
11年02月08日(火) 毎年とても重荷の卒業研究発表会。その本番が今日午後3時半に終わりました。山崎卒研の7人の学生たちも、無事発表を終えて私の研究室に戻り放心状態。お疲れ様っ!
11年02月06日(日) UFO発見!..........なんだ、飛行船だあ。
11年01月31日(月) 毎週月曜日は10:40から16:10まで3コマ連続の授業。それには間に合わなければならないのでホテルを
8:30に出発。通常は高速道路を通れば40分弱、国道34号線を通っても1時間以内で行ける道程です。今日の朝は高速道路に規制がかかっているだろうと予測し、国道経由で帰りました。ところがそれが首都高速並の大渋滞。帰る途中で教務課から連絡が入り、午前中は全学休講で午後から平常授業とわかったのでホッとしましたが、短大にたどり着くまでに3時間40分かかりました。時間がもったいないので、パソコンで仕事しながら運転しました。危ないかなあ。
11年01月30日(日) 今日はJX対アイシン2連戦の二日目。会場はシーハットおおむら。ところが朝から短大の寮の周りは豪雪。さっそくチェーン装着。でも、短大の校門の坂道と、それに続く県道約200b走るとそこから先は何事もなし。だから短大を脱出できたらチェーンは外さなければならない。高速道路(運転しながら写真撮るな!)もフツーに走れる。こんなことが今年は何回もあります。観戦後選手を長崎まで連れ帰ったあとはCUBEに乗り換えて再び大村へトンボ返り。日本協会の弘田氏と今氏と大村スタッフのミーティングに参加するためです。このブログは大村ステーションホテルの部屋で更新しています。ミーティングを終えて先に長崎に戻った吉田理事長から電話で「長崎は雪でヤバイです」と連絡が入りました。ミーティング後、弘田氏らと食事をしていた私は長崎に電話して寮周辺の状況を確認しました。「門の坂道とその前の道路は凍っています」という返事が返ってきました。ということで長崎に帰れず大村泊まりとなったわけです。明日は10:40から3コマ続けて授業があるのでそれまでに長崎に戻らなければなりません。大丈夫かしら。
11年01月26日(水) 10:00〜12:30まで、県庁別館で長崎県(橋本課長他)・大村市(久保副市長他)・LOC(野澤・山崎)による連絡会。切羽詰まってきました。今夜7時からは定例のLOC(FIBAASIA大会実行委員会)会議があります。月末までにプロモーション企画書をJBA(日本バスケットボール協会)に提出しなければなりません。待ったなしです
11年01月23日(日) 13日のこの欄に「ハゴップ視察を無事通過すればほっと一息です」と書きましたが、ハゴップ視察を終了した本日、認識不足・知恵不足・準備不足を痛感し、「俺は、国際イベントを持ってこれる器ではない」と思い知らされました。引きこもりたい気分です。
11年01月19日(水) 先日の大会で2名(長女・長西)、ウィンターカップで2名(長西)、作秋に1名(長女)、中学時代からの古傷の手術で1名(長西)、中学3年生に1名(時津)、膝の傷害で長期間休まなければならない大物選手が最近相次いで出ています。そこで自分の身体のことをもう一度見直してもらうためにうちの選手たちに昨日レクチャーしました(これまで何回もやってはいるのですが…)。そして今日の午後練習前、陸上部の林田先生に指導してもらい、林田流ストレッチングを取り入れることにしました。これから週に1回を目安に林田先生にチェックしてもらいながら自分の身体に真剣に目を向ける選手作りを最優先事項としてやって行こうと思います。林田流ストレッチングを、朝練の前に必ず、午後練の前にはもちろん必ず、帰ってから入浴後にも必ず、1日3回は行わせます。そして、春休み遠征前には全員の選手が開脚で床に胸が付くようになることを目指します。入浴後にやったかやらないかは私はチェックできませんし、またチェックする気もありません。私が最優先事項と宣言しているにもかかわらず、そういうことをごまかしたり手を抜いてやるような選手はおそらく自然消滅するでしょう。
11年01月16日(日) こんな天気の時は平地はなんともなくても短大の校内と正門の坂道はスケートリンクは状態。今日は朝からチェーンを装着した空バスで短大周辺を試走してから選手たちをピックアップしました。選手たちを乗せてからスリップ事故でも起こしたら大変ですから。試合が終わって帰る頃の道路は雪のかけらもありませんでしたが、短大の駐車場にバスを入れるのが心配だったのでチェーン装着のまま市内を走りました。ジャラジャラ音をさせてアスファルトを削りながら走るのが心苦しかったのですがやむを得ません。短大に到着すると校内はやはりアイスバーン(ってドイツ語なんですってね)状態。明日の朝は生徒を学校までまで送れるかしら。
11年01月15日(土) 今日知人に「先生のブログは2011年になったのにまだ2010年を更新してますよ」と言われましたがそれは間違いではありません。日本の年度は4月に始まって3月に終わりますから、2011年の1月2月3月は2010年度になるのです。
さて今日は全九州春季大会長崎県二次予選の決勝リーグ初日。試合の合間にも本部席でこうしてアジア大会の打合せをやりました。試合報告の文書処理を済ませたあと、夜10時頃寮の前に止めてあるマイクロバスを見に行きましたがすでにマイクロバス周辺の路面は凍結、雪はたくさん降っていないものの、明日朝寮の周辺はスケートリンク状態間違いなし。明日は朝早くからチェーン装着作業だ。
11年01月13日(木) 昨日と一昨日続けて2日、アジア大会の打合せをしました。22と23の土日にアジアバスケ連盟事務局からハゴップ氏が大村に来て、それぞれの部署の仕事の進捗状況をチェックするのでその準備作業のための打合せです。ハゴップ氏来日に備えてスタッフの名刺を私が作りました。年末年始にかけて雪に閉ざされて家に籠もっている間に作りましたが結構めんどくさい作業でした。ハゴップ視察を無事通過すればほっと一息です。
11年01月09日(日) 7日の朝から今日の昼まで、口に入れたのは水(お茶)とノド飴だけ。今朝、めまいがしてフラフラするので「また熱が出たかなあ」と思って体温計で測ってみたら36.7℃の平熱でした。たぶんお腹が空きすぎてめまいがしたのだと思います。昼、何か胃に入れなければならないと思っておそるおそるインスタント味噌汁を飲みましたが、そのあと少し胃が痛くなったので慌てて胃薬を飲みました。この胃薬は一昨日から1日3回飲み続けていますが、味噌汁を飲んだ後は2袋飲みました。夕方、胃の痛みは少し治まったのでコンビニで裂けるチーズを買ってきて食べてみましたが、心配なのでソルマックも買って飲みました。二日酔いでもないのに。こんなものこんなものが食べられるようになるのはまだ先のようです。今日は合宿二日目。あと1日がんばります。
11年01月07日(金) 昨夜は遅くまで仕事をしていたので高校の体育教官室に寝袋で泊まりました。今日は部活はOFFですが、私には完全OFFDAYはありません。9:30から長崎市スポーツ振興課の荒木課長とのFIBAASIA関連のミーティングがありました。そのミーティング最中も体調は絶不調。自己診断では急性胃炎。微熱(37.6℃)もあります。その後、授業といくつかの所用を済ませ、夕方7時に1週間ぶりに自宅に帰りましたが嫁は居ません。しばらくして帰ってきましたが「今日は英会話の初日だったんですよ」ですって。70の手習い?今更英語習ってどうしようってんでしょ?私の世話にはならずに自力でアメリカ旅行でもしようってんでしょうか?ともあれ、今日の私は朝から水以外は何も口に入れていないので、早く寝て明日からの二部練に備えようと思います。
11年01月06日(木) 福岡は雪。高速道路が閉鎖されるのではないかとビクビクしながらの合宿最終日でした。いろんな構想がアタマの中を駆けめぐり、アタマが破裂しそうな合宿でした。ところで3日の宿舎で会った金子君は平戸物産処婆娑羅(ばさら)http://www.h-basara.com/の代表取締役でした。「金子君」なんて呼んでしまってすみません。
11年01月03日(月) 今日から福大若葉高校で合宿。集まった学校は、札幌創成、徳島城北、倉敷翆松、山口慶進、福大若葉、佐賀清和、神村学園、長崎女子の8チーム。選手は福大若葉高校の校舎に貸し布団を借りて泊まりますが、監督の先生たちは船員会館泊まりです。なんと、そこのフロントには金子君がいるではないですか、むかーし、私が桜馬場中学校に勤めていた頃の生徒で、37年ぶりに会いました。彼は中学校時代バスケット部に所属していて、女子チーム(全中優勝)の練習相手をよくしてもらいました。昨年まで長崎県知事だった金子原二郎氏の甥っ子です。「お前、金子じゃないか?」と聞いたら「え?あ!山崎先生ですか?」と言ったとたん、そのあとの受付処理がしどろもどろ。ちょっとプレッシャーかけすぎたかな?いやいや懐かしい生徒(といっても51歳ですが)に会いました。
10年12月31日(金) 29日に部活生が全員帰省し、寮に誰もいなくなったので宿直がなくなり、自宅に帰っています。でも、毎日ちょこちょこ学校には出かけます。今朝9時過ぎ、玄関を開けると銀世界。普通タイヤしか持っていない私は学校に行けません。今日は、私がいつも持ち歩いている小型パソコンで作った名刺を学校で印刷し、試作品を作りたかったのです。名刺専用用紙もプリンターも学校にしか置いてありません。ハー。ま、マンガでも読むか……
ここまでは午前中に書きました。続きを書きます。昨日も今日もずっと座椅子に座りっぱなしでパソコンいじっていたので身体を動かそうと思い、家の周辺の偵察を兼ねてジョギングに出ました。ジャージに長靴、それにフード付きのコートを着て分厚い手袋といういでたち。国道34号線まで走って偵察してきました。国道は雪が解けて普通タイヤでも走れそうです。でも家の周辺はまだ雪が解けておらず、車で脱出するのは危険。明日もたぶん無理でしょう。またもし脱出できたとしても短大の学内に侵入するのが難しいと思います。短大は小高い丘の上にあるので長崎市内でも積雪や氷結が解けるのが平地より3日ぐらい遅いのです。追伸:家に帰り着いた時、身体は汗びっしょりでしたが足の指先は冷たさでしびれて無感覚。風呂場でお湯に浸けて暖めました。
10年12月29日(水) 昨日午後1時に合宿終了。しかし、午後3時から夜の10時まで個人的にやらなければならないことがあって学外へ出かけ、10時半に短大に戻ってきました。自宅ではなく短大に戻ったのは高校の部活生がまだ若竹寮に残っているので宿直をしなければならないからです。本当は1月2日までずっと宿直が入っていたのですが、高校部活生は本日午前中にみんな帰省してしまった(追い出したのではありませんよ)ので、今日から31日までの3日間は宿直なしになりました。というわけで久々の自宅。今月末は立て続けに愛読しているマンガ本が入荷したので通常なら退屈はしませんが、今年はこれだけマンガ本があってもこの3日間で読んでしまえないかもしれません。なぜなら、FIBA ASIA関連の仕事が山ほどあるからです。今日も午後から大村へ行って野澤事務局長と打合せをしてきました。明日は母の墓参りをして、今年を締めくくろうと思います。今年はいろんなことがあり、みなさまには大変お世話になりました。心から御礼申し上げます。よいお年をお迎えください。
10年12月24日(木) 10月16日に診察してもらってからずっと行ってなかった長谷整形外科に久しぶりに行きました。ずっと行かなかった理由は「どおせまだ繋がってはいないだろう」と思ったからです。では、今日「もう繋がっているだろう」と思ったかというとはそうではありません。冬休み前に一度行った方がいいかなと思って行ったんです。横から撮った画像はやっぱりまだくっきりと隙間が見えます。真上から撮った画像には隙間は見えません。Dr長谷は「この隙間は全然繋がっていないかというとそうではなく、繊維性のものが繋がってはいるんですけどね、X線には出ません」と慰めてくれました。慰めて貰わなくても「これは半年かかるよなあ」と思っていますから不安にはなりません。みなさん、壁と喧嘩するもんじゃありませんよ。
10年12月23日(水) 12:00〜15:00まで、県下全域から集められた中学1年生の優秀選手を対象にしたクリニックをやりました。この半端な時間は、五島から参加している選手の船便の時間に合わせたためです。今日の一つの目的は、集まった25人の中から、ジュニアオールスターの県選抜2年生チームに加える3名を選び出すことです。選手を選ぶためにはゲームもやらなければなりません。ですから私のクリニックの持ち時間は約2時間です。内容を厳選し、鶴鳴の現役選手を使ってリハーサルを3回ほどやって本日のクリニックに臨みました。1時間50分で予定したメニューを終了。あとはスタッフに引き継ぎました。でも、近頃の中学生はうまいですねえ。私がコーチを始めた頃の中学1年生なんて、素人なので全部最初から教えなければなりませんでした。でも今の中学1年生って、もうちゃんとゲームが出来るんですよ。驚いたなあ。
10年12月20日(月) 1ヶ月ぶり!グラウンドランをやりました。まだ期外収縮は出るのですが、頻脈は出ないのでテスト走行をしてみたのです。っていうか「いつまで期外収縮やってんだよ!」と、心臓に気合いを入れてやりたかったのです。とはいえ、1ヶ月ぶりですから用心して1q6分ペース。5qを30分でゆっくり走ることにしました。が、息の乱れも胸の痛みもないので後半の2qは少しスピードをあげて走りました。なので、30分で走る予定が28分48秒になってしまいました。直後の脈拍は144/分でした。今日の走りで自覚しました。「もう、自分にムチ打ってタイムトライアルするのはやめた方がいいな」と。でも、コーチを続けるかぎり見本を示して見せなければならない時があるので、その時ヨロッとかフラッとしない体力だけは維持し続けたいなあと思います。
10年12月19日(日) 一昨日、FIBA ASIA大会プロモーション担当の徳久氏から<長崎空港をFIBA ASIA大会のゲートウェイ空港に>という発想が出て(あくまで構想で決定ではないのですが)、俄然元気づいた野澤事務局長が「山崎先生これをもとに高木文部科学大臣と語る会の会場で高木大臣にアピールしてもらいましょう」と、いきなりヒートアップ。それからの忙しいこと忙しいこと。昨日はそのことを渡辺県議を通して交渉し(組み込んで貰える確約は貰っていませんが)、それから会場で配るポスターの印刷やら即席の名刺(これも本日のみ使用する限定名詞ですが)作りやら、西田総務委員長にFIBA ASIA大会組織委員会設立総会で使用したロゴマークのパネルを会場に持ってくるよう指示したりなど、いろいろ大変でした。さて今日は…、張り切って会場に来たものの、バスケット界からの出席者は20人と限定されているので当然様々な分野からたくさんの人が集まっているわけで、そんな中でバスケット界だけで高木大臣を独占することはできず、折角用意してきた資料も使えるかどうか気をもんでいました。そんな中で高木大臣が我々を見つけ、西田総務委員長が持参したパネルを自ら手に取って「写真撮りましょ写真」と、自ら進んでカメラの前に立ってくれました。この瞬間、飲み物の一滴も刺身の一切れも口に入らず成り行きを見守っていたバスケット協会のFIBA ASIA大会担当者たちは一気に気が緩み、ホッと胸をなで下ろしました。これでストレス満載だったFIBA ASIA大会の仕事もまた少し前へ進みそうです。
10年12月17日(金) 昨日は本学附属幼稚園毎年恒例になったサンタさん役。夕方その画像をHPにUPしようと思いましたが間違って全部消去。よって後日犬塚園長に画像を貰ってUPします。今日は朝から、朝長県協会会長、益田大村市協会会長、吉田理事長、野澤総務副委員長、私の5人で大村市長を訪問。アジア大会準備の進捗状況と依頼内容を確認してきました。今日は議会の最終日でしたが、10時から始まる議会の前に9:30から9:45まで時間を貰いました。松本崇市長の特別配慮です。感謝感謝です。それが済むと今度は野澤氏と私の二人で県庁まで走り、県民スポーツ課に行って報告。そしてまた大村まで戻り、陸上自衛隊大村駐屯地指令伊崎1等陸佐に会って、御礼(FIBA ASIA大会の練習会場や救急隊でお世話になる)とお願いをして来ました。フー、今日も忙しかった。ところで、大村部隊の女子バスケットチームは自衛隊の全国大会でつい先日優勝したんですって。
10年12月12日(日) 10日(金)の夕方から今日の夕方まで、また日本協会から弘田氏と今氏が来崎されてFIBAASIA大会の打合せを行いました。今回は収入と支出の内訳を明確にする作業なので、長崎側からこの打合せに顔を出すのは吉田運営本部長(県協会理事長)と副本部長(県協会副会長)の私と野澤事務局長(県協会総務副委員長)の3人だけ。弘田氏と今氏来崎の情報が私の耳に入ったのは5日前。その時点で私のスケジュールにはすでに本校体育館での中学生クリニックが入っていました。このクリニックには県外からの参加者もいたので変更やキャンセルができません。というわけで、私は10日の夕方の打合せ会には顔を出しましたが昨日と今日の打合せ会には顔を出せませんでした。ですから、昨日と今日の打合せ会の場所は本校第二体育館の教官室にしてもらいました。緊急呼び出しがあってもすぐ対応できるようにそうしたのです。昨日の朝10時頃、弘田氏と今氏と野澤氏の3人が、私がクリニックをしている第一体育館の玄関に姿を現しました。私はこの3人は直接第二体育館の教官室に行くものと思っていたので不意をつかれた状態です。私は「エーッこっちに来たの?」と言った後、私の声でプレイを止めて玄関の方を見ている選手たちに「集合!」と声をかけ、「こちらのお二人は日本協会の弘田さんと今さん、こっちは長崎県協会の野澤さん。アジア大会の打合せに来られたんだけど、こっちの二人は今の俺の最大の敵!」と紹介しました。フツーこのように体育館に姿を現した人を監督が紹介した場合はどこのチームの選手も元気な声で「コンニチワー」と挨拶するじゃないですか。でも昨日の挨拶は「コン…ニ…ニチワ」と、声も揃わずトーンも低く、中途半端なあいさつ。私の紹介の仕方に少々戸惑ったかもしれませんが、当然冗談だとわかって明るい笑顔と大きな声で「コンニチワー」と挨拶して欲しかったなあ。ハー
10年12月09日(木) 昨夜22:00長崎を発ち、今夜21:16徳島から帰ってきました。行きの車中、助手席の野澤氏とあーだこーだと話しをしていたら、山陽自動車道と中国自動車道の分岐点でうっかり中国道に入ってしまいました。でも「ま、いっか、ちょっと遠回りすることになるけど広島北から山陽道に降りればいいんだ」と思い、またあーだこーだと野澤氏と話しながらしばらく中国道を進みました。でもだんだん天気が怪しくなり雪景色になってきました。それでもなんとか広島北インターまで頑張ろうと思って走りました。しかし六日市変電所あたりまで行くと道路公団職員に止められ「普通タイヤですか?」「はい」「チェーン持ってますか」「いいえ」「あー、この先積雪5pで、チェーン装着してないと走れないんですよ。下り車線開けますから戻ってください」と言われ、六日市インターまで戻って国道187号線を岩国まで走り、そこから山陽道に乗りました。その間野田さんは後部座席で高いびきで大の字になって寝ていたのでこの事件のことは知りません。徳島では朝10時から12時までレクチャーを受け、讃岐うどんを食って帰ってきました。吉田さん川内先生、わざわざ時間を割いていただきありがとうございました。そして富田先生、授業の合間を縫ってわざわざ差し入れに来てくれたのに、時間に追われてロクなあいさつもせずすみませんでした。0泊2日。とにかく余裕のない旅でした。昨日から今日にかけての睡眠時間は約2時間半です。思考回路はフリーズ。もう寝ます。
10年12月06日(月) 金曜日から日曜日まで3日間、朝から晩まで日本協会とのミーティング。場所は本学会議室。各部署の担当は自分の時間だけでいいのですが私はぶっ通し。夜はその日のミーティングの内容を整理するので家に帰る暇はありません。私はこの3日間研究室に泊まり込みで、髭も剃ってないし風呂にも入っていません。今朝は高校生を学校まで送り届けてから髭を剃りシャワーを浴びてさっぱりしました。今から3コマ続けて授業です。
10年12月03日(金) 今日は日本協会から弘田氏と今氏が来てシーハットを視察し、それから場所を長崎女子短大に移して各部署の担当者にレクチャー。今日言われたことの3分の2は、11月にハゴップ氏が来た時に受けたレクチャーの内容と同じ。にもかかわらず仕事が進んでいない。私がみんなをびしびし鍛えていれば、もっと先まで仕事は進んでいるだろうし、弘田氏と今氏の来崎は不要だったはず。それを思うと情けなくて申し訳なくて、自分の指導力のなさを痛感して気分がブルーです。フーウ。
10年12月02日(木) 朝6時半。寮の2年生をマイクロバスで修学旅行の出発場所まで送り、トンボ帰りして今度は寮の1年生と3年生を高校に送り届けました。ネムッ!ちょっとだけ居眠りしたあと論文を先に進めます。Zzzz…って、昼近くまで寝てしまいました。
10年12月01日(水) 体育館の床張り替え工事が終わり、今日から使えるようになりました。側壁の耐震工事が終わるまでにはもう少し時間がかかりますが、それは体育館のフロア使用には差し支えありません。ですが思い切り練習できるのはまだまだ先です。先週から昨日まで2年生だけ期末試験。そして明日修学旅行に出発。明日から7日まで今度は1年生と3年生の期末試験。そんなわけで今年は期末試験の期間が通常の倍になります。1年と3年の期末試験が終わった翌日私は徳島に行きますから、本格的に練習ができるのは10日からです。その1週間後が研究論文の締め切りですから私にとっては、これからの2週間は地獄の日々になりそうです。でも少し嬉しい出来事がありました。それはある選手の父親から「ムスメが服が入らなくなったと言ってましたよ」という話しを聞いたことです。服が入らなくなったのは腕が太くなったからです。腕が太くなったのは6月10日から始めた筋トレの成果です。このブログの5/25、6/27、7/7、11/3の欄をお読みいただけばわかると思いますが、今年のチーム創りは大変です。そんな時、何よりも励みになるのが「やり続けていたら成果が出た(数字)」という事実です。私にはHパパの一言が天使の声に聞こえました。
10年11月29日(月) 来週水曜日の夜9時過ぎに長崎を出発してクルマで徳島に行かなければなりません。私と大村の野澤氏と諫早の野田氏の3人です。翌木曜日(9日)の朝10時に徳島の吉田氏と会ってFIBAASIAの経理の勉強をさせてもらい、その日の午後徳島を発ってまたクルマで長崎に帰って来ます。そんな強行軍を控えた中で、研究論文の締め切りが迫ってきます。アタマ割れそうです。下記がその一部ですがちんぷんかんぷんでしょう?
グラビコーダデータ解析@LNG(総軌跡長)p ;計測時間内の重心点移動距離の全長ALNG/TIME(単位軌跡長)p/sec;計測時間内の重心の移動速度の平均値BLNG/E.AREA(単位面積軌跡長)1/p(包絡周囲長:プロップの凸点を結んだ場合の周囲長(図9の点線),包絡面積:プロップの凸点を結んだ場合の面積(図9の点線で囲まれた部分)CENV.AREA(外周面積)p;重心動揺の最外部によって囲まれる内側の面積を求めたもの、すなわち包絡面積のことであるDREC.AREA(矩形面積)p;X,Y各軸の動揺の最大値で囲まれる長方形の面積を求めているERMS.AREA(実効値面積)p;Root Mean Square(2乗平均の平方根)の略である。取り込んだデータを2乗し、(2乗すると全て正になる)その平均を計算した後開平(Root)する。図10で示す負の部分を上に折り返し、その波形の面積を求め、これを平均にならした時の長方形の高さがRMSであると考えることができる。
10年11月25日(木) 今日で小指骨折からちょうど1ヶ月。医師からは副え木をあてて5週間は動かさないようにと言われています。先月の26日付けのこの欄に「私は年寄りだからもっと長くかかるかもしれない」と書きましたし、医師にも「5週間というのは誰を基準?68歳の老人を基準にしてはいないよね?」と言ったら医師は笑っていました。みなさん、受傷直後のX線撮影画像と今日のX線撮影画像を比べて今日の画像の方が骨がくっついているように見えます?私にはどうしてもあと1週間で繋がりそうには見えないんですけど。
10年11月23日(祭) 昨日は、FIBAASIA女子選手権大会のことについて、協会スタッフとイベント会社の話し合いがありました。そして引き続き私の研究室に場所を変えて協会スタッフだけでミーティングをしました。FIBAASIA女子選手権大会は、長崎県・大村市・長崎市の行政側と、日本バスケットボール協会・長崎県バスケットボール協会の現場側の5者協同で動いています。当初は皆張り切っていました。しかし事が進んでくると互いの思惑や駆け引きが絡み合ってなかなか思い通りにいかず、それぞれから不平や不満や不安が少しずつ出てき始めました。これがさらに進むと、「おまえがそう言っただろ」「俺はそんな約束した覚えはないよ」とか、「だから俺が最初から言ってるだろ」「ここまで来て今更なんだよその態度は」と、うまくいかない原因のなすりあいにエスカレートしていきます。これは、今回のような行政を巻き込んだ大きなイベントだからではなく、人が集まって何かをやろうとすれば必ず起こることです。そんな時にもっとも大切なのは具体的に動くことです。額を寄せ合って話し合いをしても、ファックスや電話やメールで連絡し合っても前には進みません。何かが起きたら現場にすぐ行くか、その人に会いにすぐ行くか、とにかく足で動くことです。坂本竜馬がすごかったのはそこです。今、長崎県バスケットボール協会に竜馬が欲しいです。「よし、その役俺が買って出よう」という人は手を挙げてください。竜馬が2人いても3人いてもかまいません。私は竜馬を動かした勝海舟の役をやりますから。
10年11月21日(日) 今日は県新人戦の2日目。ひどい試合でしたが心は静かでした。振り返れば19日の夜から心が静かになり、イライラやモヤモヤが消えました。自己分析をしてみました。確証はないのですが、私の心と身体が現実を受け入れたのではないかと思います。わかりやすく説明しますね。それまでの私は選手たちに対して「俺が7ヶ月も鍛えてきたのだからこの技ができないわけがない」とか「こんなに言葉を選んで説明しているのだから理解できないはずがない」など、「はずがない」や「ねばならない」という思いばかりが強く、「かもしれない」がなかったのではないかと思うのです。「はずがない」が強いと「お前やる気あるのかあ!」と腹が立ってきますが、「まだ理解できていないのかもしれない」と現実を受け止めようとすると「じゃ、こんな例を出せばわかるかなあ」と、次のアドバイスを考えようとします。今日の試合も、「叱っても仕方がないからどんなことばをかけようか」と、言葉選びばかり考えていました。口調は激しくなることはあってもアタマに血が上ることはありませんでした。自分で自分に「現実を受け入れろよ」と言い聞かせた覚えはないので、この自己分析が当たっているかどうかはわかりませんが、自分の中で何らかの変化が起きているようです。
10年11月19日(金) 先月29日に不整脈と頻脈が出て以来、グラウンドランを控えていましたが今日走ってみました。距離は5000bですが、タイムは29分25秒のゆっくりペースです。私の心臓はこどもの頃からずっと期外収縮が出ます。それは静かに本を読んでいる時などに時々出ますが、運動をし始めると消えます。ところが今回は走り始めても期外収縮が消えないのでグラウンドランを控えていたのです。走るのを控えるだけでなく、4年後の国体を前にして身体をメンテナンスするには丁度良い機会だと思って12月17の論文締め切り後に原爆病院院長の朝長先生に頼んで心臓の検査をして貰おうとも思っていました。その前に自分の心臓を調べてみようと思って今日負荷テストをやったのです。病院でちゃんと検査してもらった結果、30年前と同じように自律神経の問題だけなのかもしないし、歳が歳だけに心筋や冠状動脈や電気系統に異常が見つかるかもしれません。また、検査の結果治療の必要はないかもしれないし、ステントを入れなければならないかもしれないし、ペースメーカーを付けなければならないかもしれません。いずれにしろ、国体が終わるまであと4年ヘタるわけにはいかないのでこの際身体の異常はキチンと調べておこうと思います。
追伸:「山崎先生は元気ですね」とよく言われますが、それは違います。満身創痍です。昭和54年11月、特発性腎出血で長期入院しました。平成11年5月、マイクロバスのエンジンがオーバーヒートぎみだったのでラジエターを点検していたら爆発、下半身に大やけどを負って入院しました(生徒は全員点検前に避難させていたので無事です)。平成14年1月、大腸憩室炎疑いで約2週間入院しました。この時は死んだ方がましだと思うくらい痛くて苦しかったです。膝はガタガタで右膝も左膝も2回ずつ手術しています。肩はボロボロで特に右肩は4p×5pの広さで腱板が断裂しており手術さえ不可能です。おまけに脳も老化が進んでいます。そんな私ですから、先日の左手小指の骨折なんか小さな小さな出来事です。
10年11月16日(火) 昨夜は7:00pmから9:00pmまで本学会議室でFIBAASIA実行委員会の会議。その後場所を私の研究室に移して幹部数人で、ハゴップ改善要求を如何にして実行するかの打合会。それが済んだのが0:00am。その後私はパソコンに向かい、打合会で検討した内容を清書して県知事・長崎市長・大村市長に提出する協力支援依頼文書を作成。それが終わったのが3:00am。その文書を持って朝長会長とともに今朝9:00から県庁、長崎市役所、大村市役所を訪問。1:50pmに朝長会長(原爆病院院長)を職場に送り届けて、ずっと気になっていた案件処理が終了しました。安心してグターッと力が抜け、「今日は早く寝るぞーっ!」と思っていましたが、雑件を処理していたら11:00pmを過ぎてしまいました。でももう寝ます。Zzzzz.............
10年11月13日(土) 昨日夕方で選手募集の学校訪問がすべて終了。あとは結果を待つだけ。神様お願い!。昨日の学校訪問中にも数回FIBAASIA関係の連絡相談電話が入りましたし、今日も午後からずっと野澤大塚山崎の3人で、ああでもないこうでもないの打合せを続けています。今日の練習はOFFです。理由は短大の授業が月曜補講となっていて、私が終日練習に付けなかったからなのですが、その補講連絡が手違いで学生に伝わっておらずキャンセルになりました。で、教務の担当に連絡して補講を後日に回し、午後からFIBAASIAの打合せをすることにしたのですが、この時点で6時PM。5時間打合せが続いています。まだまだ終わりそうにありません。
10年11月10日(水) 今週から来週にかけてはてんてこまいです。まず選手募集活動の学校訪問が相次ぎます。その中に容赦なくFIBAASIA関係の連絡や打合せや上京要請やらが割り込んできます。12月17日の研究論文原稿締め切りも気になります。忙しいのですが、鹿児島の鮫島氏からメールが来たので紹介します。名刺入れの錆を落としたそうで…、うしろの写真は鮫島氏がスプリングフィールドのバスケットボール殿堂を訪問した際に撮ったネイスミス博士の写真だそうです。では今からスーツ着て学校訪問に行きます。
10年11月08日(月) 10月29日のブログを見て、鹿児島の鮫島氏がメールを送ってきました。例の名詞入れの画像付きで。メッセージは「本日、本校の技術室に錆取りをお願いしました。輝けずとも、錆だけは取ります。意地でも」でした。えらくリキんでいますねえ。俺、何か気にさわること言ったかなあ?
10年11月05日(金) FIBAASIA女子選手権の会議を済ませ、今日から選手募集の学校訪問開始。それが来週中旬に済むとすぐ東京へ行かなければなりません。日本バスケットボール協会でFIBAASIA女子選手権の打合せをしなければならないのです。ハゴップ改善案を実行できるか否かの話し合いだと思いますが、開催返上にならないよう理論武装して臨まなければなりません。このところ、こんな切羽詰まった話しばかりなので可愛い話題で最後を結びます。昨日は本学幼稚園のいもほりでした。どんなに忙しくてもストレスが溜まっていても、こどもの顔を見ると癒されます。ホッ。
10年11月04日(木) 31日昼過ぎから3日の夕方5時までずっと大村で会議だったことはお話ししましたが、その間の大きなイベントはFIBAASIA女子選手権組織委員会総会でした。それは新聞等で報道されたのでご存知の方も多いと思いますが、ああして報道される華やかさの裏では大変な作業が続きました。もっとも大変だったのはハゴップ氏の視察と、それに基づくミーティングでした。彼はFIBAのアジア地区最高責任者ですから綿密な下調べをしてアジア大会が円滑に行われるよう私たちに改善の要求をします。彼の改善要求の根拠は充分理解することができましたので、彼が空港を発ったあとも日本協会のスタッフとギリギリまで打合せをし、夕方6時頃短大に戻ってきました。課題は山積みです。これからハゴップ氏の要求を長崎大村のスタッフに理解させ、予算をふくらませずにハゴップ氏の要求にどれだけ近付けるかという作業が続きます。脳みそが沸騰しそうです。不整脈と頻脈は治まったものの、今朝起きたら背中がバーンと張って肉体労働をした後のように身体が重いし、大きく息を吸い込むと胸が痛いです。選抜予選の後遺症とハゴップミーティングの後遺症はまだしばらく続きそうですが、一息ついている暇はありません。写真に収まっているハゴップ氏と私は笑顔ですが、心の中は双方穏やかではないのです。ハゴップ氏「しっかり頼むぞオイ」山崎「ウー、これからが大変だなあ」笑顔の裏には双方こんな思いがあります。ここまでの記事は4時PM。
<追伸1>不整脈と頻脈は治まったと言いましたが、4日ぶりにグラウンドを走ったところまた不整脈が出たので4300bで中断しました。元に戻ったと思っていたけど根っこは残っているんだなあと思いました。走るのはしばらく控えようと思います。
<追伸2>30年前の夏、立っていることができないほど心臓が痛くなって大学病院の第3内科を受診したことがあります。その時、負荷心電図や24時間心電図などさまざまな検査を受けましたが異常は見つかりませんでした。第3内科受診の前年に私は特発性腎出血(ナットクラッカー症候群)で長期入院し、復帰しても大きなアクションは起こさず、じっと椅子に座って練習を見つめているという日々が続いていました。医師は「思い切り動けないというストレスによる心臓ノイローゼでしょう。もう運動始めていいですよ。腎出血が再発したらその時はその時で考えましょう」と言ってくれました。それ以後心臓の痛みも腎出血もピタッと治まりました。
10年11月03日(水) 31日の夜から3日間ずっと大村泊まりで今日長崎に戻ってきました。そのことについては明日お話しします。今日は10月30日の選抜予選結果報告で述べた不整脈と頻脈についてお話しします。私のHPの日々の出来事以外もチェックしておられる方はお気付きだと思いますが、選抜予選前日の5000bの私の欄はJOGとなっています。それは、走り出し1qで心臓に圧迫感を感じたのでペースを落とし、タイムを計らずに残りの4qを走ったからです。それから後のことは前述の報告書で述べていますが、30日の夜は一時「俺、もうダメかもしれない」と真剣に思いました。若い時ならまだしも、今の私は狭心症が起きても不思議ではない年齢なのですから。しかしそれも、31日の昼過ぎには普通の拍動に戻り、それからは不整脈も頻脈も起きないので、「あれは心臓ノイローゼだったんだ」と、今は思っています。と同時に、「選抜予選はそれほど俺にとっては重圧だったのかあ」とも思っています。選抜予選を観戦していた方々の中で、私が人差し指と中指で時々首筋を押さえているのを目撃された方がおられるかもしれませんが、あれは頸動脈を押さえて拍動を調べていたのです。
以上、ご心配をおかけした方々への、その後の報告でした。
10年10月29日(金) あちこちから問い合わせがあるし、「選手をはたいて逆に自分の手をケガしたんでしょ」とか、勝手な憶測に尾鰭がついて一人歩きしそうなので説明します。答えはこの画像です。1985年6月、インディアナ大学が日本に遠征し、全日本男子との国際親善試合をしながら日本列島南半分を縦断しました。最終試合が長崎でしたが試合は大荒れ。ボビーナイトコーチが試合をボイコットして選手全員を率いて体育館の外に出る一幕がありました。数分間試合が中断しましたが、私が協会の特命大使で外の芝生に座っていたボビーナイトの機嫌取りに行かされました。その時私は43歳。彼は44歳。でも人間の貫禄が違います。ドキドキしながら、私はただ「試合再開の準備が出来ました」と伝えただけなのですが、彼はウンとうなづいて選手をうながして体育館に入ってくれました。あとになって、彼は体育館に入って試合を再開するきっかけを待っていたのだと思いました。その大荒れの原因は日本のレフリーの判定基準とアメリカのレフリーの判定基準の違いにイライラが蓄積していたからでした。長崎に来る前の試合は広島でした。広島での夜、アタマに来たボビーナイトはホテルの部屋の壁をゲンコツで殴って大穴を空けました。修理代は日本協会が支払いました。前置きが長くなりましたが、彼はホテルの壁に穴を開けて日本協会に弁償させましたが、私は壁を殴って自分の手をケガし、治療費は自費で支払いました。なお、このことは選手は誰一人知りませんので内緒にしておいてください。追伸:翌朝長崎のホテルを発つインディアナ大学を見送りに行きましたが、あの気難しいボビーナイトがチャーターバスに乗る前に私に気付いて近づき、「君は長崎でコーチをしているのか?」と聞いたので「イエス」と答えると「世話になった」と言って、インディアナ大学のロゴが入った名詞入れをプレゼントしてくれました。それは鹿児島の鮫島氏に奪われ、今鹿児島にあります。
10年10月27日(水) 昨日から急に寒くなりました。バイク運転も手袋なしではできません。でも小指は添え木をしてるので入りません。そこで安い手袋を買って小指を詰め(ヤクザみたい)て使うことにしました。今日から5週間はコレです。
10年10月26日(火) やはり骨折でした。X線撮影でくっきり出ています。典型的なマレットフィンガーでした。治療は二通りありますが、とりあえず簡単な方法で固定(5週間)して、くっつかなかったら手術して繋ごうということになりました。キーボードたたくのに小指が使えなかったらこんなに不便なのかと思いながらHP更新しています。追伸1:5週間というのは一般的な治療の目安であって、私は年寄りだからもっと長くかかるかもしれないし、そうなった場合は手術でつなぐかもしれません。追伸2:ドクターは手首から先の名医Dr.長谷です。
10年10月25日(月) 突き指。かなり重傷。ひょっとしたら骨折?でも今日は短大の授業が満杯で病院に行く暇はないので明日行こうと思います。68歳にもなってこんな突き指するほど何した?よっぽどドジなこと?よっぽど激しいこと?それは内緒です。
10年10月21日(木) 埼玉大宮北高校の志村先生が昨日から研修に来られています。二日目です。昨日はアジア大会の実行委員会の会議があったのでゆっくり話しができなかったのですが、今日は余裕があったので練習が終わってから食事に行きました。その時初めて、指導に行き詰まって自虐的になっている自分から抜け出したくて鶴鳴を訪問したと言うことを聞きました。私のコメントです。「共稼ぎ夫婦、家庭の主婦、二児の母、チームは地区新人戦を勝ち抜けるかさえ危ないほどのレベル、なのにこれほど悩んでいるということ自体がすごいよ」
10年10月19日(火) 真心運動のことを10月5日のこの欄で述べました。続きを述べます。今朝バスに乗せてきた選手を降ろして体育館への階段を降りていると、玄関の目の前の溝にでっかいビニール袋が落ちていました。私はバスから降りてすでに体育館の中に入っている選手たちを呼び集め「こんなにでかいゴミは、注意して捜そうとしなくてもフツーに視野に入るぞ」と言いました。バスケット部は一人残らず真心運動をしながら登校しますが、この一例からも、ゴミを1個拾ったら「ノルマを果たした」という程度の自覚なのだろうということが推測されます。真心運動がホンモノじゃないということはバスケットもホンモノじゃないし勉強もホンモノじゃないのです。落語に小言幸兵衛というのがありますが、私はホンモノの選手を育てるために小言幸兵衛であり続けようと思います。
10年10月18日(月) 昨年の6月15日までのグラウンドランでは毎回8000b走り、5000bのラップタイムは軽く25分を切っていました。が、6月19日に膝が痛くなったのでランを控え、しばらく様子を見ていましたが快方に向かわないので8月5日に両膝同時に手術しました。9月には少しずつランニングを始めて現在に至っていますが、手術してからずっと5000bを25分以内で走ったことがありません。なんとか元に戻したいのですが、1000bを5分以内のペースで走れば3000bまでしか保ちません。手術後ベスト体重(64s)を4sオーバーしている状態が続いているのが最も大きな要因だと思うので、これから4s減らして8000bランを目指したいと思います。でもね、ダイエットはこれまで何回も試みたことがあるんですが、痩せて脂肪は減っても歳をとると皮はなかなか縮まないので、腹に縦皺が出るんですよ。それを見るとものすごい年寄りになったみたいで嫌なんですよね。現在68歳なので充分年寄りなんですが、根が見栄っ張りなもんで…
10年10月15日(金) 今日学校に宅急便が届きました。差出人は榎本日出夫氏。爆発物が仕掛けられている可能性があるので同僚の先生に開けて貰いました。愛媛の瀬良強先生(新居浜商業→丹原→今治西)から毎年送られてくるカキやミカンも、毒物が注入されているかもしれないので事務室の職員に1個食べて貰って死なないことを確かめてからでないといただきません。私は彼をバスケット界の斎藤道三と思っていますからこれくらい用心しないと危ないのです。さて話を戻して、榎本氏の小包の中にはTシャツ・ぞうきん20枚・お茶が入っていました。手紙も添えてありました。この小包を彼が送った経緯を説明します。9月19日に広島に行った時、榎本氏が「これあげる」と言って自分の似顔絵がプリントされたTシャツを私にプレゼントしてくれました。しかし英語のスペルにちょっとしたミスがあり、私はそれを指摘したのですが、結局「ま、いいか、持って帰ってぞうきんにでもするよ」と言って受け取りました。もちろん冗談です。が、彼は私の冗談に対してこんな冗談で返してきたのです。彼はもう69歳ですよ。フツーそんな歳になってこれだけエネルギーを使った冗談はやらないですよね。
10年10月14日(木) 一昨日の続きの話になります。バスケット部だけでなく、寮に居る部活動の選手たちは毎朝私のマイクロバスで高校まで送ります。今朝も私は寮の玄関前にバスを止めて待機していました。するとA選手がゴミ袋を抱えて玄関から出てきました。でも、おはようございますの挨拶はしませんでした。たぶん、私が運転席で本を読んでいたので目が合わなかったからだと思います。バスで送る選手たちはみな、乗車する時は「おはようございます。お願いします」と挨拶をします。これは定番になっています。ゴミを捨ててきたA選手ももちろんいつものようにあいさつしてバスに乗り込みました。私はこのことを学校に着いてすぐみんなに話しました。「たぶんA選手は、私と目が合わなかったし、私が本を読んでいたのであいさつを控えたのだろうが、バスのドアは開いていたのでおはようございますの声は車内の私に聞こえるはずだから、今日は乗車する時ではなくまずこのタイミングで一度挨拶すべきだった。たとえそのあいさつに対しての私の反応がどうであってもだ。こういう場面にこそその人間の本当の実力が出てくる。実力とは、状況判断力とか決断力とか勇気などのことだ」
10年10月13日(水) この1週間、週末の若葉遠征以外の日は1時間練習のみでした。中間テスト前だったからです。その中間テストが今日終わりました。通常の3時間練習が今日からまた再開です。ところが、雰囲気はドヨーンとしていて選手の目は腐ったサバの様。途中、主力選手のうちの一人を学校敷地内から追放しました。それでも雰囲気は変わりません。夏休みが終わるまですっとダメだったけど、9月に入って強くなったと選手たちの大半が自覚していたはずなのに。はずなのに…の根拠は、選手同士の中で「選抜に行きたいねえ」という会話がなされていたということが、ある人を介して私の耳に入ってきたからです。もし試験勉強で疲れていたとしても、強くなったと自覚しているのならば中間テストが終わった今日は「さあ今日からまた頑張るぞ!」という雰囲気になるはずですよね。それがドヨーンですから。あれこれ考えていると眠れません。それでレンドルミンを1錠飲みましたが眠気が襲ってこないのです。で、アモバンをまた1錠追加で飲みました。それでもまだ眠れません。今日はこのまま夜が明けるのかなあ?
10年10月12日(火) クルマを運転しているとしばしば出くわす光景があります。こちらは青信号なのでクルマを進めたが、横断歩道を渡る人がいるのでウィンカーをチカチカさせながら待っているという状況です。先日それと同じ状況で二人の女子高校生が横断歩道を渡り始めました。とてもゆっくりした歩き方で。途中で黄色になりました。でも急ぎません。渡り終わる2bぐらい前で赤になりました。しかしその二人は平然としていて歩調を変えませんでした。私は「なんだよこのガキどもは」と思いました。毎回そんなことばかりではなく、黄色にも赤にもなっていないのに、急ぎ足で渡ってくれる人たちもいます。そんな人たちを見ると「ありがとね」という気持ちが湧いてきます。
江戸しぐさの中に「傘かしげ」「こぶし腰浮かせ」ということばがあります。生活の中での気配りについて書かれたことばです。バスケット部には上記二人のような選手はいませんが、江戸しぐさを読ませたい子は何人もいます。江戸しぐさ的気持ちが身に付けばこちらがとやかく言わなくてもバスケットは上達するのですが…
10年10月08日(金) 二日ぐらい前から身体が痛い。特に節々が痛い。たぶん熱があるなと思い昨夜体温計で計ってみました。すると37.5度ありました。微熱です。風邪ではありません。たぶん鼻の左奥に炎症が発生しているようなので、それからの熱ではないかなと思います。ドルマイシン軟膏を綿棒の先につけて処置しましたが、案の定綿棒の先に血が付いてきました。今日はグラウンドランの日。走るのどうしようかなあ(10:00時点)…結局走りました16:00
10年10月05日(火) 10月1日のブログに載せた空き缶放置。もう4日間もそのままです。今朝は駐車場でマイクロバスから降りて近辺でゴミ拾いをしている選手たちを集め、「この缶はなあ、4日前からここにあるぞ」とイヤミたっぷりに言いました。本校では全生徒が道端に捨てられているゴミを拾いながら登校し、校門に備えられている分別ゴミ籠に捨てるという真心運動を実践しています。バスケット部の選手ももちろん毎日実践しています。寮のバスケット部員は毎朝私のマイクロバスに乗って登校するので、バスを降りた駐車場近辺でゴミ拾いをします。毎朝同じ駐車場で降ろすのに4日間空き缶のことを誰も気付かなかったので、それが悔しくてついイヤミを言ってしまいました。
10年10月02日(土) 明日が文化祭なので今日は終日その準備とリハーサル。練習はOFF。朝、寮からマイクロバスで選手を高校に送ったあとは幼稚園運動会参観はじめ、いろんな雑務を処理しました。
10年10月01日(金) 毎年10月1日は創立記念日。生徒は休みですが我々職員は朝10時から午後3時までセレモニーと研修があります。今年は拓殖大学の呉善花教授(韓国済州島生まれ)を招いて講演をしていただきました。面白かったです。それにしても俺の駐車場でこんなことするヤツ許せん!
10年09月29日(水) 26日の神村学園との合同合宿最終日以来ずっと不愉快な気分と怒りが蓄積していました。理由は、「こいつら強くなったかもしれないぞ」と思わせるプレイがまったく影を潜め、無表情無反応なプレイが続いていたからです。経緯を説明します。県総体以降私のアタマで思いつくことをすべて試みてチームの強化を図ってきましたが、夏休みが終わっても全く先が見えません。それが、9月5日のスクリメージで突然「え?こいつらひょっとしたら強くなったかな?」という動きになりました。きっかけは私の檄に刺激されてディフェンスが積極的になったからでした。もちろんこの日に急に檄を飛ばしたからよくなったのではなく、6月10日以来ずっと強調してやってきたことがこの日に突然表面化したのです。そうすると走るしシュートは気持ちよく放すしと連鎖反応的に動きがよくなり、それが9月25日まで続きました。そんな動きが26日にパッタリなくなり前述のような状態になったのです。26日に私は「9月に入って、私たち少し強くなったんじゃないかな、とは思わなかったのかい?思っていたヤツいるだろ?」と質問したら全員うなずきました。26日はそれ以上何も言わずにおしまい。ところが次の日もまた次の日もダメなのです。無表情無反応は変わりません。で、今日はついにキレてしまいました。「自らの努力で築き上げてきた結果を簡単に投げ捨てて何も感じないのなら今すぐやめてしまえーっ!」と言って3〜4人の選手を張り倒したのです。この歳(68歳)になっても暴力でしか選手を制圧できない自分自身が情けなく、そんな自分に怒りさえ覚えます。怒りを覚え、自分自身を冷静に見つめ直してみようとするのですが、選手のふがいなさを大目に見てやるほどの心の広さをまだ持ち合わせていない自分がより鮮明に浮かび上がってきて一層腹が立ちます。
10年09月28日(火) 理子ちゃんが昨日の給食後の掃除の時間にぞうきんがけをしていて右股関節に痛みを感じたそうで、それが夕方にはだんだんひどくなってきたのでママから相談の電話がありました。夜になってから自宅を訪問して診察しましたが、7歳のこどもですから痛みとか状態をうまく表現できません。診断がつかないので今日朝から学校を休ませて楢林整形外科医院に診察してもらいに行きました。院長に診察してもらい、X線撮影とエコーでの検査をしましたがこれといった異常はない。「ウーン」院長も私も頭をかしげながら結論が出ません。とりあえず痛み止めを3日くらい飲んで様子を見ることになりました。連れて帰って午後、また私が診察してみました。昨日の私の診察でも今日の院長の診察でも痛みを訴えなかったのに今度は写真の→部分に明らかな圧痛を訴えます。なーんだ、ぞうきんがけでダッシュしすぎて腸腰筋を傷めたんじゃないか。それなら1週間もすれば痛みが軽くなるだろう。ホッとしました。
10年09月25日(土) オープンスクール。今回は体験学習がメインでした。バスケットボール部活動体験希望者は26名。例年どおりシューティング競争と2on2トーナメントをやりましたが、例年と違うのは午後からの練習に半数の13名が残って練習に参加したことです。怖さ知らずというか明るいというか、そのにぎやかさに鶴鳴の選手たちの方が圧倒されていました。主役はどっち?という一日でした。
10年09月24日(金) 本校の国語の先生である西村直温(なおはる)教諭は長い間進路指導部長をしておられます。特に、小論文の指導には卓越した才能をお持ちです。このたび、それをまとめて小冊子を作られました。本人の承諾を得て紹介します。文章を書く上でだけではなく、バスケットを指導する上でも参考になることがたくさんあります。
10年09月20日(祭) 昨夜キャプテンに電話をかけて練習の指示を出し、今日の午前中も広島に残りました。昨日と今日で都合3試合審判をしました。審判しながら試合を観察しました。福岡少年女子は巧い。まだまだ幼稚さだらけの鶴鳴の選手を指導する上で参考になることをたくさん勉強しました。帰ったらさっそく、新たな視点で選手を再チェックしようと思います。みなさんありがとうございました。
10年09月19日(日) 昨日、午前の練習を済ませてすぐ宇部に向かいました。慶進高校で、福岡県と山口県の数チームが集まって強化合宿をやる。そこに、楢原先生(元国際審判)と小池先生(元国際審判)の両巨頭が来て審判をしてくれるというのです。こりゃ是非行かなきゃならん、というわけでバタバタの宇部訪問になったわけです。夜の食事会で先生方が手に持っているのは富山から急遽取り寄せてお二人におみやげに持って行った古酒鶴鳴です。宇部に1泊して今日の午後から長崎に戻る予定でしたが、広島皆実高校に集まっている各県国体チームの強化合宿に顔を出さなければならなくなり、1泊増えました。山口国体チームアドバイザーコーチの榎本氏から携帯電話で「山口まで来て広島に足を伸ばさないってどういうこと!」と脅迫され、急遽広島に向かわなければならなくなったのです。で、午後から広島に向かって皆実高校に到着すると、俺を呼びつけた榎本氏は観覧席のベンチで爆睡。このまま青山葬儀店に搬送してやろうかな。
10年09月15日(水) 昨日やっと、重心動揺検査と足型測定のデータをまとめてエクセルファイルを作りました。さっそく今日からデータの比較検討に入りました。朝から5時間ぶっ通しでパソコンやってたので、気分転換にワイシャツの胸ポケットの糸がほつれていたのを縫いました。こうして時々他のことをやらなければパソコン作業はミスが出ます。
10年09月13日(月) 「山崎先生、教え子からメダリストがでました!いま明治安田生命に所属している福本温子っていう選手ですが四年前、インターハイチャンピオンになり先生に報告した子です!!今年のU23世界選手権で銀メダル獲得!日本人女子初です!さらに楽しくなってきました(^o^)。マツナガヒロユキ」というメールを貰いました。
松永弘之先生の略歴
大村高校ボート部(中学までバスケットで高校からボート)→日体大→鶴鳴高校非常勤講師(平成7年〜8年の2年間)→唐津商業高校へ。
福本温子(あつみ)選手の略歴
平成17年4月唐津商業高校入学(1年時はバレーボール部に所属し、高校2年4月よりボート部に入部)。翌年の近畿総体で、入部1年4ヶ月にして女子シングルスカル優勝。平成19年同校卒後明治安田生命に入社。平成22年の全日本選手権女子シングルスカルチャンピオン。平成22年のU23世界選手権軽量女子シングルスカル銀メダル獲得。世界選手権で彼女が松永先生に送ったコメントは「私より速い奴がいてムカツク!」
いやいやいやすごいすごい。長崎で採用待ちしていたけど佐賀に行ってよかったねえ松永先生。おめでとう
10年09月12日(日) 会長杯争奪長崎市内中学新人戦を観に行きました。今の中学2年生と1年生が長崎国体の主力になるのでその情報収集のための観戦です。それに先だって、8月29日に行われた長崎市内中学1・2年生のジュニアオーススターセレクションも観に行きました。まだ、諫早地区・五島地区・佐世保地区の試合を観ていませんが、リストアップした情報と観戦した試合からの感想は、「長崎国体は大変だなあ」です。チーム長崎で国体を乗り切りたいので「海外はおろか県外からも選手は取りません」と公言しているものの、この状況を見ると少し不安になります。でも、平成8年の山梨インターハイ決勝進出メンバーの身長は、159/160/160/170/173だったので、それを考えると悲観ばかりしてはいられないのですが…。
追伸:ウィンターカップ福岡県予選で福大若葉(旧:九州女子)が出場権獲得!池田先生おめでとう。たぶん全国で一番乗りか?さあ、次は札幌創成だあ!予選までケガするなよ。
10年09月10日(金) 昨日の夕方長崎空港を発って体育学会(於:愛知県豊田市中京大学)に参加してきました。今年もポスター発表をしました。中部国際空港から宿舎に向かう電車の中でブチキレそうになるほど不愉快な出来事がありました。それは途中から乗ってきた数人の男子高校生の態度でした。耳障りな大声で仲間と会話してるし、その大声のまま携帯電話で話すし、挙げ句の果ては食べていたアイスクリームの空カップを足下に置いたのです。その空カップを置いたまま電車から降りたのか持って降りたのかは、私が彼らより先に電車を降りたので確かめることはできませんでした。彼らは皆ヨネックスのスポーツバッグを持っていたのでラケット競技の部活生だと思いますが、「こんな奴らが部活やってるのか」と思うと一層腹が立ちました。数年前、思案橋のコンビニの前の路面にベタッと座ってコーラを飲んでいた若者が、飲み干した空き缶をポンと路面に置いたので、「ちゃんとゴミ箱に棄てんかい!」と言ってすぐそばの空き缶専用のゴミ箱を指さしたことがあるのですが、その時その若者は素直に空き缶をゴミ箱に棄てたので「ホー、こいつら言えば聞くんだ」と思いました。今回は、学会に参加途中だという状況であることと、電車の中には他に数人の一般人が乗っていたので「もめごとになって新聞種にでもなったら困るなあ」という思いがよぎり、「こらあ!」ということばを飲み込んで行動には移しませんでした。その、行動に移さなかった自分に腹が立ち、長崎に帰り着いた今でもまだムカムカしている気持ちが治まりません。クソーッ!
10年09月08日(水) 今日の朝練は陸上部監督の林田先生に、ラダーミニハードルを使ってのトレーニングを指導してもらいました。走る・跳ぶ・ねじる等自分の身体を動かすことすらぎこちない選手が多く、それを直したくて前々から林田先生にお願いしていたのですがやっと実現しました。私も一緒に勉強させてもらいます。
10年09月05日(日) 日曜祭日は通常午前練習だけど今日は運動会の翌日なので午後練習。昨日の午後私はミニバス指導に行ったので運動会の午後の様子がわかりません。それで昨日のことを選手に聞いたら案の定体調不良を訴えた生徒が2名出て救急車出動要請を2回したそうです。私は一昨日、運動会の予行練習の日、どんなもんだろうと思って炎天下の昼休みに試しに5000bタイムトライアルをやりましたが、あの暑さはフツーの生徒には過酷だろうなと思いました。学校側もポリ袋に氷を入れたアイスバッグを大量に用意して熱中症予防対策は立てていたのですが…残念!今日はほとんどの公立高校が運動会。天気は終日曇り空で午後には雨もポツポツ。消防署もホッと安心でしょう。さあ今日からまた本気モードでの練習再開。気合いだ気合いだ気合いだあ!
10年09月04日(土) 昨夜は、お買い物から料理まで一切を含めて綾音(5年生)・杏実(3年生)・理子(2年生)・結子(4歳)の4人で夕食を作らせました。綾音はなかなか手際がいいです。餃子の皮を使ったミニパイの最初の作品は失敗。でもその次からはうまくいきました。今日は9:55発ANAで帰る慎子を空港まで送っていきました。空港に行く途中、起きたばかりのGuy家を強引に訪問して麟太郎を見せました。空港で慎子を見送った後はトンボ帰りで高校へ。今日は運動会です。それも途中で抜けて午後1時からは私と板倉氏のふたりで高城台ミニバスの面倒を見なければなりません。でも、この暑さの中の運動会、最後まで保つのかなあ。夜は7時から矢上の焼肉大将でつばさ保育園の先生方と暑気払いです。なんだかんだで1日があっという間に過ぎます。
10年09月03日(金) 今日は運動会の予行練習。明日が本番。練習は今日と明日OFFです。慎子が今長崎中を駆け回っています。麟太郎が生まれてから初の里帰り。佐世保のおばあちゃんに曾孫の顔を見せに帰って来たのです。1日に来て明日(4日)東京に戻ります。麟太郎は勝海舟の幼名。将来俺が一目置くような偉大な人物になるのかなあ
10年09月02日(木) 歯がダメになったら2本まではブリッジできるんですが3本並んでダメになったら部分入れ歯になります。8月中旬に入れたんですがようやくなじんできました。遂に私も入れ歯を使う年齢になってしまいました。クーッ。
10年08月27日(金) 今年の夏のグラウンドランはキツイ。走り終わったら水道水で頭と足(ラジエター)を冷やします。シャツもびしょびしょ。今日はちゃんとタオルが用意されていますが、先日は水浴びした犬みたいに私が頭を振り回して水を切っていたら選手の一人が「先生」と言って冷水を持ってきました。「バカかオマエはーっ!俺が今欲しいのはびしょびしょの頭を拭くタオルじゃないのかーっ!」と私。そんなことが毎日起きます。今日は選手全員が走り終わったあとこんな感想を述べました。「俺はみんながゴールしてくる顔をじっと見ていたが誰一人として全力出し切ってゴールした者はいない。先頭のテルでさえそうだ。これでは勝てないと思った。日本の若者が全員ダメになったのなら仕方がないが、国体やオリンピックでは毎年記録を塗り替える若者が出ているのだから十把一絡げで”近頃の若者は…”と批判することはできない。ではなぜここには自分を高めようとしない若者が集まった?そう思ったよ」
10年08月26日(木) 20日間ぶりに自宅に戻りました。シャワーを浴びた後、ヘソがかゆくなったので掻いていると黒い小さな固まりが指先についてきました。ヘソのごまです。臭い!不潔なのでアルコ−ルティッシュでゴシゴシ掃除しました。ゴマがごろごろ出ました。こすりすぎてヘソの中が赤く腫れました。綿棒の先にクスリを付けて消毒しました。
10年08月24日(火) 4月以降火曜と木曜の高城台ミニバスは自チームの練習に手がかかるので行けなくなってしまいましたが、夏休み期間中なら夕方5時〜7時のミニバス指導には鶴鳴の練習が終わってから行けるので5人ずつ当番で選手を割り当て、選手の勉強・私の勉強・高城台へのサービスの三つを兼ねて可能な限り続けてきました。今日はその最終日でした。最終日ですから午後1時から希望者だけを連れて轟峡に納涼571KBの動画です、動き出すまで少し時間がかかるかもしれません.。メディアプレイヤーやインタービデオでは再生されない場合があります。インターネットからGOMPLAYERという動画再生ソフトをダウンロードすると再生できます。これはすぐれものです。無料でダウンロードできます。)に行き、5時前に高城台に戻って7時までバスケットをしました。また当分お別れです。ハー。
10年08月23日(月) 20日の夜。44年前のバスケット教え子の松本氏(62歳;長崎西→長崎大学経済学部→日商岩井)が訪ねてきたので食事をしました。弟の幹夫氏が撮った写真が夜遅くメール添付で送られてきたので今日のUPとなりました。鶴鳴という銘柄の古酒(富山からの取り寄せ)を飲みながら古きよき時代を語り合いました。
10年08月21日(土) 九州国体初日。成年男子成年女子少年女子ともに予選リーグを1位で通過。明日の決勝リーグに駒を進めました。勝ち上がり表などは受け取り次第UPします。
10年08月20日(金) 今朝8:30〜9:00までの30分間大村市副市長にアポを取ってあったので野澤氏とふたりでアジア大会誘致の進捗状況を説明しに行きました。副市長の忙しいこと忙しいこと秒刻みですね。9時にはピタッと次の案件のため別部屋に行かれました。さて私はそれから長崎に戻って練習に顔を出しましたが、グラウンドランは50bダッシュの終わり頃でした。みんなが体育館に降りたあとも私は5000b走の続きをひとりでやりましたが、終わったときはぐったり。滝壺に飛び込んだあとのように汗でずぶぬれ。久しぶりに死ぬかと思いました。明日から二日間私は薩摩川内市に行くので選手はOFFです。
10年08月18日(水) 午後1時から8時半まで全日空ホテルで、短期大学教員と事務職員の研修会である短期大学コンソーシアム九州2010FD/SD研修会が行われました。明日も午前中はカンヅメです。なぜなんでしょうかね、学会とか研修会となると資料や参加者の口から出ることばにやたらカタカナ語が多くなるのは…。チョコレートとかカレーライスとか日本語化したことばではなないのにわざわざカタカナ語を使う。そんな資料を見たりそんなセリフを聞いたりしているとめっちゃ不愉快になります。わざわざ難しくして権威を保とうってか!。
10年08月16日(月) 月・金の午前練習はグラウンドランです。私も走りましたが、短大に携帯電話を忘れてきたことに気付いたのでグラウンドランではなく短大まで走って取りに行きました。往復約4qです(走行距離を5qにするため、学校に戻ったあとグラウンドを1q走りました)。行きはとんでもない上り坂なので当然帰りはとんでもない下り坂になります。帰りは楽だったろうと思われるかもしれませんが帰りが大変でした。下り坂は膝関節と股関節への衝撃が強く、それを調整するためにブレーキをかけながら走るので余分なところに力が入ってとても疲れました。母の葬儀から初盆までにかかった費用の精算が本日終了しました。「身内の誰かが死ねばこんなにお金がかかるのか」「身内の誰かが死ねば延々とお金を取られ続けるのか」が、一区切りつけたところでの感想です。
10年08月15日(日) 練習はAM/PMの予定でしたがAMだけにしあmした。午後からは母の初盆関係で私が身動きとれなかったからです。町ではあちこちから精霊船が繰り出します。私はそんな大がかりなことはできないので果物などを菰に包んで流しに行きました。母さん来年また会おうね。
10年08月14日(土) 練習の昼休みを利用して墓参りに行った帰り、あちこちの道端では明日の精霊流し(しょうろうながし;さだまさし)で、昨日初盆に帰ってきた魂を再び天国に帰すための精霊船が作られていました。そんな中で、お巡りさんが駐車違反のクルマにステッカーを張っています。「今日は特別じゃない、大目に見てやってよ」と言いたくなりましたが「近所の住民から出た苦情ならば対応しない訳にはいかないだろうな」とも思いました。お巡りさんも大変だなあ。追伸:私は母の仏壇の果物などを菰に包んで海に流しには行きますが精霊船は出しません。
10年08月13日(金) 1ヶ月と3日ぶりに走ってみました。私の股関節は、図のように受け側の骨の丸みがなくなって角ばってしまっているので周囲との摩擦が生じて痛くなるのであって、じっと安静にしていたら治るというものではありません。そこで今日はまだ通常動作でも少し痛みが残ってはいるものの、テストランをやってみたわけです。走り出しは1q5分30秒のゆっくりペースで走り始めましたが結局27分46秒かかってしまいました。16秒オーバーです。RUNのあと痛みが増したかというとそうでもありません。ただ股関節を外転させるととても痛いです。ま、こんな調子で少しずつ本来の姿に戻していこうと思います。
10年08月12日(木) 今日は朝から職員検診。選手を高校に送り届けた後Uターンして短大へ。バリウムを飲んで胃検診を済ませたのが10:14。10:30に深崇寺の住職さんが初盆のお経を上げにくるというので急いで帰りましたが、あっちは少し早く来て、こっちは少し遅れたのですれ違い。家に帰り着いた時はすでに住職さんは家を出た後でした。なので私はひとりで祭壇にお線香を上げ、それから歯医者に行き、午後の練習に顔を出し、高城台小学校のミニバス指導に出かけ、お墓の掃除に行って寮に戻りました。忙しい1日でした。しかも、バリウム飲んだあと下剤を飲んだので、あちこち移動するのが大変でした。今日から25日まで寮の宿直です。
10年08月11日(水) ハワイ時間14:40発のJO77便でホノルルを発ちました。ホノルル空港では時差ボケと買い物疲れが重なってみんなベンチで居眠り。ホノルルを出発する前から台風情報を入手しており、関空→福岡の国内便が心配でしたが、20:58、定刻より少し遅れましたがANA便は福岡へ向けて飛び立ちました。ところが、台風の横を通り過ぎたので大揺れ。Guyの奥さんは椅子にしがみついてました。福岡空港には行きと同じように林田先生がマイクロバスで迎えにきてくれ、深夜12時過ぎに無事長崎に到着。明日からチャンネル切り替えです
10年08月09日(月) 今日はフリーデイ。城北の選手はウオーターパラダイスで4時間水遊びの後2時間アラモアナでショッピング。鶴鳴は水遊びなしでアラモアナ周辺で7時間ずっとショッピング。夜は日本のコーチ陣地元のコーチ陣で夕食会。なんとカラオケまでありました。私も歌わされました。曲はDianna。I'm so old and you are so young this my darling I've been told   I don't care just what they say   'Cause for ever I will pray   You and I will be as free   As the birds up in the trees   Oh please stay by me Dianna   Stay by me Dianna.
10年08月08日(日) 朝7時にホテルを出発。MONAHANS高校で、城北主力1試合、鶴鳴主力1試合城北鶴鳴合同1年生がそれぞれ違う高校と1試合ずつやりました。1年生チ−ム以外は僅差ですが2敗。選手もいい勉強になったことでしょう。夕方はホテルのラウンジでハワイの選手たちからレイの作り方習い、そのあと歓迎会。食事後はゴルフに興じる選手もいました。私は今回の旅行で最大の目的であるDiannaとツーショットで(6年前)写真を撮ることができ、Imuaの仲間たちとも写真を撮ることができました。目的完遂!
10年08月07日(土) ホテルでの朝食は、GUY夫妻の指導のもとキッチン付きの各部屋で自分たちで作って食べました。今日は予定では試合の日でしたが現地側の都合で今日と明日のスケジュールが入れ替わりました。で、選手たちはワイキキビーチでスイミングを楽しむ者やショッピングに出かける者等それぞれ自由。夕食はバイキング早め済ませ、その後がまた自由。夕方のワイキキビーチに泳ぎに出かけた者もいますが街を散策に出かけた者もいます。ワイキキビーチはホテルや商店が建ち並ぶ高層ビル街と道ひとつ隔てた浜ですから街中を水着姿で歩く人々やホテルのエレベーターの中に浮き輪を持って水着姿で乗り込んでくる家族連れを目にするのはごくフツーの光景です。追伸:食事中にグーッと寝てる者が数人。時差ボケです。時差ボケってのはほんとに突然眠くなるものです。現地時間8/7 19:00
10年08月06日(金) 日本では8月7日ですが、アメリカではまだ8月6日でず。昨夜、無事関西空港を出発しました。今日10:30にホノルル空港に着き、ホテルニチェックインするまでの間バスでホノルル市内の観光。POLI LOOKOUTという展望台でワイキキと反対側の海の景色を見たあとパールハーバーを見学してホテルに到着。Guyからの諸注意のあと夕食までの間城北も鶴鳴もワイキキビーチへダッシュ(私は行きませんよ)。夕食はみんなでピザ
10年08月05日(木) 今日は、朝からつばさ保育園の月組(年長)18人を、イルカウオッチング(南島原市加津佐町)に連れて行き、昼過ぎに帰ってきて練習に顔を出し、郵便局に行って素麺注文の振り込みを済ませ、銀行に行って初盆関係用品の代金振り込みを済ませ、高城台ミニバスの指導に行き、研究室に戻って明日の渡米の準備を済ませたら午後11時を回っていました。ハーッ。明日、40人(鶴鳴+城北)の選手の添乗でハワイに発ちます。今回の渡米の一番の楽しみは、Dianna Zane に会えることです。彼女はたぶん19歳。大学1年生。
10年08月03日(火) 昨日と一昨日の二日間は、日本協会から弘田氏と今氏が来られてアジア大会の会場検証視察。この二日間のお二人の行動は1分も無駄がなく、夕方6:55分の空港出発直前まで綿密な打合せを行いました。私は、昨夜長崎に帰ってきてから選手15名分の渡航用ESTAの手続きをインターネット上でやりはじめましたが、疲れていて途中で寝てしまい最後の5人分は今朝やりました。今朝はこのあと銀行に行って選手から預かっている日本円のお小遣いをドルに替える手続きをし、そのあと11時からお葬式に行きます。私が大村で仕事をしている間に生徒が亡くなったのです。林優梨亜;西城山小(選手)→渕中(選手)→鶴鳴(マネ)。入学後すぐ体調不良で休学して大学病院に入院し、ほとんど部活動はしていません。合掌。忙しい上に悲しいことが続きます。
10年07月31日(土) 昨日から合宿に来ていた神村学園が昼過ぎに帰りました。神村学園が合宿に来る時は練習試合が目的ではなく軌道修正が目的なのでスクリメージを通してのクリニックが主体になります。ですから、選手よりも私の動きの方が多くなります。昨日は一日中動きの見本を示したり身振り手振りで教えたりしたので、夕方には右股関節がまた痛くなり、滝川に時々足首を引って貰いながら指導しました。今日は午前中だけのクリニックでしたが、神村と鶴鳴に加えて小ヶ倉中学校男子のクリニックもやらなければならなかったので心身共に疲れ果てました。疲れはしましたが、午後からは理子・結子・彩花・勇歩と遊んでやろうかなと思って電話をしました。こどもと一緒に遊ぶと体力を消耗します。でもこどもと遊んでいると心が癒されるので、疲れていてもつい電話をしてしまうのです。しかし今日は「ママたちが共同で面倒を見るので先生はゆっくりお休みください」という返事が返ってきたのでしぶしぶ午後は休養することにしました。明日は選手はOFFですが、私は明日と明後日の二日間日本協会視察員のアジア大会施設検証視察に立ち会わなければならないので休みは取れません。
10年07月28日(水) 久住登山の夜に引いた風邪がまだ抜けません。明け方3時過ぎからいつも咳き込みます。股関節もまだ痛い痛いです。物忘れも多くなってきました。ウーン、俺もそろそろ焼きが回ってきたかな?
10年07月25日(日) 今日は午前中で練習をやめ、轟きの滝へ納涼に出かけました。練習の出来が良かったわけではありませんが、このクソ暑い夏にあと14回も午前午後の二部練習があることを考えて、「たまには息抜きもいいかな」と思ったのです。午前の練習の途中で思いついたので選手は泳ぐ用意など何もしていません。で、私が持っている色付きのTシャツをありったけ引っ張り出して貸し出し、下は短パンで泳がせました。パンツはどうしたか知りません。「エーッ!泳ぐ用意してな〜い」などと言えば「じゃ中止」と言われかねないので選手も必死です。とにかく泳げる格好をして滝壺に向かいました。カナズチやケガで泳げないヤツもいましたが、滝壺の真ん中でシンクロをやるヤツ(残念ながらシャッターを切れませんでした)が出たり、チビたち5人も特別参加してなかなかのにぎわいでした。
10年07月22日(木) 七七日(これで四十九日と読むのだそうです。初めて知りました)を無事終えました。@ A B C 私たちは満州からの引き上げ家族で、帰国後はどん底の貧乏生活が続き、家族が相次いで死んだもののその遺骨をまともに葬ることができませんでした。でも2年前それをまとめて深崇寺にお世話になることにし、ようやく家族が揃うことができました。父良雄昭和23年10月22日没享年42歳。弟幸男昭和21年2月9日没享年3歳。弟文雄昭和21年7月2日没享年1歳(弟二人の顔は覚えていませんし、一緒に遊んだ記憶もありません)。母俊子平成22年6月4日没享年92歳。墓石を眺めていたら満州から引き上げてきた後の断片的に覚えている記憶が蘇ってきました。ちょっとだけ切なくなりました。
10年07月21日(水) 久住から夕方5時に帰ってきました。今年はまさに苦渋登山でした。18人中「この子頂上までたどり着けるかなあ」と心配になるのが今年は5人も居ます。途中何度も休憩させながらなんとか全員頂上征服はしたものの、降りる時は泣きっぱなしの子が3人。でも、おんぶしてやったり荷物を持ってやったりすれば自力でやったことにはならないので超難所で時々手を引いてあげるだけ。最終的には全員生還。石ころだらけの頂上付近を通る時はいつも「こんなところ5歳や6歳の子には無理かも…」と思うのですが、やり遂げてみると、この子たちが大きくなった時はおとなに「近頃の若い者は、なんてセリフは絶対吐かせない若者になるよな」と思います。特に今年は危なっかしい子が多かったのでスタッフは大変でしたが、だからこそ今回の苦渋登山はすばらしい成果を収めたと思います。追伸:園長から「はいプレゼント」と貰ったぬいぐるみ。なんとマグロです。7月13日のブログを見て、インターネットで取り寄せたのだそうです。今夜からこれが私の枕です。股関節早く治れ!
10年07月19日(祭) 3日間、山口県光市のスポーツ交流村で合宿をしてきました。集まったのは、山口少年女子・佐賀少年女子・鹿児島少年女子・中村学園・長崎女子の6チーム。最近弱いので遠慮するのですが、山口県スタッフのたっての願いなので恥を忍んで毎回参加させてもらっています。
@連れて行ったのは11人。その中で試合に出せるのは7人。出せると言っても上記のチームの相手を出来るような選手は一人もいません。総勢26人の部員中、強化と名の付く事業には8人しかリストアップできないのです。クレインズの台所は火の車です。
A昨日の昼過ぎ、他のチームの試合をパイプ椅子に座って見ていたらふんぞり返りすぎてうしろに転倒しそうになりました。両足を広げて踏ん張って転倒を食い止めたとたん、右股関節にグキッと痛みが…。また、普通に歩くのでさえ痛みを感じるようになりました。あーあ、明日はつばさ保育園の園児を引率して久住登山に行かなければならないのに〜。
B18日の夜は懇親会。ここ数年榎本日出夫氏(日立男女コーチ、ゼクセル男子コーチ、全日本チームコーチなどを歴任。現在は引退してクリニックやアドバイザーコーチとして全国を飛び回っておられる。日本で最初のプロコーチ。私より1歳年上の69歳)も山口県のアドバイザーコーチとして毎回顔を出されますが、榎本氏は昼の部の熱意をそのまま夜の部の懇親会にも持ち込みます。朝から夜までノンストップです。額に溜まった玉の汗をおしぼりでぬぐいながらバカッぱなしを延々と続けるこの人の熱意にはいつも感服します。18日の夜のバカッぱなしは「ヤマちゃん俺はねえ特殊な能力があって霊が見えるんだよ」から始まってコワーイ話特集。2時間もそんな話を聞かされていた私は榎本氏の霊が乗り移って腑抜け状態になってしまいました。
C今朝は榎本氏は体育館に顔を見せるが遅い。二日酔いするほど飲んでいないのに…と思っていたら間もく答えがわかった。朝から近所の犬と戯れて遊んでやっているうち、得意のいたずらがエスカレートし過ぎたのだろう、犬がイラついて突然榎本氏の顔面にガブッと噛みついた。いつもの榎本氏ならヒラリと身をかわすところだろうが、昨夜私に霊をのり移させてしまったので今日は念力が残っていない。で、こんな悲惨な結果となってしまった。休日なので子供救急病院しか開いていない。そこで、順番待ちをしているこどもたちの列に割り込んで破傷風予防やら何やらの注射をして体育館に駆けつけたという次第。明日宅急便で霊を送り返そうッと。
10年07月16日(金) 足型測定の最終日。今日は日見小学校の3名と先日欠席だった古賀小学校の1名の計4名の測定でした。学校に戻って測定器具を収納してみんなで打ち上げ。ついでに真理恵のハピーバースデーもやりました。夕方7時からはこの場所が日本協会役員3名と長崎県協会役員5名によるアジア大会開催の打合せ会場に早変わり。いやいや大変大変。3時間半ぶっ通しですよ。そして明日は早朝に学校を出発して山口遠征です。フーッ
10年07月14日(水) 今年は幼児の足の発育発達の研究の最終年度です。今日を含めてあと3校の小学校で測定をさせてもらえば全て終了です。今日の小学校では3名の該当児童の重心動揺検査(グラビコーダー)を行いました。小学校での測定はどこも給食後の昼休み時間に実施させてもらいます。今日もいつものように少し早めに到着して玄関脇のメダカの水槽の近くに測定器具をセットし、児童が来るのを待っていました。その間、向かいの厨房のおばさんがひとり出てきていろいろ質問します。そのうち、「ね、ね、私もやって貰っていいかしら?」と言い出しました。結果がジジ−ッとプリントアウトされて出てきます。それを見ながらおばさんは、「どう?わたし大丈夫?病気じゃない?」と質問します。いやいや、病気の検査じゃないんだけど…。それを見ていたもうひとりのおばさんも出てきて「私もやってもらおうかしら」。給食を食べ終わった児童が検査を受けに来たら今度はそのおばさんたちが被検者からコーチに早変わり。「いいかい、動いちゃだめだよ。30数えるまでじっとしてるんだよ」と熱心なこと熱心なこと。研究開始から6年経ちますが、こんなに楽しい測定は初めてでした。
10年07月13日(火) 骨頭壊死でもなく、臼蓋形成不全でもなく、強いて言えば老人性股関節変形症だそうです。セレコックス100rを毎日2回飲むことになりました。私の肩や膝は骨がすり切れて角張っています。それなのに運動し過ぎるから時々このような痛みが発生し、しばらく運動禁止しなければならなくなったり、手術して治さなければならなくなったりします。でも私はマグロの生まれ変わりなので動きを止めることはできません。運動を控えたりして無理をしない生活なんて考えられません。痛みが和らいだらまた走り始めようと思っています。
10年07月12日(月) 土曜日。オープンスクールの閉会式に「元気です」という姿を見せはしたものの、その後右側の股関節に異常を感じ始めました。それが昨日は階段昇降時に痛みを感じるようになり、今日は普通の歩行でさえも痛みを感じるようになりました。特に体幹を画像のようにねじると○印の部分に強く痛みを感じます。走りすぎでこのような症状が出るのなら徐々に痛みを感じるようになるはずですが、今回は急に痛みを感じるようになったので走りすぎが原因ではないのじゃないかと思っています。明日股関節専門の医師に診て貰おうと思います。「タカハシせんせえ〜。頼むよお。俺はまだあと4年は車椅子生活になるわけにはいかないからねえ」
10年07月10日(土) 昨日から今日にかけて大忙しでした。まず昨日は7時に長崎を出発してマイクロバスで熊本へ。つばさ保育園の園児を連れて熊本のやまなみこども園に遠征に行きました。帰ってきたのが夕方の5時。そして今度はCUBEに乗り替えてまた熊本へ。出発したのが5時1分。熊本の理事長野田氏と鹿児島の理事長鮫島氏に会ってアジア大会の協力をお願いするために再び熊本に向かったのです。昨夜は熊本泊まり。今朝は熊本で行われている九州高専大会を少しだけ観戦して佐世保高専を応援し、長崎に帰り着いたのが12:40。オープンスクールの閉会式にやっと間に合いました。なぜ閉会式に間に合いたかったかというと、この日のオープンスクールには市内のバスケットボール優秀選手がズラーッと参加していたからです。募集活動解禁は11月1日ですから急いで帰ったからといって何かができるわけではないのですが、「元気です」という自分をその場に居させたかったのです。とにかく忙しい2日間でした。フーッ。
10年07月07日(水) フルメニュー参加できない選手が今日で5人になりました。その中で、中学時代の故障を引きずっているのでフルメニュー参加できないのが3年生の吉岡と1年生の滝川。他の3人は練習でケガをした選手です。1年生の林田は5月中旬にやった左足首の捻挫がまだ治りません。2年生の赤島は左足ふくらはぎの肉離れで6月25日から除外。それに加えて今日、3年生の上瀧が「右ふともも裏側が腫れていて痛いので診て貰えませんか」と訴えてきました。診ると重傷肉離れです。赤島は画像の○印が損傷部位ですが、触診でもしこりはないし見た目にも内出血や腫れはないので外見からはケガしているとわかりません。上瀧のはやはり○印が損傷部位ですが、触診で明らかなしこりがあるし、内出血(@ABC)が膝の裏まで広がっているので外見からもケガをしているとわかります。上瀧のケガの状況を知った時はものすごいショックを受けました。赤島の肉離れは彼女の動きを見ていてすぐ異常に気付いたので練習から外したのですが、上瀧のは今日までまったく見破れませんでした。上瀧はかなり長期間休ませなければならないのですがそれがショックなのではなく、こんなにひどいケガを見抜けなかったことがショックなのです。「いつから?」と聞くと6月13日に「痛いなあ」と感じたそうです。痛みを感じてからもう3週間以上経っています。高総体後、筋トレをメニューに加えたし、グラウンドトレーニングは5000bのタイムトライアルに加えて50bダッシュも本格的にやらせ始めたし、コートでの練習にはフルコートを走るメニューがかなりの割合を占めるようになったし、どこかを傷める選手が出ても不思議ではない練習ではあるのですが…。29歳の時、中村幸子の重傷貧血を見抜けなかったことを契機に、スポーツ医学の猛勉強を続けてきて約40年。それが深層崩壊しそうです。死んでしまいたい気分です。
10年07月04日(日) 今日の午前中は高城台ミニバス指導。全面貸し切りで伸び伸び。特に、いつも隅っこのゴールでシュート競争だけしかできない年少組(幼稚園年長から小2まで)が、フルコートで試合をすることができました。まだラグビーとバスケットの区別がつかないような試合ですが汗びっしょりになって楽しみました。ダンク競争もしました。
10年07月02日(金) 今日は足型測定で2番目に多い人数の矢上小学校へ行きました。補助の学生は3人。先週できあがったお揃いのTシャツで行きました。私は恥ずかしくて着て行きたくなかったのですが3人から脅迫されてしぶしぶ着て行きました。どんなデザインにするか学生たちが考え原案を作成し、最後に私が少し手直しして出来上がりました。
10年06月30日(水) 月曜日に選手と一緒に走れなかったので今日一人で走りました。たぶん今の私はベスト体重より5sは太っていると思います。だって股ズレでヒリヒリしてますもん。※画像はありません。
10年06月27日(日) 明日から4日間期末テストです。ですから昨日と今日の土日は練習をOFFにしました。しかし、このような措置をとったからといって一人残らずしっかり勉強してくれているだろうとは思っていない自分がいます。6月後半だけで、チーム練習への参加禁止を命じなければならない者が3名も出たというのがその理由です。その3名はいずれも学校から訓戒や謹慎等の処分を受けるような虞犯行為をしたのではなく、私の中で絶対に譲れない一線として持っている「運動選手というのは斯く有るべし」という基準を犯しただけなのですが、そのことによって「残りの選手の中にもこのような基準違反者がいるかもしれない」と、部下を疑っている自分自身がいるのがとても嫌でとても辛いです。こんな恥ずかしい内情を敢えて公開するのは、日本のあちこちにこのような問題で苦しんでいるコーチがたくさんいるだろうと思うからです。そのようなコーチに「耐えろ!」と言いたいからです。このような問題を解決するのは猛練習ではありません。根気強い訓育です。参考までに、2010年度のハーバード大学在籍の外国人は、日本人が5人に対して韓国人と中国人がそれぞれ40人以上という現実がこのことと無関係ではないのかもしれません。
10年06月23日(水) 昨夜は大村空港に日本バスケットボール協会の石川企画部長を迎えに行き、一緒に食事をしてそのまま大村に宿泊。今日は朝10時に木内専務理事と弘田氏を空港に迎えに行き、木内・石川・弘田3氏を連れて大村市役所・長崎県庁・長崎市役所を訪問。大村市長・長崎県知事・長崎市副市長へアジア大会の長崎開催決定の報告と協力依頼をして再び空港へ3氏を送り届け、学校に戻ってきました。慌ただしい二日間でした。まだ、開催期日は当方第一希望の8月下旬になるのか、第二希望の7月下旬になるのか、第三希望の6月下旬になるのかは他の5大陸予選とバッティングしないように調整してFIBAが決定するまで未定ですが、ともあれ長崎開催が決定しました。全日本女子をロンドンオリンピックに出場させることができ、合わせて長崎国体に向けて協会の組織力向上につなげることができ、さらに県民の活力を高める大会にできるよう頑張りたいと思います。ここに辿り着くまでに何度も挫折しそうになりましたが皆様のお力添えにより実現することができました。心から感謝いたします。特に、総務副委員長の野澤氏の行動力には敬服しました。ありがとうございました。
10年06月19日(土) 久々の高城台ミニバス。みんな少しおとなになっていました。
10年06月18日(金) 昨日は二七日(ふたなのかと読むのだそうです。にじゅうしちにちではありません)でした。仁田小学校での足型測定を済ませて急いで帰りましたがお坊さんはすでに到着していてお経が始まる直前でした。ところで、私の膝の痛みは一向によくなりません。自己診断ですがどうやらジャンパーズニーのようです。少し時間がかかるかなあ。
10年06月15日(火) 昨日は平安社へ葬儀関係代金を支払いに行った。葬儀というものはずいぶんお金がかかるもんだ。今日は市民税課と介護保険課に行って手続きをしてきた。まだまだ事後処理は続く。大変なのが日々送られて来るご厚志やお線香をあげに来てくださる方々への対応だ。今日は、遠方から送られてきたご厚志に対する礼状書きを一気にやってしまった。明日からは貯めないで来た分はその日に処理しようと思う。しかしこれから、17日が二七日、24日が三七日、7月1日が四七日、8日が五七日、15日が六七日、そして7月22日が四十九日でその日納骨と、1週毎にお寺さんへの対応が続く。しかしすぐその後に初盆が迫っており忙しい日が続く。フーッ
10年06月10日(木) 今日は初七日。14:00に深崇寺の僧侶がお経をあげに来てくれました。祭壇の写真は、今年2月3日の92歳の誕生日に撮った写真を部分拡大したものです。いい顔してます。母のことについては5日付けのブログで概略述べていますが、このHPの「山崎純男の本」、「チームを創る」、「第1章;指導者としての歩み」、「10鶴鳴」、「母;41頁23行」をPDFファイルにして改めて紹介します。母はこんな人でした。
10年06月08日(火) 朝9:30からの純心戦のベンチをしたあと、閉会式後の選手達の輸送は三根さんにお願いして私は長崎に帰りました。まず母が入院していた成人病センターへ行ってお礼を述べ→それから母が入所していたシンフォニー稲佐の森Uへ行ってお礼を述べ→それから母が使っていた部屋の後片付けと掃除をし→市役所へ行って私の戸籍謄本と母の除籍謄本をもらい→長崎南社会保険事務所へ行って母の厚生年金関係の事務手続きをし→それに必要な住民票を貰うのを忘れていたのでまた市役所へ行って住民票を貰い→その時私の預金通帳が必要だということがわかったのでまた短大の研究室まで戻って預金通帳を取り→再び社会保険事務所へ行って手続きをし→再び短大に戻ってホームページの更新をし→皆さんに配布する高校総体報告書を270枚印刷し→それから会葬者の名簿整理をしました。超忙しい日でした。そんなに忙しい日なのに、「長崎女子高校バスケット部の山下という者だが肉まん400個作っておいてくれ。夕方5時に受け取りに行くから」と、新大工町の肉まん屋さんに電話したヤツがいる。もちろんいたずら電話。6時頃肉まん屋さんから高校に電話がかかってきて「バスケット部に山下さんていらっしゃいますか?5時の約束の肉まんをまだ受け取りに来られないんですけど」だと。こんな悪戯許せん!
10年06月05日(土) 5月中旬から腎不全のため長崎市立病院成人病センター(淵町)に入院していた母が、昨夜23:34永眠いたしました。2日からずっと母の喘ぐ息づかいを聞きながらベッド脇に泊まり込んでいましたが、息を引き取った後みるみる安らかな表情になっていく母の寝顔を見ながら「よかったねえ。やっと楽になれたねえ。お疲れ様」と言いました。私たちは満州からの引き上げ家族です。昭和21年7月に遼寧省の葫蘆島(ころとう)を出航して貨物船で日本海を渡り、京都の舞鶴に上陸しました。途中弟二人が命を落としました。引き上げた翌年に父が突然他界しました。母が30歳の時でした。それから母は唯一身につけていた針仕事で生計を立て、私と兄を育ててくれました。まさに、太平洋戦争を挟んだ激動の昭和をたくましく生き抜いた傑女です。この母のしたたかさを受け継ぎ、命あるかぎり私も若者を育てていきたいと思います。これまでの皆様のご厚情に感謝いたします。備考:通夜本日19:00 葬儀明日13:00 いずれも平安社長崎斎場(稲佐公園前)
10年06月03日(木) 昨夜は病院に泊まり込みました。
10年06月02日(水) 昨日県立総合体育館と県体育協会に行ってFIBAASIA関係の用件を済ませ、母の入院先の成人病センターに見舞い行き、それから6月中に足型測定をさせてもらう各小学校を予定日確認のために訪問した。これで、6月9日に足型測定を再開するまでは夜遅く仕事をすることもあちこち走り回ることもない。何もすることがないので夜は本(昭和史;半藤一利著)を読んだ。それでも退屈なので昨夜は10時に寝た。そしたら今朝は4時半に目が醒めた。目が醒めてから布団から出るまでの1時間、高総体前の完全OFFDAYを明日(3日)にしようか明後日(4日)にしようかずっと考えていた。結論はまだ出ない(AM6:00現在)。
10年05月30日(日) 朝8時にバイクで大村まで行きました。野澤氏とFIBAASIAの打ち合わせをするためです。なぜそんなに朝早く行ったのかというと、10時には長崎に戻って高城台小学校の運動会を観たかったからです。3月まで指導していた高城台ミニバスのこどもたちに久しぶりに会いました。みんな成長してたくましくなってました。結子ちゃん(4歳)は1日中ねえねえたちの応援をするのは飽きるのでバイクで連れ出しました。シャボン玉をまき散らしながらペンギン水族館まで疾走。帰りはバイクの上で眠ってしまいましたが、ロープで縛っておいたので大丈夫でした。昨日エベ(H5卒)からもメールが届き、絵名ちゃん(11ヶ月)の画像が添付されてました。絵名ちゃんといえば、生まれた時お祝いに行った産婦人科の病院でエベが「院長から山崎先生が来られたら挨拶したいので知らせて欲しいと言われてます。ちょっと待っててくださいね」と言い、院長を呼びに行きました。誰だろ?と思いながら待っていると院長が現れ、「私は青雲学園でバスケットをやっていました松尾と申します」と直立不動で挨拶します。私は「あ、どうも」と生返事をしました。よくよく聞いてみると松尾院長は昭和61年に青雲学園が県高校総体で優勝した時の選手で、その時テレビ放映の解説をしていた私が松尾院長を褒めちぎったのだそうです。その放送のあと松尾氏は「お前、山崎先生と親戚か何かか?」と仲間達から言われたそうです。5月15日に送られてきた翠月ちゃん(3歳;ママはハルH9卒)と倖瑠君(6ヶ月;ママはアブH7卒)の画像も添付します。麟太郎君(ママは慎子H9卒)はまだ生後2ヶ月。孫がどんどん増えていきます。
10年05月29日(土) @昨日の話題
昨日高校総体の推戴式がありました。主将の抱負は通常どの部も、「ベスト4は死守します」など、勝負や意気込みに関するものがほとんどですが、今年のバスケット部主将の抱負は「このパネルは、昨年5月15日に亡くなったマネージャーのヒロの写真です。今度の高校総体はヒロが在学していたら最後の学年の高校総体になります。ヒロは私たちと一緒にベンチにすわることはできませんが、私たちの心の中ではヒロとともにこの高校総体を戦い抜きたいと思っています」でした。
A今日の話題
予定では今日も明日も練習はAM/PMになってましたが変更して今日はAMのみにし、明日はOFFにしました。そこで午後から私はグラウンドを一人で走ってみました。頻脈と不整脈発生から4日目。心臓に「どうだ?なんとかなりそうか?」と聞いてみたくて走ったのですが、心臓は大丈夫でした。でも1000b過ぎあたりから両膝のサラが痛くなり始めました。膝を曲げた状態で体重がかかるととても痛いということがわかったので膝を曲げずに走ってみました。競歩のような走り方にしたわけです。するとなんとか5000b走り抜くことができました。27分15秒かかりました。
10年05月26日(水) 今日は朝8時に久松をバイクに乗せて小森内科医院に連れていきました。血液検査を受けさせるためです。最近動きがおかしい。バテ方が早いし、バテると一気にパフォーマンスダウンする。「ひょっとしたら?」と思って血液検査を受けさせたわけです。Dr小森が特急で調べてくれて夕方には回答が来ました。個人情報ですから数値は伏せておきますが案の定軽い貧血でした。明日から5回くらい注射で鉄を補充し、その後は鉄剤投与をしばらく続けます。練習を続けながら治せるでしょう。昼、足型測定のために某小学校に行きましたが、測定対象の児童が欠席していたので、明日電話して再訪問することにし、今日は何もしないで帰ってきました。超忙しい時に限っていろんなことで振り回されます。ところで、A選手がスランプだとか、B選手がケガしたとか、C選手が貧血だとか、今こんな練習をしているとか、母が緊急入院したとか、ここまでプライベイトを公開するのかというぐらいこのブログに載せていますが、その真意を述べておきます。それらのすべてを若いコーチたちの参考にしてもらおうと思うからです。私はこうして失敗した、私はこうして難関を切り抜けた、という事例が悩んだり壁にぶつかったりしている若いコーチたちの道しるべになればいいなと思っています。追伸:今日は札幌創成高校の三上先生からホワイトアスパラが送られてきました。ホワイトアスパラは缶詰のヤツしか見たことがないので感動し、ストレス充満の私の身体をやすらぎ感がホワーッと覆ってくれました。三上先生ありがとう。
10年05月25日(火) 金・土・日の雨の中、神村学園・小ヶ倉中学校男子・清水中学校男子(鹿児島)が鶴鳴に集まって強化試合。月曜日と今日の午前中まではFIBAASIA長崎大会誘致視察のために来崎された日本協会役員への対応と、彼らとともに県庁・長崎市役所へ出向いての支援依頼。その間母が緊急入院。母は92歳なのでいつ容態が急変するかわかりません。だからといって、公的にも私的(例えば、授業はもちろん7月中旬までずっと詰まっている足型測定など)にも私が直接動かなければ進まない仕事や用件に穴を空けるわけにはいきません。すると必然的に睡眠時間を削ることになります。今日は、練習の途中で頻脈と不整脈が出ました。初めてのことではないので慌てはしませんでしたが、ストレスが臨界点に近づいているようです。
10年05月17日(月) 本学幼児教育学科1年H・Kさん。20歳です。ということは、高校を卒業して2年経っての入学ということになります。本学で学ぶための2年分の経費150万円を働いて貯め、受験したのだそうです。彼女は毎月約6万円ずつ貯金を積み立てたということになります。本学在学の2年間、親の援助は一切受けないのだそうです。アタマが下がります。
10年05月15日(土) 午後、後藤由佳の一周忌にみんなを連れて行ってきました。昨日県総体の組合せが決まりました。あと3週間で県総体が始まります。本来なら彼女は最高学年のマネージャーでチームを仕切っているはずです。これは県総体の正式申込書ですが、私たちの気持ちの中ではこれで参加します。
10年05月14日(金) 今日は茂木小学校での測定。gravicorderだけの該当者は32名。gravicorderと足趾形態撮影の両方該当者は9名。小学校での計測は給食後の昼休み時間に行います。この人数の計測は今日だけでは無理だろうと思っていましたが、先生方の親切な対応と助手学生のてきぱきした仕事ぶりで5時間目開始1分前に全員終了しました。感謝感謝です。放課後グラウンド練習の5000b走はまだペース走ですが50b走の計測は1年生が今日初めてのトライ。陸上部の林田先生にもフォーム指導を手伝って貰いながら要領説明やハッパかけで片時も目が離せません。というわけで、母の病院には顔を出せませんでした。明日行きます。
10年05月13日(木) 木曜日は短大での私の授業はありません。朝10時に出発をしてマイクロバスで保育園のこどもたちを島原までマテ貝掘りに連れて行きました。まだ潮が引かないなあそろそろいけるぞ採れたあ!午後4時半には帰り着くので練習には充分間に合う予定だったのですが、マテ貝掘りの途中で母の入所施設から電話がかかり母が緊急入院。ですからそのまま私は練習に顔を出せず病院へ直行。少し前から尿の色が濃く、元気がなかったので総合病院での外来診察を依頼したのですが、このまま放置すると人工透析になる可能性があるので、専門機関(成人病センターに)で入院治療させることになったわけです。しばらく経過観察です。母は92歳ですから健康上さまざまな事が起こることは承知なのでうろたえたりはしませんが、それよりも私が病院へ行っている間に林田が足首を捻挫したことの方がショックです。前回久松が捻挫したのも私が夕方6時過ぎに会議のために体育館から出た直後でした。二人とも1年生で今バスケットを教え込むのに1秒も無駄に出来ない選手です。「川上〜い、お前は生き残れよ〜お(同じく1年生トリオのうちの一人)」
10年05月12日(水) 昨日から足型測定が開始されました。7月中旬まで、また寝る時間を削らなければなりません。今年は、重心動揺計を用いて、新たな視点から幼児の足趾形態を見てみようと思っています。失敗に終わるかもしれませんが…。
10年05月09日(日) バルーンカップ二日目。1試合目と2試合目の間に体育館の外で動きの確認。47年コーチをしていますが、こんなことは初めて?だと思います。ペナルティでもなく、お仕置きでもありません。学習させるためとイメージ能力を向上させるための作業です。今選手を叱ってもダメ。鍛え込んでもダメ。学習する習慣を身につけさせることが唯一絶対の最優先事項なんです。辛抱と根気が必要です。胃がねじれそうです。
10年05月08日(土) バルーンカップ初日。強くもないのに毎年招待されます。感謝です。そのことよりも、今日はみなさんに是非紹介したい人がいます。会ったこともないし、名前も知らない人ですが…
1.選手を罵倒するな、罵倒は自分の指導力不足を自ら暴露しているようなものだ。そのまま自分が言われていると思え。2.練習で指導したことがそのまま試合に出るので試合は静かに見ていろ。お前の指導で何が出来てないかはっきり見つめろ。3.すべての動作は状況判断から始まる。だからいきなり指導するのではなく、自分で判断・実行・工夫させる習慣を身につけさせろ。そのヒントを選手には与え続けろ。基本はあるがこうしなければならないって事はスポーツにはないはずだ。狭い考えを捨てろ。
1〜3は、小さな町で少年サッカーの指導をしているフツーのおじさんが若い指導者に言ったことばです。このことばを聞いて私は「この人すごい」と思いました。特に「すべての動作は状況判断から始まる」と「そのヒントを選手には与え続けろ」というセリフには参りました。世の中には、知られざるすごい人がいるんですね。
10年05月07日(金) 何年ぶりでしょう。自らスポンジダミーを持って選手に教えるなんて。私の肩は、右肩の棘上筋・棘下筋ともに断裂、しかも右肩の腱板は4p×5pの幅で消失、そして上腕二頭筋の長頭は左右両肩とも炎症を起こしていて細くなっている、とズタズタ状態で、今日も大学病院のリハビリ室に行って下迫先生にマッサージをしてもらってきたのですが、もしこの子が私が今教えている技をマスターしてくれるなら、人工関節になってもかまわないと思っています。
10年05月04日(火) 30日の放課後出発して深夜に倉敷に着き、1日から今日の午前中まで4日半。ハーフゲーム(10分×2)を18本。7人で戦ってきました。他のチームはどこも20人ぐらい連れてきてましたが、鶴鳴はどの遠征も最小限の人数で行きます。インターハイや選抜大会などの公式試合にはお金を工面してエントリー外の部員も連れて行ったりしますが、このような強化合宿は練習試合を体験させなければならない最小限の人数に絞るのです。それにしても7人とは少なすぎます。裏を返せばそれだけ選手層が薄いということです。しかも、強い相手との練習試合を最も体験させなければならない久松が、足首捻挫が治りきっておらず1分も使えなかったのが残念です。追伸:昨年同様高速道路の上り車線は大渋滞でした。この時期の旅行はやめた方がいいよ。
10年04月28日(木) 高城台ミニバスの福田浩亮君(高城台6年)と高比良隼君(矢上6年)が、隣りの古賀小学校でミニバス活動を続けたい(受け入れて貰えたらの話だけど…)と、本学事務職員の板倉氏(高城台ミニバス世話役)に連絡してきたそうです。それを聞いて、私のアタマの中を他のこどもたちの顔が走馬燈のように駆けめぐり、切なくなってしまいました。誰かコーチを引き受けてくれる人が早く見つかって欲しいです。
10年04月26日(月) 毎週月曜日は16:10まで3コマ連続の授業。ですからいつも月曜日は練習に少し遅れて顔を出します。そして月曜日は通常まずグラウンドランをやってから体育館での練習。先々週は生徒と私の時間が合わずに私はグラウウンドランをお休みしましたが今日は走りました。走り始めるまで「走らなくてもいい言い訳になるような何かが起きないかなあ」と思いながらグランドに上がりましたが、何も起きなかったのでシブシブ走りました。金曜日に走り、土日は2日間続けて神村学園のクリニックをやり、3日連続肉体労働をしたので疲れていて本当に走りたくなかったのです。というわけで今日は死ぬほどバテました。明日はまた忙しいです。9:00田中先生(中体連専門委員長)と打ち合わせ、10:00県民スポーツ課の課長と対談。12:30朝長会長と打合せ(於:原爆病院)。14:00つばさ保育園訪問。16:20短大福祉コースの補講。誰も居ない無人島に行きた〜い。
10年04月22日(木) 長崎空港発09:00、羽田空港発18:40の飛行機で東京日帰り。用件は、来年6月のFIBAASIA]女子選手権誘致の条件整備の打ち合わせです。FIBAASIA第一事務総長のHAGOP(ハゴップ)氏は日本開催に好意的です。日本で開催できるなら、アシスタントコーチ古海五月、マネージャー成井千夏と、長崎の高校出身が2名もスタッフに名を連ねている今年の全日本チームをなんとしてもロンドンオリンピックに長崎から送り出したいと思っています。二人が鶴鳴出身だというこだわりはありません。他校出身であっても思いは同じです。
10年04月21日(水) 2年前から辞任表明をしていた長崎県バスケットボール協会の理事長職を、本日19:00医学部会議室で行われた常任理事会で受理され辞任しました。理事長職が重かったわけではありません。協会の仕事から解放されたかったわけでもありません。4年前に、若手協会役員の育成のために1期(2年)だけ引き受けるという約束を2年遅れで実行しただけです。辞任後は副会長をという要請が再三ありましたがそれも断り、これからは無役となって若手の仕事ぶりを見守っていこうと思っていましたが、本日の常任理事会で私の副会長職が再燃し、その場の雰囲気からして無役を固持するのも大人げないと思い、副会長職を引き受けました。明日、女子アジア選手権誘致の条件整備の打ち合わせのため上京します。日帰りです。理事長であろうが、副会長であろうが、参与であろうが忙しいことに変わりはありません。
10年04月20日(火) 昨日の長崎西戦はプレスディフェンスのボール運びができませんでした。入学して2週間も経っていない1年生と、2年生であっても前十字靱帯損傷で入学後1年間ブランクがあった赤島と黒田に、プレスディフェンスのボール運びができるわけがないので焦りも苛立ちもなかったのですが、「あの時もそうだったよなあ」と、平成元年の松山インターハイで昭和学院のオールコートプレスを新入生の松山・浜口・松尾が全く攻めきれずに大差で負けた試合を思い出したとたん、ランニングスルー(続:チームを創る第4章ランニングスルー頁番号46)が私のアタマに蘇ってきました。今日は昨日休講にした授業の補講をしたので練習には1時間半も遅れましたが、私が練習に顔を出したあとの練習は残り時間の全てがこのランニングスルーだけ。21年ぶりです。なつかしかったなあ。でも楽しかったなあ今日は。
10年04月17日(土) 朝起きたらバリバリの筋肉痛でした。今日は春季選手権大会初日。マイクロバスは数年ぶりに満員状態。佐世保までの車中、岡村孝子さんの歌「夢をあきらめないで」をアルトグループとソプラノグループに分けて合唱しました。1年生はまだ歌ったことがない子が多かったので上級生に指導させ、1年生も歌えるようになったところで、私が左手でハンドル、右手で指揮をしながら本番。何回かのNGのあと、川棚を過ぎたあたりで合格!褒美にハウステンボス手前のコンビニでアイスクリーム買って食べさせました。ただし一人だけ、ところどころ口パクだけでやりすごした黒田だけはペナルティでアイスクリームなし!指をくわえてがまんさせました。
10年04月16日(金) 毎週月金はグラウンドランの日。月曜日はお休みしましたが今日は走ってみました。ひっさしぶりなのとこのところずっとコートで実際に動きを教示することが続いており、朝起きるのが辛いほど身体疲労が抜けないので走るのがとてもこわかったんですが、極端にペースが落ちることなく走り抜けたのでホッとしています。でも、また次回元気で走れるかどうかはわかりません。わかりませんが、「もう俺が先頭に立って見本を示さなくても選手達はやっていけるだろう」というメドがたつまではがんばり続けなければなりません。メドがたつのが先か、その前に私が潰れてしまうか、これはもう指導というより戦争です。
10年04月13日(火) 昨日のグラウンドランはお休みしました。短大の授業が16:10まであったことと、高校の授業が個人面談のための短縮授業で通常より早く終了したので私と選手の時間帯が合わなかったからです。グラウンドランはお休みしましたが身体は重いです。3月からずっと、ひっきりなしに声を出し、ひっきりなしに見本を示して見せるという練習が続いているからだと思います。あと1ヶ月で68歳になります。翌日の朝まで疲労が残っているのはやはり歳をとったからだと思います。60歳を過ぎてからよく言われることばがあります。「そんなに情熱が続くのはバスケットが大好きだからですよね」と。冗談じゃない。バスケットは奥が深く、いつまで経っても「おまえはバスケットコーチとして免許皆伝だ」という域に達することができないから続けているのです。
10年04月11日(日) 鶴鳴杯最終日。今年は優秀選手トロフィーに加えて副賞があります。それはマックグッズとJOMOグッズです。小磯典子(旧姓浜口=マック)が本当に引退したので自分が身につけていた物を送ってくれたのと、JOMO2冠達成の記念Tシャツが送られてきたので、それを副賞にしました。それは、鶴鳴杯参加選手だけでなく鶴鳴の選手にも行き渡りました。その中の一品を紹介します。それは、マックがアイシンで使っていたウェアーです。これはサイズからして川上にしか合いません。で、マックのお下がりが川上に回りました。オリンピック2回出場選手のお下がりが回ってくるなんて…。マックが引退する年に入学し、またサイズ的に合う選手が一人しかいなかったという条件が合わなければ起きないことで、まさに運命的な出来事です。「カワカミ〜い、リオデジャネイロオリンピック目指せよお」
10年04月08日(木) 今日は気分がブルーです。理由は、高城台ミニバスの指導が今日で最後だったからです。高城台に行けなくなったのは全く私の個人的な事情です。前に述べたように私は新しいことに取り組んでそれを選手たちに伝授している最中ですが、今は上級生に「下級生の指導を頼むよ」と言ってミニバス指導のためにチーム練習を空けられる状態ではありません。上級生ですら私が伝授しようとする内容を充分理解できていないので、新入生だけでなく上級生も含めて片時も目を離さずコートに立たなければならないのです。ですから、これまでは「他人に教えることも練習のうち」といって、選手たち数名を交代でアシスタントとして連れて行ってミニバスの指導をさせていましたが、そういう余裕が持てなくなってしまいました。平成8年のモーションオフェンスは、考え始めてからあの結果を出せるまでに7年かかりました。そのことから考えると、まばたきするのすらもったいないほど毎日選手を見守っていても(現在本当にそういう状態ですが)今伝授しようとしていることを選手が試合で表現できるようになるまでに最低2年はかかるだろうと思っています。これから先、鶴鳴が試験中で練習ができないなど、何らかの理由で高城台に顔を出すことができる日があるかもしれませんが、それとて年に何回あるかわかりません。というわけで、今日は高城台のこどもたちと事実上のお別れになってしまいました。保護者の方々にだけはこのことを前もって告げていましたがこどもたちには何も言っていません。ですからふつうに練習してふつうに帰途につきましたが、帰り際に数人のこどもたちが「ありがとうございました」とか「お世話になりました」と声をかけてくれました。私は「元気でな」とか「がんばれよ」ということばは敢えてかけず、「おう」と返事しただけで帰ってきました。研究室に戻って仕事を済ませ、このブログを書いていますが涙が止まりません。
10年04月05日(月) 遠征から帰ってきて2日間休養させ、今日の午後練習を再開しました。私は帰崎した2日の夜は溜まった仕事を処理してから寝たのですが翌朝起きることができません。それは4日の日曜日まで続きました。身体が鉛のように重く、身動きできないほど疲れているのです。たぶん、今回の遠征はとても神経を使ったし、JOMO合宿の最終日と徳島到着日とその翌日の午前中にクリニックをやったことが原因だと思います。クリニックは私がちょっとだけ見本を示すか、私が説明する動きを鶴鳴の選手がモデルになって実演していくというスタイルが多いのですが、今回のクリニックは鶴鳴の選手も私が意図するような動きはできないので、必然的に私がすべてをやってみせるというクリニックになってしまいました。だから疲れが尋常ではなかったのでしょう。
クリニックの内容を少しお話しましょう。それは、3月24日のブログで「私が65歳の時にようやく会得した技術を選手に仕込んでいるところです」と書いた内容と同じものです。平成8年に、長年考えていたモーションオフェンスを実際の試合でようやく使えるようになったということを私の本「大野慎子物語」に書いていますが、あれはチーム全体の動きについて考えたことでした。今回選手達に仕込んでいるのは、一言で言えば個人個人の動きの効率化です。65歳の時、選手たちが(それは鶴鳴の選手に限りません)軸足ではない方(フリーフット側)にドライブする時にぎこちない動きになることと突き出しトラベリングが多いのが気になって、それをどうやったら直せるかと考えたことが発端です。それが今は、ドライブに限らずボールを持っていてもいなくても、身体を動かすということについてはすべてこのような考えに基づいた方がよいと思うようになりました。難しい理論ではなく、選手達も簡単に理解できることなのですが、実行するとなると非常に難しく一朝一夕にできる動きではありません。キーワードは、重心、骨盤、体幹、腕振りです。
10年04月02日(金) 恒例の千葉→徳島合宿から本日19:40に帰ってきました。倹約して参加者10人に絞り込んだ遠征でした。28日から今日までの6日間。久松・川上・林田の新入生3人にはディープインパクトなみの体験だったと思います。私のアタマの中でも、スタメンに起用する選手の構想と、それによる試合展開のイメージが描かれては消され描かれては消され、徳島から長崎までの運転中もずっとそれは続いていました。久松と川上が絶対外せないスタメンであることは間違いないのですが、その他のメンバーが決まりません。出発時点では、ツーセンターの1−4スタイルでオフェンスを組み立てるつもりでしたが、それだとパッシングとムーヴィングが滞ります。すると、ワンセンターにしなければならないのですが、福井のスピードと林田の競り合いの強さ、赤島のシュート力と酒井のスリーポイント、この使い分けに悩むのです。特に、入学直後のACL損傷でまる1年まったくプレイをしなかった赤島が、とても気になる存在になってきたので当初の構想をもう一度見直さなければならなくなってきました。ウーン…。
ところでプレイのこだけではなく、今回の遠征で感じたのは「すべてのことを最初から教え込まなければならない」ということでした。具体例を挙げましょう。私たちが遠征でフェリーを使う時は夕食と翌朝の食料は買い込んで行きます。フェリーの中のレストランは料金が高いので節約するためです。しかし今回の遠征では私に何の相談もなく、私が風呂から上がって休憩している間に当然のような顔をして選手たちはレストランで食事を済ませていました。そんなことを指示しなければならないなんて夢にも思っていませんでしたが、考えてみれば新3年生と今春卒業した学年は選手層が極端に薄く、また、さかのぼれば4・5年前からいろんなことがあって上級生による下級生のしつけとか、受け継がれていくしきたりというものが皆無に近くなっていたのです。私はこの遠征から、桜馬場中学校の監督だった頃(40年以上前)と同じ気持ちで選手と接しています。
追伸:日立ハイテクのWリーグ復帰祝いを、青木コーチと私と三上先生(札幌創成)の3人でやりました。みなさん、JOMOの2冠達成もすごいことですが、入れ替え戦の壮絶さとそれを制することの重みというのは、それに関わった者しかわからないすごいことなんですよ。